なぜ「空」が大切か

 筆者は、このブログシリーズで繰り返し「空」の概念についてお話してきました。「空がわからなければ禅はわからない」とも。最近、山本七平氏の「ある異常体験者の偏見」(文芸春秋)を読んでいて、「空」と関係がありそうな,、とても興味ある意見を知りました(スペースの都合から筆者の責任で少し簡約しました)。

 ・・・よく人から「戦場のことをよく憶えていますねえ」とか「山本さんは記憶がいいですねえ」と言われて戸惑います。少なくとも戦場のような命の危険を感じる状況で受けた経験は人間の記憶とは別種のものだからである(註1)・・・簡単に言うと「見る」ということ、および「見る」という状態(そのもの)なのである・・・じつは、人は普段はものを見ていないで、「見た」と思った瞬間、その前後に「判断」が付随しており、こ「判断」がいわば一種のシャッターとフィルターと絞りのような役をし、それがまたある種の緩衝作用もしているのだが、何かの異常な恐怖のようなものでこの「判断」の機能が停止すると、人間はものを「見るだけ」になり、そしてその対象は直接に脳髄に焼き付けられてしまう状態になる。これが「記憶とは別種のもの」の意味である・・・普通に生活しているとき、人は「見ること」と「判断すること」とは別だなどという意識は全くない。しかし、判断というフィルターもシャッターも絞りもなくなった、「純粋に見ること」とはどういう状態なのか・・・たとえば、舞台で「処刑の場」が演ぜられている。観客は「見る」の前後に、「芝居」という判断が付随しているから椅子に座って見ていられるのであって、なにかでその判断が停止して、ただ「見たら」全員恐怖のあまり総毛立ち、化石のようになってしまうだろう・・・「脳髄焼き付け」という以外にない。そして焼き付けられたものはもう、もがいてもあがいても消えない。記憶には判断が入っているから判断で操作できるが、この焼き付けはもうどうにもならない・・・一体この「判断停止」「ただ見ることだけ」「脳髄焼き付け」という状態は、どんな時に起こるのだろうか。それはおそらく処刑寸前、戦死寸前、拷問寸前といった状態で起こるもので、頭の中がスーッと空っぽになり、周囲がすべて澄み切ったようになり、あらゆる映像が異常に鮮明に見え、すべてのものがはっきりとそのまま目に飛び込んできて脳髄に焼き付くが―何も理解していないと言った状態である・・・

いかがでしょうか。山本氏の話を聞いていた人が「私も交通事故で『あわや』と言う時、相手の運転手の無精ひげまで見えた」と言いました。「脳髄に焼き付けられる」は、専門外の山本氏ならではの表現で、実際には「脳の通常の記憶が保存される部位以外に蓄えられる」と言う意味でしょう。つまり、脳ではなくの部分のことだと思います(註1)。

 山本氏の言う「ただ見たという経験」とは、まさに「空」の概念と同じだと、筆者には思われます。「空」とい概念を別の言い方で表したように思うのです。そこに何の判断も入らない「見たという体験」は、そのまま魂と感応し、そこへ保存されるのではないでしょうか。

 「空」の概念は、モノゴトの認識方法だと、何度もお話してきました。過去を後悔したり、思い煩ったりせず、未来を思い煩わないことは、現実生活での「空」思想の応用です。それはそれでとても大切な禅の知恵です。しかし達磨大師以来、1800年以上に渡って培われてきた禅思想の真のすばらしさは、このモノゴトの観かたにあると筆者は思います。「ものがあって私が見る」という、唯物論的なモノゴトの見方は、たかだか、産業革命以来300年くらいで出来上がったものなのです。

註1「精神活動(こころ)は脳の(生物学的な)働きによるものかどうか」は、古くからの重要なテーマで、現代でも決着は着いていません。山本氏の「記憶とは別種のもの」と考えと関連があるかもしれません。人間の魂を考える上でとても重要なテーマです。以前、このブログで少し触れました。いずれ再び話題にします。

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