廓然無聖(かくねんむしょう)

代表的な公案集「碧巌録」の第一則に上げられています。編者圓悟克勤も重要な公案だと考えたのでしょう。その本則に、

帝(武帝)曰く「如何なるか是、真の功徳」と。師(達磨大師)曰く「浄智妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如くの功徳、世を以て求めず」と。帝、又、問う「如何なるか是、聖諦第一義諦」と。師曰く「廓然無聖」と。帝曰く「朕に対するは、誰ぞ」と。師曰く「不識」と。帝、領悟せざるに、師、機の契わざるを知る。

ふつう以下のように解釈されています。

梁の武帝が達磨大師に聞いた。「仏法の根本義はどのようなものですか」 達磨:「からりと晴れ渡った青空のように何も無いわい」 武帝:「朕に向かいそのようなことを言っているお前は一体何者だ」 達磨:「そんなことは識(し)らん」 武帝は達磨の心を理解できなかった。達磨はついに江(揚子江)を渡って魏に去った。

筆者のコメント:「無聖」を「聖も俗もない(悟りや迷いもない)」と解釈する人もいますが、やはり、「廓然」と同じ「なにもない」だと思います。「お前はいったい何者だ」は、もちろん単に(達磨の)素性や知識を聞いているのではありません。「人間とは何か」を問うているのです。達磨が「そんなことは識(し)らん」と答えたのも、当然でしょう。「私の言葉の真意をわからない人に、私が誰であるか答える必要はない」と言いたかったのかもしれません。

 筆者は、「正法眼蔵」を学び、「道元禅師語録(永平元禅師語録)」、および「臨済録」を現代語訳するなど、長年禅を学んできました。その上で 達磨の言う「仏法の根本義など、からりと晴れ渡った青空のように何も無いわい」は名言だと思うのです。「アッ」と思いました。「論語読みの論語知らず」になってはいけないとの警句だと解釈しています。

「景德傳燈録」第三巻にはこのやり取りの前半が書かれています。すなわち、

帝(武帝)問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師(達磨)曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖(いえど)も実には非ず(実体の影のようなもので、実体などありません)」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て求まらず」

筆者の簡約:「寺を建てたり、写経をしたり、僧侶を養成しても、そんなものは単にこの世の些事に過ぎません。悟りはすばらしいものであり、この世の些事を超越するものです。

悟りに至ることこそ大切です」・・・これもよい言葉ですね。

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