神は人が乗り越えられないような試練は与えない

 東日本大震災で大切な家族を亡くした人の中には、当時よく言われた合言葉「がんばろう」とか「絆」、「立ち上がれ」にさえ、強く反発している人も少なくありません。筆者は以前から、このブログを書く理由の一つが、そういった耐え難い苦しみを持った人たちの心を癒す少しでも力になればとの思いです。

 作家の田中澄江さんは、息子さんが子供の時から重い脳の病気で、音楽教師だった娘さんも若くして脳溢血で体が不自由になったという苦しい人生を送った人です。「遠い日の花のかたみに」(婦人画報社)の中で、

 ・・・瀬戸内寂聴さんから、「あなたの家は熱心なカトリックで、お嬢さんも熱心な信者なのに、病院の処置が悪くてひどい目になって、神様を恨まないんですか(註1)」と尋ねられ、「神さまのなさることはまちがいがない。娘はこういう苦しみに突き落とされたけど、その意味はきっと今にわかることと思っている。でも、山のてっぺんで神様助けて下さいと、祈りながら泣くこともあえいますよ」って・・・とあります。
田中さんは紫綬褒章や読売文学賞を初めとする数々の文学賞を受賞し、93歳まで生きました。優れた作家、脚本家として立派な人生を送った人です。

註1 瀬戸内さんはひどい腰痛で苦しんだとき、あまりの辛さに「神も仏もあるものか」と言った人です(このことは以前のブログで描きました)。

 しかし、大震災の遺族の皆さんにとって、「神様は、人間に耐えられない苦しみは決してお与えにならない」の言葉は癒しになるでしょうか。じつは、聖書の原典ではちがった表現なのです。「カソリック・プロテスタント共同訳聖書」コリント人への第一の手紙10章13節に、

 ・・・神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます・・・

とあります。大切な部分はむしろ後半なのです。つまり、 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいますに主眼があったのです。素晴らしいしい言葉ですね。聖書には珠玉のような言葉が満ち溢れています。

 禅では「昨日の苦しみは過ぎ去った。明日はまだ来ない。しかし今日一日は耐えられそうだ」と言います。末期の胃ガンで苦しむ人で、ちょうどこのようにして毎日を乗り切っている人が、ギリギリの状況でつかんだ支えの言葉だと思います。

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