永平寺・禅の世界について(1)

永平寺・禅の世界(1)

 先日NHK特集「永平寺・禅の世界」が放映されました。冬季には1mを越す雪が降る厳寒の土地です。雲水たちによる真摯で厳しい修行の様子が改めて認識され、身が引き締まる思いがしました。パソコンもテレビも、新聞・雑誌もなく、私たちが言う、いわゆるリラックスする時間もないようでした。冬季の3か月間は外出もせず、ときには1日10時間も坐禅をして過ごすとか。道元以来800年にわたってほとんど変えられることなく続けれらえることにも感動しました。さらに、修行に励む修行僧たちの清らかな容姿が印象的でした。

 番組では、「正法眼蔵・現成公案編」の一節、

 ・・・佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり・・・

が繰り返しナレーションで語られました。その意味は、単頭(指導者)の

 ・・・自分の我見、我を(修行によって)落としていくと、迷い自体が少なくなっていく・・・自分が考えていたような「私」を一度投げ出したとたん、僧たち一人ひとりは宇宙の、大自然の姿そのままだ・・・自分が今置かれていることを「我」を捨てないで務めていれば、迷いの中にあるのは当然でしょう・・・「迷中迷」の中にあるわけですから、自分の内側でなにが自分に欠けていているのか、何を自分が欲していて、なぜそいう思いが湧いて来るのかを整理してゆくことが必要なのではないか・・・

の言葉から明らかなように、道元の言葉「自己をならふ、自己をわする」、とか「身心脱落」の意味を、「我見、我を捨てること」と、文字通りに理解しています。そしてナレーターは「自己をわするるといふは萬法に証さるる」を、「我を捨てれば、森羅万象すべてによって悩みや苦しみから解放される」と説明しています。さらに、「坐禅とはひたすら自分の内面を見つめて、我見や強い自我がないかどうかを検証して行くこと」と言っていました。もちろんこれらのテレビで紹介された言葉は、永平寺当局によって厳密に監修されているはずです。つまり、これらが禅についての永平寺の公式な見解でしょう。

しかし、道元の真意は別のところにある、と筆者は思っています。

 まず、「我見、我を捨てること」は、仏教のどの宗派でも言われていることです。道元がわざわざ、禅のハイライトとも言われている「正法眼蔵」のこの個所で取り上げるはずがないでしょう。じつは道元はここで、「空」の理論を説いているのです。筆者はこれまで繰り返し、「空とは、見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)という一瞬の体験だ」とお話してきました。一瞬の体験においては、「我」も「他、すなわち対象となったモノゴト」も「ない」のです。「体験」だけがあるのです。それを「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」を指すと思うのです。さらに、「萬法に証せられる」とは、「一瞬の体験で観た(聞いた・・・)モノゴトの姿こそ真実を表わしている」と言う意味だと思います。

 筆者の解釈が、道元思想の本家・永平寺当局の解釈とどれだけ違うかおわかりいただけると思います。

「永平寺・禅の世界について(1)」への3件のフィードバック

    1. 岩村様
       久しぶりのメール嬉しく拝読しました。もう少し詳しくお書きいただけるとさらに嬉しいのですが。

  1. 「経験だけがある」という事実について俄にコメントができないので、取り敢えず、西田幾多郎著『善の研究』第2編第2章「意識現象が唯一の実在である」から引用し、私のコメントに換えます。

     少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。

     我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。意識が身体の中にあるのではなく、身体はかえって自己の意識の中にあるのである。

     永平寺の雲水を指導する立場にある人が「身心脱落」を云々するのであれば、せめて上記の「事実」を自覚して欲しいと思います。

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