読者のご質問(15)

禅と浄土思想は矛盾するか

 次のようなご質問がありました。他の読者にも参考になると思いますので、あらためてここで私見を述べさせていただきます。
宮本様のご質問:
 幼少の頃より信仰してきたキリスト教者の話を並列して法然さんの真髄を語られましたが、禅徒として如何に考えるか困っております。
絶対神を信じない人達は無神論者と一口に片附けられます。浄土地獄を信じない私は本質無宗教者なのかも知れません、が、禅の考え方に沿うとしております。
その禅に於いても葬儀では南無阿弥陀仏を唱えます。私も名号は所有しております。
仰る法然さんであれば現在の浄土教団と浄土僧侶は不必要と考えますが、禅の自己追及において念仏をどのような位置づけに考えたら良いでしょうか。法然さんの心に従えば禅は逆説的に時間の無駄となります。
知る浄土宗住職さんは「座禅組みながら念仏を唱えるのが良い」と苦し紛れの言葉を発しております。(笑)
よろしくお願いします。

筆者の感想です:宮本様の御質問はいくつかの部分に分かれていますので、分別してお答えいたします。まず、
1)地獄極楽思想は日本仏教の妄想で、釈迦の思想にはありません(すでにブログでお話しました)。それゆえ地獄極楽を信じない宮本さんは無神論者ではありません。
2)「心の平安」のためでしたら現在の浄土教団と浄土僧侶は不要です。親鸞も「歎異抄」の中で、「父母のために念仏したことはない」と言っています。ただ、寺にはもう一つの意義があります。それは門徒の墓の管理者としての役割です。江戸時代以降400年の歴史があり、先祖も「南無阿弥陀仏で供養してくれ」と願っています。筆者自身は禅を実践していますが、実家の宗旨は浄土真宗です。それは変えることはできません。先祖が承知しないでしょう。法事の時は南無阿弥陀仏と唱えます。少しも問題はないと考えます。
3)禅の大家道元も究極的には仏を信じています(ブログでお話しました)。浄土思想と同じなのです。少しも矛盾しません。
4)エベレストに登るにはいろいろなルートがあります。禅も浄土思想もルートが違うだけで目標は同じ「心の平安を得ること」です。「坐禅をしながら念仏を唱える」には笑えます。その僧侶はルートが違うのに同じだと思っているのです。それでは遭難してしまいますね。
5)キリスト教も浄土系宗派も神(仏)にたいする絶対的な信頼があります。ただ、「絶対的」であり続けることは、よほどの信念がないと無理でしょう。「心の底から信じられるかどうか」ここがポイントなのです。あの東日本大震災で、津波で流されている人たちを目の当たりにして「神も仏もあるものか」と言った僧侶がいました。もちろん失格ですね。

6 thoughts on “読者のご質問(15)”

  1. ご返事ありがとうございます。
    私の質問に「禅と浄土思想は矛盾するか」と云う風にタイトルをつけて下さり有難うございます。
    答えは【YES】と受け取りました。
    法然さんの悪人正機説、往生還相廻向思想は私には到底理解不能です。仲の良いご近所浄土宗ご住職には(教祖と宗祖)の関係をお聞きしているのですがお困りのようです。現代の荒れた世相に日本仏教が少しでも影響を与えれば良いなと感じています。
    入塾したばかりで殆どのブログは未読です。これからおいおい読み参考にさせて頂きます。
    修行する身ではありませんので時におかしな質問をしてもどうぞご容赦願います。宮本。

    1. 宮本様
       喜んでいただけて幸いです。少しでも多く私のブログを読んでいただければ嬉しく思います。ご質問は参考になることが多いので、どうかお気兼ねなくお尋ねください。

  2. 今日は。宮本です。
    禅を語るブログとは少し離れた質問をさせて下さい。
    墓守、墓仕舞いといった現代メディアに取り扱われる問題です。
    家を継ぐという事は墓守という役目も負う訳ですが、中野師も「実家は浄土真宗でそれを変える訳にはいかない」と仰っています。これは個にとって宗教の選択が困難な事を指しているわけです。
    ダライ・ラマ師は「色々な宗教を懐疑的に調べそして選び帰依すべき」としきりに言っていますが、彼の母国はチベットですからそう言えるのかも知れない。が、この現代の日本では跡継ぎは自ら選べない。お寺からの催促はやたらに煩いし大変な訳です。お寺サイドは寺維持に必死な訳ですね。
    私の家は、父が次男でしたから私が墓を建てた新家です。そして私は墓石に・・家といった名は刻まず好きな「天地有情」と刻んでおります。寺役員衆からは質問を数回寄せられました。
    一方、父の実家を守る従兄は大変です。歴代の、しかも名前の分かっていない人までを祀っているわけです。が、彼の宗教的興味は禅に向かっております。
    彼は個としては禅に向かうが死して浄土宗に祀られるのは疑問であるし不快である。という事なのです。
    永代供養の場合、50年を境に「神様になったから」との理由で寺側(すべての宗派?)は遺骨を纏め廃棄するようです。
    では、家を継いだ当主が宗教的判断から従来の檀信徒の立場を離れ(親族の了承の下)墓を縮小なり転出するなり廃棄することは許されないのでしょうか。
    祀られている先祖はどこへ行くのでしょうね。
    又、永代供養が50年、神になるから・・・との言葉を使う寺。寺は「仏」より「神」を信仰している事に気が付いていない。・・・私には仏教の矛盾を感じる点です。
    墓の管理者である寺の、仏と神の説明にまったく納得していないのです。
    最近の私と従兄の話から墓問題の処理に疑問を持った為、面倒な質問をしました。
    墓仕舞いの問題は少子化が取り上げられますが、従兄の持つ面は無視されています。中野師はどうお考えになりますでしょう。
    ブログとは離れた質問ですのでご返事頂いた後には消去して下さい。よろしくお願いします。

