以下は、読者bompuさんのご質問と筆者の感想です。bompuさんからはこれまでにも何度もご質問をいただきましたが、どれも適切で、よく勉強していらっしゃることがわかり、
充実したやり取りになっています。
bompuさんのご質問:
・・・六根の内の「意」と六境の内の「法」との出会いですが、これは具体的にはどういう経験(体験)なのでしょうか。妄想(思慮分別、価値判断、感想)をさしはさまないということは、「意」は、思慮分別、価値判断、感想ではない、何か、言うなれば〈精神的〉な働きですね。それはどんなものでしょうか。統覚とか、悟性あるいは、意志?意識?といったものでしょうか。また「法」とは何でしょう、「色声香味触」とは異なる、「存在」とか、「真理」とかいった〈抽象的〉なものでしょうか。
どうも、この「意」や「法」が禅を理解する上での躓きの石となっております。「意」には、思慮分別、価値判断、感想の働きもあるのではないか、とつい考えてしまいます。「意」にはそういう働きはないとすれば、この思慮分別、価値判断、感想はどこで行われているのでしょうか。あるいは、「意」にはそういう働きもあるが、ストップもできるのだということでしょうか。「法」についても、「仏道」と「仏法」とはどう違うのか、といったものです。
中野さんがときに引用されます、師匠につかずに悟ったというあの方も、「法」に悖るかどうかで、その禅僧が悟っているかどうか一発で分かるとか・・・・
以上くだくだしく述べてきましたが、どこで迷っているのか、ご教示いただけますならば、幸甚に存じます。よろしくお願い申し上げます。
筆者の感想:
1)「意」と「境」の出会いについて:
まず、六根のうち、眼・耳・鼻・舌・身などと意とは本来カテゴリーが違うものだと思います。前五者は感覚、つまり、たとえばカメラで言えばフィルムに映ったもの・・・というふうに。それに対し「意」は判断、たとえば「赤い・青い」、「きれい・きたない」とか、「うまい・まずい」ですね。見たもの、味わったものについての判断ですね。仏教ではよくこういう、本来カテゴリーの違うものを一まとめにすることをよくやります。あなたが、
・・・「法」とは何でしょう、「色声香味触」とは異なる、「存在」とか、「真理」とかいった〈抽象的〉なものでしょうか・・・
と「なにかおかしい」と思っていらっしゃる原因はここにあると思います。事実、仏教には眼・耳・鼻・舌・身を五識とし、意(識)と分けるやり方もあります。さすがに誰かが一まとめにするのはおかしいと気づいたのでしょう。
さて本題にもどりますと、「意」に対する「法」は、本来「ダルマ(原理)(註1)」です。その人の価値判断の基準ですね。その基準はあくまでもその人固有のもので、正しいかどうかとは別のものです。ですから、般若心経で、「悟りとは無眼・耳・鼻・舌・身・意」と言うのですね。「悟りとは、あなたが見たもの、聞いたもの・・・とそれに対する判断を超越したものだ」という意味だと思います。
2)仏法とは宇宙原理。仏道とは仏への道、つまり修行のことだと思います。
(註1)「本来・・・」と言いましたのは、ダルマがいろいろなニュアンスで使われているからです。本欄では上記のように「あなたの価値判断基準」という意味で使いました。