「相手から裏切られた。怒りが収まりません」という、読者からのご相談がありました。答えはただ一つ「早く怒りを止めて下さい」です。「相手の裏切り行為は相手のもので、あなたのものではありません。重要なことは、じつは相手にたいする怒りや恨みで苦しんでいるのはあなたの方なのです」。それに早く気づくといいのですが。
どんな宗教でも「こだわりを捨てよ」とあります。しかし、それが簡単でないことは、誰でも身に沁みて知っていることですね。あの、元薬師寺館長高田好胤師の「広く、広く、もっと広く」はとても良い言葉だと思いますが・・・。
筆者の古い友人たちのことです。二人は60年以上にわたる、ほとんど仇敵同士です。どういうわけか双方、相手のごく個人的な秘密、それも社会的には公言できないようなことまでも知っており、筆者に話してくれます。筆者が共通の友人であることも気が付かないのです。相手を非難する人は、必ず相手もそれをわかり、非難を返してくるのです。おそらく片方が死ぬまで、いや死んでも関係が回復することはないでしょう。恨みを持って恨みに返せば恨みは消えることがないのです。一体どうするつもりでしょう。
筆者は定年後、中学時代の友人たちと付き合うことが多くなりました。クラス会や学年会と言うと、いまではすべて中学時代の關係です。彼らから学ぶことが非常に多いのです。まず、彼らは民生委員や保護司など、誰かがやらなくてはならないことを何年も、もちろん無償でやっていました。彼らの話を聞いてみますと、たとえ善意の行為でも、腹立たしいことが返ってくることも少なくないようです。忍耐がなければできない仕事なのです。たとえば保護司の友人は「激しく反発されることもある。相手に来てもらったり、こちらが行ったりすることになっているけど、相手が来ないことがよくある」と言っていました。別の一人は「世の中いろいろな人がいるのだ」と言っていました。それが不愉快なことをクリアする彼のノウハウなのです。よい言葉ですね。だと思います。大乗経典の大きな趣旨は、「自未得度 先度他(たとえ自分が悟りに至ってなくても)人のために尽くす」です。
友人の中には、大会社の幹部のような「偉い人」もいます。中には過去の立場を未だに引きずっている人が少なくないのです。上記の「仇敵同士の二人」も、現役時代は「偉い人」でした。一方、地道に社会貢献している人たちは、あるいは不動産屋の親父だったり、一会社員であったり、一農民であった人たちです。主婦として過して来た人もいます。彼らはいつも明るく、親切で、付き合うのがまことに楽しいのです。
そういう友人の一人から最近聞いた話です。末期ガンで入院していた友が「君だけには聞いてほしい」と、病院から連絡があった。駆け付けると、話し始めたところたびたび眠ってしまうので、「明日も来るから」と言って帰ったとか。翌日行ってみると「今朝亡くなった」と。眠ってしまったのではなく、重症で気を失ったのですね。彼は遺言をしたかったのでしょう。近所の同級生と金銭上のトラブルがあったようなのですが。「それを聞けなかったのが心残りだ」と、昨日も残念がっていました。「最後の心残り」を話たかった唯一の人間だったのですね。
天は公平です。中学時代の人達とは、最近なにかと理由を付けて集まります。しかし、その「近所の同級生」や、「偉かった」人には、「集まろう」と回りから声を掛けてもらえることはないのです。