縁起空観と真空観(1)

 先ごろ岩村宗康さんから「中野さん(筆者)の空観(くうがん-空についての考え方)と増田英男さんの考えには共通したものがある」と指摘していただきました。ようやく当著が届きましたので、さっそく読みました。増田英男さん(1914-没年はわかりません)は元明治薬科大学教授・宗教法人釈迦牟尼会理事。「仏教思想の求道的研究」(創文社1966)に該当文がありました。以下その概略です。

 増田さんは、「龍樹の空観はおかしい」と言っています。厳密に言えば「龍樹以降から現代に至る仏教研究者や僧侶が龍樹の空観に基づいて論説を展開しているのはおかしい」と。つまり、「龍樹の空観がおかしい」と言っているわけではありません。

 すなわち、増田さんは「空観」を「縁起空観」と「真空観」に分けました。「縁起空観」こそ龍樹の「空観」で、「それはおかしい」と言っているのです。

 まず、「縁起空観」とは文字通り、「すべての法やモノは、因縁の和合によって生じたものであるから、そのもの自体としての実体はない」と言うのです。増田さんはこの考えについての疑問を論理的疑問から、そして経験的疑問から論述しています。

「論理的疑問」からは(少しわかりにくいので筆者が少し表現を変えました)、・・・この考えは「の存在とは、本来独立的不変的な固定的実体であるはずだ」という前提に立っている。したがって龍樹学派の言う「(縁起に依存して存在する)非独立的・(無常である)非固定的実体は虚である」という論説には自己矛盾がある・・・と言うのです。そのとおりですね。第一、「龍樹の『空観』自体も虚だ」ということになってしまいます。

 次に「経験的疑問」は、「さまざまな法やモノは相互に関係し合っており、変化するのは当然で、取り立てて論ずべきものではない」と言うのです。つまり、筆者の言う「実体はないと言ってもこつんと叩けば痛いじゃないか」と同じですね。

 さらに増田さんは、「龍樹の考えはそれ以前のヴェーダンタ哲学で、「人間には個我(アートマン)という固定的・絶対的モノがある」と言う考えに対するアンチテーゼ(対立命題)として提出された」と言っています。これも筆者がお話しました。そして、「縁起空観によって安心立命が得られるはずはない」たんに人生に対する諦めや絶望がもたらされるだけだと言っています。

 以上、たしかに増田さんの言う「縁起空観の誤り」は筆者の考えと同様です。

 では真空観とは何か。じつは増田さんの言う真空観の内容はよくわからないのです。                       (次回へ続く)

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