而今(2)

その1) 而今(にこん、じこん)は禅の重要な概念と言われています。「いま」の意味ですね。一般的には「過去を悔やまず。未来を憂うことなく、今、この瞬間を大切に生きなければならない」と解釈されています。道元禅師(註1)や筆者の解釈は異なるのですが、「この瞬間を大切に生きなければならない」も大切な言葉ですから今回はそれに沿ってお話します。

 筆者が家族ぐるみで付き合っている友人が突然ガンと診断され、「治療をしなければあと半年の命だ」と言われました。本人に告知すればどれほどショックを受けるでしょう。彼の縁者には抗ガン剤による副作用で苦しみぬいて亡くなった人もいるのです。費用のことも気がかりです。いくら親しくても筆者が判断することはできません。あくまで本人と家族が決めることです。期限は迫っていました。

 数日後、彼の長男から「抗ガン剤治療をうけることに決めた」との連絡を受けました。スマホで孫のメッセージ画像を見せて必死に説得したとか。筆者も他に選択肢はないと思っていましたので、心からホッとしました。その息子が言ったことが尊いのです。「抗ガン剤の副作用があるかもしれない。抗ガン剤が効かず、半年後に死ぬことになるかもしれない。でもお父さんの今日が良ければいいように、そういう一日、一日が続くように、家族ができることに最善を尽くします。突然こんなことになってしまった。でも逆に、どんなよい方向に事態が展開するかもしれないからこの方法を選びました」と言ったのです。

 彼の長男は禅のことなど知りません。筆者のブログも読んではいないでしょう。しかし、ギリギリの状況で選んだ判断が、はからずも禅の要諦だったのです。

 友人は仏様のような人です。人を傷つける言葉も、大きな声を出したのを聞いたこともありません。そんな人でも報われることが少ない人生だったと思います。人生の帳尻は合ってしかるべきでしょう。奇跡が起こることを信じています。

註1 筆者の解釈については、当ブログシリーズをお読みください。 道元は「正法眼蔵・大悟巻」で・・・いはくの今時は、人人の而今なり。令(たとい)我念過去未来現在、いく千萬なりとも今時なり。而今なり。人の分上はかならず今時なり(たとえ、どれほど過去や未来のことを思おうと、それは現在の私が考えているものだ。人間の本性は必ず今だ:筆者訳)・・・と言

その2)矢方美紀さん「乳がんダイアリー」

矢方美紀さん(26)は、元アイドルグループSKE48の中心メンバーで、現在はフリーのアナウンサー。ナレーターやアナウンサーの仕事をし、本格的な声優を目指している人です。2017年秋に乳ガンであると診断され、翌年4月に左乳房と付近のリンパ節の摘除手術を受けました。長く活動を停止していることを不思議に思ったファンからのメールを受けて、病気のことを発表することにしたと言います。現在では自分のホームページを通じて、定期的に「乳がんダイアリー」動画を発信しています。矢方さんは言います「事情を隠すよりきちんと説明した方がいい。隠して活動すれば、いつかモヤモヤする時もきっと来るだろう。病気を公表して私らしくやりたい」と。

 矢方さんの治療は前記の手術に続いて2か月間は定期的に抗ガン剤の服用、次の3か月は別の抗ガン剤、その後1か月は放射線治療に切り替える他、一日一錠、抗女性ホルモン剤を10年間にわたって飲み続けるという過酷なものです。これらの治療にはかなり深刻な副作用が伴うことはよく聞きます。どうしようもないだるさ、抜け毛、手足のしびれ、体のむくみ、体が火照るホットフラッシュ・・・。矢方さんも抗ガン剤の開始後2週間目から抜け毛が始まり、やがてすべての毛髪が無くなってしまいました。女性にとってどれほどつらいことでしょう。ウイッグを付けていますが「バレていないかなー」といつも気にしている。夏は暑さで「汗がダーダー」。

 筆者は「乳がんダイアリ-」を見て、心から矢方さんを尊敬しています。いつも明るく、「明日は抗ガン剤投与の日。いやだなー。抗ガン剤の後はしゃべる力が入らない。・・・今日は体調が悪いのでもう寝ます・・・ウイッグを取ったらお母さんから『お化けみたい』とからかわれた」。大人の男でも周囲にガンであることを告げるカミングアウトする勇気がない人は大勢います。矢方さんは治療期間中も活発に仕事を続けています。

印象的だったのは矢方さんの次の言葉です。

・・・ガンの当事者になったら世間(ガンではない人たち)とのズレを感じる。「仕事をしてえらいね」と言われるけど、私は当たり前のことだと思っています。それを皆さんに伝えたい・・・。今までは不安と治療のつらさがあった。今後病気がどうなるかわからない。しかし今を楽しむことが大切・・・ギリギリの状況の中で必死になって選んだ言葉がこれです。これこそ而今ですね。

 矢方さんはちょうど一年後の「検査で異常なし」と診断されました。「乳がんダイアリー」は今も続きます。

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