「無門関」第二十八則 久響龍潭 自分に気づく

本則(筆者訳)

 龍潭和尚のところに、ある時徳山(註1)が教えを乞いにやって来た。議論は白熱し、そのうち夜になった。龍潭は、「夜もだいぶ更けてきたからそろそろ山を下りた方がよいのではなかろうか」と言った。徳山は、簾を上げて外に出ようとした。ところが外が引き返して来て「もう外は真っ暗です」と言った。龍潭和尚は紙燭(明かり)を渡してやった。 徳山がそれを受け取った時、龍潭はプッと灯を吹き消した。 徳山は、この時、「ハッ」と悟り、深々と頭を下げた。 

筆者のコメント:山川宗玄師の「無門関提唱」(春秋社)には、徳山がどこをどう感じて悟ったのかという肝心なことが書いてありません。それでは私たちの参考にはなりませんね。筆者の考えでは、徳山は「ハッと」と自分に気づいたのでしょう。読者の皆さんは「自分に気づいているのはあたりまではないか」とおっしゃるも知れません。しかし、よく考えてみてください。私たちはふだん、自意識はあっても本当の自分には気づいていないものなのです。このことは禅ではとても大切なことです。

 徳山は龍潭のところへ来る前には金剛経の学者として自他共に許す学者だったのです。そのため、教えを乞うて来た裏に「龍潭なにするものぞ」という思いがあったのでしょう。そのため議論が白熱化したのです。それを十分に感じ取っていた龍潭師が「そんなものは単なる知識であって、禅の知恵として身につかない」と行動で示したのでしょう。徳山が後に自分が持ってきた法華経の研究書を全部燃やしてしまったことが何よりの証拠です。

筆者も長年禅を学び、「無門関」などの解釈を試みてきましたので、身につまされる話です。頭でわかることと、全身でわかることとはまったく別なのです。

本則は続きます。

龍潭は「お前さん一体どうしたんじゃ」と言った。

徳山は、「今日から私は龍潭師や世の老師達が言われることを疑いません」と言った(以下略)。

山川師の解釈:「直指人心見性成仏」を今後私は少しも疑いません。誰でも直ちに仏になる。一気に悟りの世界に行く。本当に自分の世界をグッとつかむ。仏の心こそ、本来の自分なのだと。

筆者のコメント:山川師のおっしゃることはよくわかります。しかし、そんなことは無門関28則にはどこにも書いてありません。

註1徳山宣鑑(780-865)唐代の禅師。徳山の三十棒として名高い。修行僧たちに問を与え、答えられないと棒で三十回も叩いたと言う。

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