禅思想のどこが東洋的か(1,2)

禅思想のどこが東洋的か(1)

 西洋的考えと言えば、唯物論ですね。仏教の唯識思想が、「モノという実体などない。人間の意識がとらえた幻影に過ぎない」と言うのとは対照的に、「私が認識しようとしまいとモノはある」と唯物論では言うのです。「そんなこと当たり前じゃないか」と言わないで下さい。唯物論的考え方こそ、現在世界各地で起こっている紛争や経済戦争の根源であり、人間の将来を危うくしているのです。

 「モノが何より大切」という考え方は18世紀末から19世紀初頭にイギリスで起こった産業革命から始まりました。それが思想に発展したのが唯物弁証法ですね。カール・マルクス(1818‐1883)やフリードリヒ・エンゲルス(1820‐1895)が有名です。唯物弁証法はもともと、「人間の精神は脳と言う物質の働きによる」という考えからスタートしたようです(註1)。

 しかし、じつは西洋にも禅とよく似た思想はあったのです。エマニエル・カント(1720-1804 )やGWF・ヘーゲル(1770-1831)が代表的な哲学者でした。上記の唯物弁証法哲学者たちとほとんど同世代であることにご注意ください。それでも時代の圧力により唯物弁証法がもてはやされるようになって行きました。しかし、そういう考え方によってどうしようもなくなっているのが現代世界で、ようやく禅のような東洋思想に目が向けられるようになったのです。

 筆者にとってはマルクスやエンゲルスの唯物弁証法より、毛沢東の考え方がなじみ深いです。学生のころ、毛沢東の「矛盾論・実践論」(岩波文庫)をテキストにして勉強会をしたことが懐かしく思い出されます。そこでそれを思い出しながら、かれらの考え方についてお話します。

 毛沢東は「矛盾論」で、
 ・・・唯物弁証法の観点からすれば、自然界の変化は、主に自然界の内部矛盾の発展によるものである。社会の変化は、主に社会の内部矛盾の発展、すなわち、生産力と生産関係との矛盾、階級間の矛盾、新旧間の矛盾によるものであり、こうした矛盾の発展が社会の前進を促し、新旧社会の新陳代謝を促すのである・・・

 つまり、
 ・・・自然界も人間の社会も、モノゴトが発生する原因は内部に矛盾があるためだ。その矛盾は対立する二つの要因を抽出し、分析し対比して、そのギャップを克服ないし止揚する(より次元の高いものにする)ことで解消される。すなわち、国家でしたら為政者と国民、会社でしたら資本家と労働者がお互いに矛盾する立場であり、その矛盾は闘争によって克服されなければならない・・・と言うのです。

註1この考えは現代でもさらに精緻になって続いています。

禅思想のどこが東洋的か(2)

 毛沢東が「その矛盾は対立する二つの要因を抽出し、分析し対比して、そのギャップを克服ないし止揚する(より次元の高いものにする)ことで解消される」と言っているのが、まさに西洋的唯物弁証法の考え方です(註2)。一方、禅の考えでは、分析して比較することは一切しません。それはたんに倫理的とか道義的理由からではないのです。禅思想の原理ゆえです。筆者は「空とは、見たり聞いたりする一瞬の体験だ」と、このブログシリーズでくり返しお話しています(註3)。「一瞬の体験で観たモノゴト」には「あれは〇〇だ」という判断すらありません。禅で言う「鳴らぬ前の鐘を聞け」とは、「ゴ―ン」という音を聞いて「アッ鐘の音だ」と判断する前の純粋な体験こそがモノゴトの真実の姿だと言うのです(註4)。ましてや比較・評価などあるはずがないのです。

ですから、現在世界各地の紛争や社会問題の原因となっている宗教・宗派の違い、学歴、職務上の上下、世俗的な能力のあるなし、資産の多寡など、禅ではまったく斟酌しません。当然でしょう。悟りの支障になるからです。

註2筆者は40年以上にわたって生命科学の研究に携わってきましたが、その研究方法は唯物論です。現代自然科学の研究法は、徹底的にモノやコトを分析し、比較します。

註3現代のいろいろな本やブログを読んでいただければお分かりのように、「空」思想の解釈はじつにさまざまです。しかし、筆者のような解釈こそ、「なぜ禅では分析・判断を嫌うのか」をよく説明できると思うのですが。

註4カントやヘーゲルの流れを汲む西田幾多郎の思想では「純粋経験」と言っています。「純粋な経験」なのです。

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