「空」と「無」(「弓と禅」続き)
以前のブログで「弓と禅」についてお話しました。その時にもお話しましたが、少しわかりにくいとのご指摘もあり、もう一度お話します。
中西政次著「弓と禅」(春秋社)に弓道の師、第二代鷺野暁師範との興味あるやり取りがあります。
弓の中級者で禅の修行も積んでいた中西氏(註1)が、師範に、
中西氏:(弓道の大先輩であり、禅にも造詣が深い)F氏が、「弓を打ち上げた時
(弓に矢をつがえて頭上に挙げた時)無の境地になる」と言われましたが、
正しい見解ですか」
師範:正しい見解です。弓を打ち上げた時だけでなく、始めから終わりまで「無」の状態
です。
中西氏:F氏は「無とは空であり、何物もないことだ」と説明されましたが、私が坐禅
でわかった無の見解は何物もない”ということではないのです。何もないと
いう見解が正しいのであれば、弓と禅とは一致しないような気もしますが。
師範:有るとか無いとかの相対界の無ではなく、相対界を越えたものです。
中西氏:「凛然たる気、純一無雑な心は「無」という言葉で表現するのは不適当だと
思います。それは「絶対有」あるいは「真の実在」というべきであると思い
ますが・・・。
師範:F氏の無の意味も有限界、相対界の無ではないと思います・・・あなたの言われ
る「絶対有」というのも世間の一般的な言葉では「何物もない」というように
表現したり、「空」と表現します。
註1中西師はのちに明らかに悟りの境地に達しました(その内容については以前のブログをご参照ください)。したがって中西師とお呼びしたいのですが、今回は悟りの前の言葉として「中西氏」と呼びます。
筆者の感想:
F氏の言う「無とは空であり、何物もないことだ」は誤りです。何度もお話しているように「空」と「無」はまったく別の概念です。したがって中西氏の言う「無の見解は何物もないと言ってしまったら、弓と禅とは一致しない」は正しいと思います。さらに、師範の言葉「有るとか無いとかの相対界の無ではなく、相対界を越えたものです」も誤りと思います。なぜなら「相対界の無ではない無」と言うなら別の用語を持ちるべきですから。
そして中西氏の言う「(空とは)絶対有あるいは真の実在のことだ」は正しいと思います。筆者も「空とは真の実在だ」と考えています。ちなみに筆者は、絶対有という言葉は好きではありませんが。やはり中西氏の方が師範より心境が進んでいると思います。