    1. 宮本様
       大切な問題ですから、しばらく保存しましょう。ご質問に関する私見は以下のとおりです。
      1)霊はありますから、宗旨を変えれば先祖は悲しむでしょう。私も禅を志向しますが子孫が念仏で供養してくれても何の違和感は感じないはずです。供養とはなによりその気持ちが通じることですから。宮本さんの従兄弟さんのお考えは少し偏狭と思います。2)墓地の廃棄や移動にはこの世的な問題と、あの世的な問題があります。イ)この世的な問題とは、元のお寺への謝礼と墓石の廃棄、跡地の整備、新しい墓地の整備はもちろんですし、新しいお寺への謝礼も必要です。両方合わせて相当な金額を覚悟しなければなりません。ロ)あの世的な問題とは、先祖の御霊を元の墓石から新しい墓石に移ってもらわなければならないことです。ちなみに、霊は普段はそこには居ませんが、供養する時その墓石に戻ってくると考えられます。墓石はこの世への窓口だと思います。墓地を移動するとき大切なことは、霊にも移っていただかねばならないことです。それにはある修法が必要です。新旧の墓地の僧侶にしていただかなければなりませんが、彼らにそれだけの能力があるかどうかが問題です(聞けば必ず「できる」と言うでしょうが)。
       つぎに筆者自身の体験をお話します。中野家では新しい墓地を作りました。両親が入っています。古い墓石は15軒以上の親族共有です。ただし面識はほとんどありません。そこで、近くそこに入っている祖父母や叔母たちの霊を、同じ敷地内にある新しい墓石に移っていただく予定です。すべて50年以上前に亡くなっていますが供養の対象としています(それにしても僧侶が説明のなしに「50年経てば神になる」と言うのはひどすぎますね)。それらの霊に移っていただく修法は私が行います。霊的な修法については一応経験がありますのでたぶんできます。お寺の僧侶にお願いすれば謝礼も必要ですし、彼らにその能力があるかどうかもわからないからです(秘密ですが)。家内の実家の供養も私共夫婦が代行しています。正式には後を継いだ私の下の息子がやるべきですが。遠方にありますし、古い家系で墓石群も多いので、移すのは大変です。そこで3年毎に私共夫婦が遠路供養に行っています。今後もできる限りそうするでしょう。後は息子が考えるはずです。

  3. ご返事ありがとうございます。
    墓に対してのお考えは理解しました。ご両親の霊を祀るのに墓を新しくした気持ちも理解しました^^。
    ところで、質問の事柄は教団なり学者、憲法学者も交えて議論すべきと考えますが、現実は曖昧で墓仕舞いの道へ進むだけでしょうか。
    「後は息子が考えるはず」とバトンタッチに楽観視されておりますので羨ましいですが、従兄は「先行き息子が大変で可哀想・・」と思いめぐらしています。
    息子を思う気持ちが底に有る訳ですから偏狭という言葉は言い過ぎです。
    ちなみに私は新家ですので臨済宗の寺へ墓を建てました(父実家は浄土宗)。気は楽です。禅にも素直に向き合うことができます。息子も同意して呉れております。が、古い家の次代相続者は相続と共に墓守も受け継ぐのが現実です。従兄としては面倒は起こしたくない愚痴にしたい問題です。が曖昧さは残り気分は悪いでしょう。議論してもまとまる話ではないですが、中野師にお聞きしてみました。
    ご返事ですと新しい墓石はどちらの宗派なのか不明です。ご実家の宗派そのままであれば、複合思考は私には苦手となります。
    家々の置かれた立場でも異なりますから、この問題への質問は以上にします。
    ありがとうございました。  宮本。

    1. 宮本様
       新しいお墓はもちろん浄土真宗です。禅=禅宗ではありませんし、禅宗と浄土真宗とは相容れないものではないのです。区別することは禅の心に反します。供養はなにより心の問題なのです。息子は息子、孫達は孫達だと思っています。なにより今から彼らと良い関係を作って置くことでしょう。でなければお墓参りもしてくれないはず。お墓以前の問題ですね。

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