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神罰はあるか-辻正信(追加)

 以前、「神罰はあるか-辻正信」についてブログを書きました。それで完了するはずでしたが、最近、辻正信について同じような意見があることを知りました。山本七平氏(「一下級将校の見た帝国陸軍」文春文庫)です。

 山本氏は筆者が昔から尊敬してきた思想家で、「日本人とユダヤ人」の著者です。上述のように、山本氏は自分の戦争体験を通して、今も続く「日本人の宿痾」について論究し、「私の中の日本軍」「ある異常体験者の偏見」「空気の研究」などを著しています。今回読んだ「一下級将校の見た帝国陸軍」もそれらシリーズの一つで、あらためて山本氏の知性に感銘を受けました。

 以前のブログで筆者が辻正信について取り上げたのは、長年、「日本はなぜあのような無謀な戦争をしたのか」を追求する過程で浮かび上がってきた人物だからです。戦争責任を追及すべきは、東条英機、杉山元、菅原道大、富永恭次・・・など、沢山いました。しかし、特異な元凶として浮かび上がってきたのが、辻正信だったのです。辻はいわゆる将官ではなく、少佐時代から異常な”権威”を振るってきた人物です。

 山本氏は「一下級将校の見た帝国陸軍」でも辻のことが取り上げられています。すなわち、原秀男「出陣における捕虜の取り扱い」(偕行)を引用し《入手できませんので孫引きをお許しください:筆者》、

 ・・・このとき(昭和17年4月9日・バターン米軍降伏のとき:開戦直後の日本軍が連戦連勝のころ:筆者)、大本営参謀の肩書を持つ辻正信中佐は、戦線視察のたびに兵団長以下の各級指揮官に「捕虜を殺せ」と督励して歩いた。第十六師団長森岡中将もこの勧説を受けたが、もちろん相手にしなかった。だが、辻参謀はその第一線に出向いて、直接連隊長以下各隊長に「全部殺せ」と指示する始末。渡辺参謀長は、師団司令部から副官をその有名な参謀に付けてやって、「その参謀の言うことは師団長の命令ではない」といちいち取り消して廻る騒ぎだった・・・

 そのころ、司令官の知らない異常な「命令」が頻発していたと言います。陸軍刑法で厳禁されている「私物命令」を出していたのです。後ほど、それが辻正信によるものであることがわかったのですが山本氏は、

 ・・・終戦後の収容所の中では、すでに周知の事実だった。したがって私などは、戦後のはなばなしい辻正信復活に、何とも言えない異様さと絶望を感じた・・・その奥には何か、日本軍も戦後人も共に持つ弱点があるはずである・・・戦後まで戦前と同じような権威と社会的地位を保持し続けている。あのままで行けば辻内閣ができても不思議ではない・・・

 これこそまさに筆者が、無謀な戦争を引き起こし、今も続いているのではないかと危惧し、追求し続けてきた「日本人の体質」の一つでしょう。筆者のような、戦争の実体験がない者でさえ、辻はあまりにも「うさん臭い」と思えたのです。

 山本氏はこの日本人の宿痾ともいうべき体質を、

・・・ある種の虚構の世界に人びとを導き入れ、それを現実だと信じ込ます不思議な演出力である・・・その基礎は気魄という奇妙な言葉である・・・これは帝国陸軍が絶対視、した精神力なるものの重要な一項目でもあっただろう・・・辻正信は「気魄誇示屋」の典型であり、どの部隊にも、どの司令部にも必ず一人か二人はいた、みな始末に負えない小型「辻正信」、すなわち言って言って言いまくるという形の”気魄誇示”の演技屋であった。結局、この演技屋にはだれも抵抗できなくなり、その者が主導権を握る・・・

 いかがでしょうか。筆者は山本氏とは異なり、戦争の現場にいたことなどありません。それでも山本氏と同じような、現代にも続くと思われる日本人の体質に異様な不安を感じたのです。

 今、福井県高浜原発に関連して、元助役森山某の異様なまでの権力が問題になっていますね。3億円に上る不明朗な金が関電幹部に渡ったこと、しばしば彼らを怒鳴りつける姿が目撃されていたこと、109人もの福井県庁の職員に昇進祝いなど意味不明の金などを与えていたこと、自分の関連する会社が多額の関連事業を請け負っていたことなど、現代では信じられないような権勢を振るっていたことなどが次々に明らかにされています。関係者は返せばどんな仕返しを受けるかわからないのでタンスにしまっておいたと言います。なぜ彼には逆らえなかったのかが不思議なほどです。まさにミニ辻正信とその部下たち(?)でしょう。今でも日本の社会構造は変わっていないのです。

