芭蕉俳句と禅(1)
芭蕉(1644‐1694)の俳句が禅の心を反映していることはよく知られています。以下は小築庵春湖編「芭蕉翁古池真伝」(早稲田大学古典籍総合データベース、ネットで読めます)にあるエピソードです。禅の師仏頂(1642-1715)は常陸の国鹿島の根本寺住職。芭蕉は深川に住んで間もないころ、江戸に出て仮住まいをしていた禅師と運命的な出会いをし、川向うの臨川庵に参禅する日々を送ったと言います。貞享元年(四十一歳)、野ざらしの旅の途中、悟りを得たとか。悟りとは、芭蕉の言葉で言えば物我一致(智)すなわち、物(自然)も他人もすべてが我と一つである、という自覚です。その心境は、高橋怒誰(どすい、本名喜兵衛。近江蕉門の重鎮)あてた書簡(内容はネットで検索できます:筆者)からわかります。すなわち、怒誰(どすい)が禅の修行を進めていることについて、
御修行相進候と珍重、唯小道小枝に分別動候て世上の是非やむ時なく、自智物をくらます処、日々より月々年々の修行ならでは物我一智之場所へ至間敷存候。誠御修行御芳志、頼母敷貴意事に令感候。仏頂和尚も世上愚人に日々声をからされ候。
・・・禅の修行が進んでいるとのこと、結構なことです。ただ、枝葉末節に分別が働いて、世俗的な利害に心が安まるひまがなく、自分の小賢しい智恵で物が正しく見えない状況、これが我々の日常ですが、日々、月々、年々修行を積んでゆかなければ、物と我と一致する境地に至ることはあるまいと思います。真剣に仏道修行に専念しているお志がたのもしく、とりわけあなたのお気持ちに感銘を受けております。仏頂和尚も世間の愚かな人々を導こうと、日々声をからして教えを説いております・・・(現代語訳:田中善信「全釈芭蕉書簡集」新典社)。
物我一致
これこそ、筆者がいつもお話している、「『空』とはモノゴトを見た(聞いた、嗅いだ、味わった、触った)一瞬の体験だ」ですね。そこには見る筆者と、見られるモノゴトの区別はありません。あえて言えば、「見る私は体験の主観的側面、見られるモノゴトは対象的側面」にすぎないからです。禅では自他一如と言います。
芭蕉の悟り
芭蕉がまだその師仏頂禅師の元で参禅していた頃、ある日、和尚が彼に尋ねて言った。
仏頂「今日のこと作恁麼(そもさん)」(近頃どう暮らしておられるか)
芭蕉「雨過ぎて青苔潤う」(自然と共に暮らしております)
仏頂「青苔いまだ生ぜざる時の仏法いかん」(世界がまだ生ぜざる以前に何が在るか)。
芭蕉「蛙飛び込む水の音」(註1)
註1 この芭蕉の答えには「古池や」の初句はなく、後で俳句の形にするために追加されたものだと言われています。以上、「芭蕉翁古池真伝」より。
筆者の感想:つまり、蛙が水に飛び込んだ「ポチャン」と音を聞いた時、芭蕉はその音が「天地の音だ」と気が付いたのですね。筆者は「香厳撃竹」(香厳が庭を掃いていて、箒の先で払われて飛んだ小石が、かたわらの竹に「カチン」と当たった音を聞いて悟ったエピソードを思い出しました。
芭蕉俳句と禅(2)
「青苔いまだ生ぜざる時の仏法いかん」と仏頂が聞いたのは、芭蕉の禅の心境の深さを知るための「そもさん(禅問答で言う「さあどうだ」)です。つまり、「雨過ぎて青苔潤う」などと言うが、それでは「天地が始まる前の消息、つまり、父母(ぶも)未生以前の本来の面目)はどうなのだ」、をたずねたのです。それに対する芭蕉の「せっぱ(答えてやろう)」が「蛙飛び込む水の音」です。芭蕉は「ポチャンという水の音が、宇宙の一風景であること、我が身もその一部であることを直覚しました」ですね。
山路来て何やらゆかしすみれ草
静かさや岩にしみいるセミの声
荒海や佐渡に横たう天の川
などの句も同じく芭蕉の禅境を表わしたものでしょう。筆者は蕪村の俳句
月天心貧しき町を通りけり
さみだれや大河を前に家二軒
鳥羽殿へへ五六騎いそぐ野分かな
