無我-凡愚さま

 筆者の考えをよく理解していただいている凡愚さんからコメントがありました。他の皆様にもご参考になると思いますので、ここでご紹介させていただきます。

 ・・・凡愚です。ご回答ありがとうございます。自我とは心理学の方では、自分が考える「自分」アイデンティティ「自我同一性)」であり、自己とは自分と他人を通しての「自分」パーソナリティと、区別されるようです。
 「無我」ですが、我という実体はない、という風に使われているように思えます。これは、我(アートマン)が無いといっているのか、おおよそ実体というものはない(無常に照らすと)、だから、我は無いと言っているのか。この場合、実体というものではないが、仮に「自分」を措定して、わたしたち意識(意識は全て自己意識である)あるものは、「自分」があると考えたら良いのか。
 本日(2019.7.27)Eテレ「こころの時代」を観ていると、正眼寺住職の山川宗玄氏が、「(無我といっても)我が無いわけではない」とおっしゃられたように聞こえました。すると、我が引っ込んだ状態なのかな、とも思えます。我が引っ込んでも、考えてないわけのではないので、何かが考えている、その何かを、「自己」と言えるのかもしれません。
 無我は難しいです。中野さんのご教示を、よろしくお願い申し上げます・・・

筆者の考え:

 凡愚さんは「我」について、少し混乱があるようです。まず、「我」はかけがえのないものです。私たちは「我」のために懸命に生き、家族を養い、世の中にも貢献していることを再確認してください。しかし他人もそうしていますから、当然確執が生じ、苦しみも生じます。仏教はそのためにあります。

 仏教では永遠に続く我(アートマン)というものを否定しています(註1)。「、現代の宗教家や、仏教解説者のほとんどが、「すべてのものは変化する(無常)。だから「我」などない」と解釈しています。「我と言う固定的なものがなければ、苦しみもない」と言うのでしょう。

 しかし、筆者は、この考えは後世の仏教哲学者が、釈迦の思想を拡大解釈したものだと思っています。以前にもお話しましたが、釈迦おっしゃったのは、「あらゆる苦しみには原因がある。それに気づくことが苦しみから逃れる第一歩である」とう簡単な、しかし重要な人間の知恵だったと思います。縁起の法則ですね。それを後世のインドの思想家たちが、「あらゆるモノゴトには原因がある→原因がなければモノもない(飛躍ですね:筆者)→「我」という実体もない・・・と拡大解釈していったのだと思います。そしてそれを理屈づけるために、「あらゆるものは変化するから、「我」も変化し、固定的な「我」はない(無常の法則ですね)と、釈迦の真意を変化させていったのだと思います。

註1 釈迦はアートマン(個我)もブラフマン(神)も肯定も否定もしていません。「無記(考える必要はない)」と言っているのです。いつもお話するように、釈迦は「苦から逃れるにはどうしたよいのか」という、人間の知恵を説いているのです。つまり、「それを考える際にアートマンとかブラフマンのようなよくわからないものを頼りにするな」と言っているのです。それを後世の仏教哲学者たちが、それ以前のウパニシャッド哲学を乗り越える(アンチテーゼ)ための理論としまったため、「アートマンやブラフマンはない」とか、「無我」という概念を作り上げたのです。

 一方、山川宗玄師は、「修行僧たちが作務を共同でするとき和合が大切だ。それを円滑に行うには自己主張してはいけない。それを「無我」と言います。しかし我を無くしたわけではありません」とおっしゃってるのです。いわば当然のことで、禅語とも言えないものですね。

 筆者は「無我」を「空理論」との関わりで理解しています。「空」についての筆者の解釈は、すでに何度も当ブログシリーズでお話しました。かいつまんで言いますと「空(くう)とは人間が(見た、聞いた・・・)体験こそが真実だ」というモノゴトの観かたです。その考えでは「『我』は体験の主観的部分、(モノゴトは客観的部分)」に過ぎず、そこには自己という独立したものはないのです。いかがでしょうか。

註1 ちなみに筆者は、この部分ではむしろウパニシャッド哲学の方に共感を覚えています。

2 thoughts on “無我-凡愚さま”

  1. 我(エゴ)は、本当は存在せず、そう言われる作用だけが存在されると聞いています。
    結局、我々の本質は、アートマン経由ブラフマンとして構わないと思います。釈迦は無記と言ったかも知れませんが、不二一元論では、ブラフマンは実在しています。それが我々の本質と同じものだというのが、本当のところだと思います。

    1. 秀峰様
       ご返事が遅れて申し訳合いません。下記のsnbf様のご質問とも関係がありますので、後ほどまとめてブログでお話させていただきます。不二一元論はウパニシャッド哲学(ヴェーダンタ信仰)で言う、アートマンとブラフマンとの関係ですね。それなら、当該のブログでお話してあります。よくお読みください。

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