「碧巌録」第二十七則にある話です。
僧、雲門(註1)に問う、「樹(き)凋(しぼみ)葉落つる時如何(いかん)」。門云(もんいわく)「体露金風(註2)」。
訳:晩秋になって樹々の葉が枯れて落ちます。その時は一体どう思いますか、と一人の僧が質問した。雲門禅師はすかさず「体露金風」と答えた。体露とは、山も川も人も見えるものすべてが神仏の御業(みわざ)の表われだということ。金風とは心地よい秋風のこと。つまり、「見渡す限り晴れ渡った大空のもと、ここちよい秋風が颯々と渡って行くではないか」と答えているのです。端的には雲門の返事は「何をゴチャゴチャ言ってるんだ」でしょう。修行僧たちはしばしば、真面目に、しかし、どうしようもないことを言うのです。
道元禅師の「春は花
夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえてすずしかりけり」の歌は、道元の禅境の極致と考えられています。まさに体露金風の心境でしょう(歌集「傘松道詠」の内にある「本来面目」と題するものです)。
良寛さんにも「形見とて
何残すらん 春は花 夏ほととぎす
秋はもみじ葉」の歌があります。筆者は良寛さんこそ道元の真の後継者と考えています。この歌は道元禅師の歌が元になっていることはまちがいないでしょう。
私事ですが、筆者は63歳で第1回目の定年になりました。その1年ほど前、「来年4月1日から、一体何をすればよいのか」と気付き、愕然となりました。それまで40年間仕事をし続けてきたのですから、突然その日を境にして線路が切れて谷底へ落ちてゆくような気がしたのです。幸いにも第2の職が見つかり、それも楽しかったのですが、70歳で2回目の定年を迎えました。そのことを伝えたとき、友人が言った「これからは毎日が日曜日だね」との言葉が胸に突き刺さりました。もちろん友人に他意がないことはわかっていましたが・・・。「一日作(な)さざれば一日食らわず」を知っています。百丈懐海(ひゃくじょうえかい749-814唐代の禅師)の言葉です。禅を学ぶ者ならだれでも知っており、それだけに友人のこの言葉はこたえました。
筆者はまた、近年喜寿を越えましたが、近頃友人たちが次々に亡くなって行きます。また、油断のならない病気にかかる同輩、後輩も多いのです。年齢を感じざるを得ません。しかし、筆者は、この体露金風の禅語を知ったとき、「ハッ」としました。体は老いても人間の魂は光り輝いているのです。
大切な家族を失った人、津波や豪雨で家ばかりか、生活の基盤まで失った人、リストラにあった人、怖い病気を持っている人、社会的な地位の上下、収入の多寡に悩む人、失恋や受験の失敗・・・。すべての人にとっても同様なのです。どんな状況になろうとも、ふと目を上げれば、見えるものすべてが神の御業によるものであり、澄み切った青空に爽やかな秋風が渡っているのです。禅では凝り固まった心を「つと」逸らすことをよく教えます。「天行健なり」という言葉があります。尊敬する三島海雲さん(カルピス飲料KKの創業者)の言葉です。
禅の精神とはこういうものなのです。
註1 雲門文偃(うんもんぶんえん846-949唐代の禅師)「日々是好日」の禅語が有名。良いことも悪いことも、取り巻く現実を徹底して見据えた上で、ここに今、実際に生きて在ることの感謝を知る。そうすれば毎日が好日であるという意味でしょう。
註2体露とは、全体の露現。中国の五行説(宇宙の万物はすべて木・火・土・金・水の五行によって生成されるという説)で、秋が金に当たることから、金風とは秋風のことです。
――――――――