も好きです。心を歌ったものですね。しかし、芭蕉の俳句は心に沁みます。「古池や」の句を知らない人はいないでしょう。多くの人が俳句と言えばこの句を思い出すのは、それだけの理由があるはずです。
禅を学んでいますと、公案や語録の各所に「悟りとは神と一体化することだ」という意味の言葉が出てきます。禅特有の間接的表現で、ですが。あの空海が土佐の御厨人窟(みくろど)で悟りを得たことはよく知られています。難行の最中に明星が口に飛び込み、この時に悟りが開けたと伝えられています。空海の名は「自分が空と海と一体化した」と直覚したからだと言われています。
なんどもお話しているように、筆者は、生命は神が作られたと確信しています。それどころか宇宙まで神の創造物だとしか思えません。ビッグバンでは、何もないところで宇宙ができたのです。唯物論の大原則に反しますね。近年、宇宙物理学は急速な進歩を遂げています。しかし、「神」という概念を入れずに「何もないところから何かができる」などと言うことは、永遠に説明できないと思います。
初めまして。
後藤と申します。
芭蕉の俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」を思い出しふと気が付いた事があります。
「ポチャン」と水の音が聞こえた瞬間芭蕉の心の内に雷鳴が響き「ビッグバーン」が始まった と感じとりました。
当時は現在の様にネットも発達していなく2~3の書籍を調べて見ましたが、その様な解説はどこにも見つける事はできませんでした。
勉強不足で芭蕉古池真伝なるものが在ることも知らず今日まで過ごしてきました。
先生の文章を読ませて頂き同様の考えを持っている事を知り嬉しくコメントをさせて頂きました。
荒海や佐渡に横たう天の川
この俳句を詠みますと東日本大震災が重なります。
大地震が有ったにも関わらず春には桜の花が咲き、天の川は美しく輝いています。
川端康成「雪国」の一節にもこの句を思わせる文章が書かれていると思われます。
「国境の長いトンネル抜けると雪国であった。」
有名な一節ですが、「我々が突如として此の世界に現れて来た。」とかってに解釈していますが間違いでしょうか。
後藤様
メール嬉しく拝読しました。「古池や」の句をお読みになって芭蕉の「ビッグバン」をお感じになったとは素晴らしいことです。ぜひ「芭蕉古池真伝」をお読みください。ブロブにも書きましたように、原著をネットで読むことができます。現代語訳はまだないと思います。「荒海や」の句から東日本の再生を重ねられたのも素晴らしいと思います。かなり俳句の世界に造詣が深い方だと思いました。また、「雪国」は何度も読みましたが、後藤様のようには気が付きませんでした。両者について良い刺激をいただいたと思いますので、じっくり考えさせていただきます。
御理解頂き嬉しく思っています。
設計を生業としていますので、普段 禅、精神世界とは、かかわりは持っていません。
先生より少し年下であると思いますが、いまだ現役にてがんばっています。
周りにはこのような話をする友人もいなく、コメントも今回が初めてです。
「父母未生以前の本来の面目」 夏目漱石「門」の主人公に与えられた考案ですが、答は「私」で有る、「自己」無くして両親は在りえない その様に思っていましたが、芭蕉翁古池真伝により「なるほど」と自分なりに納得しています。
自身は「門」のなかには入れず、とは言っても見過ごす事も出来ず ただ「門」の前に佇んでいます。(小説と同様)
先生は神の存在を確信しているとの事ですが、私は哲学が人を救うものであると信じています。
なにぶん理科系出身の故、表現力の未熟な点はお許しください。
後藤様
「人を救うものは神の存在ではなく哲学である」について、
「すぐれた哲学は神の意志を人間の言葉で表したもの」だと思います。つまり、神と哲学は別のものではないはずです。この問題は重要ですから、近いうちにブログでまとめてとしてアップします。