拈華微笑(山川宗玄師‐1,2)

(その1)

 筆者が尊敬する山川宗玄師(岐阜県美濃加茂市臨済宗正眼寺・正眼僧堂師家)がNHK「心の時代・禅に学ぶ」で、公案拈華微笑について解説していらっしゃいました。公案とは過去の修行僧たちが悟りを開いた時のヒントになったエピソード集が、無門関や碧巌録としてまとめられており、その幾つかを禅の修行の中で師家(師匠)が修行僧に問題として与えます。その代表的な一つに拈華微笑があるのです。

 世尊、昔、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟(ただ)迦葉(かしょう)尊者のみ、破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相の微妙法門あり。不立文字教外別伝 摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す(「無門関第六則 世尊拈華」)。

(ある日のことブッダは霊鷲山での説法において大衆にむかって静かに金波羅華〈こんぱらげ〉という花を高くかざして示された。このとき大衆はその意味が分からず、ただ黙ったまま何の言葉も出せなかった。このとき一番弟子の迦葉尊者だけが破顔し微笑したのである。この微笑にブッダは迦葉こそわが真意を解した。「吾に、正しき智慧の眼(法眼)をおさめる蔵があり、涅槃〈悟り〉に導く絶対なる法門がある。この法門は言葉によらず、文字によっても教えられない。微妙の法門である。この我が真実の法の一切を摩訶(まは)迦葉に伝える。

 山川師は、「師匠から拈華微笑の公案を与えられて一応は合格したが、何か引っかかるものが残った。その後派遣されて和歌山県の興国寺へ行った。本尊は釈迦牟尼仏で、通常の座禅ではなく、花をかざした(拈華)お姿だった。2-3年後、たまたま来訪した観光客に『これは珍しいブッダのお姿ですよ』と説明し、釈迦牟尼仏を指さしたとき、ハッと気づいた。『花が咲く』は『咲(わら)う』だ。花が咲き、花が笑い、迦葉尊者が笑い、ブッダが笑った。天地が笑い、神仏が笑い、花が笑った。その笑いの中で一つになった。それを了解しました。そのとき初めて私は霊鷲山でブッダが話をされているところへ私も行けたなと思いました。禅の目的は己事究明(己とは何かを知ること)です。以前、師からこの問題を与えられた時、一応は答えられましたが、そこのところがわからなかったのです。今まで本の中で知っていたことが自分の問題として解けたということです」。

「わかった」という体験を口で表現するのは山川師にとってもむつかしいでしょう。もちろん公案についてはいろいろな解釈があってもいいと思います。筆者が山川師のこの説明を理解できなかったのかもしれませんし、山川氏が「ハッと気づいた」のが誤りだったとは思いません。ただ、どうも山川師のこの解説は正しいとは思えないのです。

その2)

 まず、釈迦がこんな芝居じみたことをするでしょうか。それだけで筆者は「?」と思うのです。禅を学ぶとき、もちろん仏教を学ぶときも、こういう判断はとても大切だと思います。事実、このエピソードが載っている「大梵天王問仏決疑経」は、後代、中国で作られた偽経とされているのです。筆者は偽教などに基づく教えなど信じる気持ちはありません。

 一方、なるほど公案集「無門関第六則 世尊拈花」として取り上げられていますから禅の公案と言っても差し支えないでしょう。その前提に立ってお話します。おそらく禅宗の誰かが、このエピソードを創作したのだと思います。たしかに禅の要諦を表す概念だからです。しかし、山川師のみならず、この言葉を引用する人は必ずこのことを、まず明言しなければならないはずです。

 ちなみに、「無門関」の評者無門慧開は、第六則の頌(じゅ:感想)で、「花などひねって 尻尾丸出し 迦葉の笑顔にゃ 手も出せはせぬ」と一笑に付しています。ただし、「それは公案として答え丸出しだ」と言っているので、むしろその公案としての意義を肯定しているのです。

 「拈華微笑」という公案について筆者の解釈はすでにお話しました。一口で言えば「空(くう)」の概念を示していると思います。言うまでもなく禅の重要な概念ですね。山川師と筆者の解釈のどちらが正しいのかはわかりません。しかし筆者の解釈によれば、般若心経の「色即是空・空即是色」に意味もよくわかるのです。さらに、カントやヘーゲルなどのドイツ観念論哲学とも通じるものがあります(筆者のブログをお読みください)。そういう普遍性があることが、筆者の解釈の良さだと思います。優れた思想というものは時代や国を問わずに現れても何の不思議はありません。むしろ当然のことと思います。禅思想が世に出たのはそれらに先立つこと1500年以上前のことで、素晴らしい東洋の知恵なのです。


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