 筆者はもう一つ、マスコミにあおられるとすぐフィーバーになる、「意見を持たない日本人」の体質もあるように思いますが。

わかるということ(1,2)無門関第30則「即身即仏」

(1) 馬祖(註1)、因(ちなみ)に大梅(註2)問う、「如何なるか是れ仏」

祖云く、「即心是仏」

訳:馬祖和尚はある時、大梅から「仏とはどのようなものですか」と質問された。

馬祖は、「心こそが仏そのものだ」と答えた。

33則「非心非仏」

馬祖、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」

祖曰く、「非心非仏」

訳:馬祖和尚は、ある僧から「仏とはどのようなものですか」と質問された。

馬祖は、「心は仏ではない」と答えた。

筆者のコメント:「仏とはどのようなものですか」とは、「仏法の要諦とは何ですか」の重要な意味です。「心こそが仏そのものだ」とは、「お前の本性は仏なのだ」と言っているのです。まさに禅の要諦ですね。それを聞いて大梅は「ハッと」わかったのです。やはり大梅もただ者ではなかったのです。

 ところが馬祖は後に「心は仏ではない」と言いました。そのため多くの仏教解説者が困惑しています。しかし、理由がわかれば簡単なことです。馬祖が「即心是仏」と言ったら弟子たちはそれを頭で考え、心から理解することなしに、そればかりを言っていたのです。そのため馬祖が「心は仏ではない」と逆のことを言って注意を促したのです。禅ではこのように、概念の固定化をとても嫌います。

 その後大梅は、深い山の庵入って出ることなく修行を重ねていました。ある僧がなんとか訪ね入ってきて、「このごろ馬祖禅師は非心非仏といっています」と告げました。その時、大梅は「いま、馬祖禅師が何と言っていようと、私は即心即仏である」と答えた。大梅は馬祖の真意をよく理解していたのですね。そのため、そのことをその僧が馬祖に告げたところ「梅子(ばいす)熟せり(大梅の禅境は進んだな)」と称えました(註3)。

 禅は頭でわかるのではなく、全身でわかることが大切なのです。とても大切なことです。禅を少しでも学んだ人なら「即心是仏」という言葉を知らない人はないでしょう。しかし、その多くは「わかったつもり」なのです。筆者も同様です。それについて次回お話します。

註1 馬祖道一(709-788)唐代の優れた禅師で、南岳懐譲の法嗣、百丈懐海など多数の優れた弟子を育てた。

註2 大梅法常(752-839)。

註3 大梅ですから、「梅の実が熟したな」と言ったのです。

わかるということ(その2)

 仏教思想として、筆者が何年もかかって「わかった」ものには、「即心是仏」や、「一切放下」があります。それについては、いずれお話します。今回は日本人の心について体感できたことをお話します。

 小林秀雄は筆者が尊敬する思想家です。小林によりますと、日本人の心を最もよく表しているのは「もののあはれ」の心だと言います。あの紫式部が「源氏物語」で表した心ですね(「小林秀雄講演5」新潮CD)。

 最近、岩手県の中尊寺を50年ぶりに再訪しました。参道を下っている時、ふと目をやりますと、木々の間から眼下に暮れなずむ平泉の町が見えました。いくつかの家々と、広い田畑、そこからは収穫後の稲束かなにかを焼く煙でしょうか、風もなく一筋の白い煙が高く高く昇っていました。その風景を見て深く感動し、とつぜん西行の「こころなき、身にもあはれは知られけり、鴫(しぎ)たつ沢(註1)の秋の夕暮れ」の歌を思い出しました。この歌はずっと以前から知っていましたが、たんに知識として知っていただけだったのです。そして数十年たって、初めて「もののあはれ」を共感できたのです。金色堂のすばらしさ、前九年の役、後三年の役で死んだたくさんの人々を弔うためにこれを作った藤原清衡の思い、長年にわたってそれを維持してきて人々の心情に思いを馳せてきたばかりであったことも、「もののあはれ」を体感できたことの助けになったのかもしれません。

 もちろんそのためには、多くの仏教の言葉や公案の題目などをできるだけ整理して頭の中に入れておかなければなりません。その蓄積が何時か、何かの場面で出てくるかもしれないからです。「アッ」と思ったとき身に付くのだと思います。

註1神奈川県中郡大磯町西部にあった場所。寛文4(1664)年、小田原の崇雪が、西行にちなんで草庵を結んだのが始まり(大磯町HPより)。




「空」がわからなければ禅はわからない


無門関第6則「世尊拈華」

本則

世尊、昔、霊山会上(りょうぜんえじょう)に在って花を拈じて衆に示す。

是の時、衆皆な黙然たり。

唯だ迦葉(かしょう)尊者のみ 破顔微笑(はがんみしょう)す。

世尊云く、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門有り。 不立文字、教外別伝、 摩訶迦葉に付嘱す」。

(和訳)ブッダが、昔、霊鷲山で説法された時、一本の花を手に持って(拈華)大衆に示した。 この時、大衆は皆な黙っているだけであった。 ただ、迦葉尊者一人だけがニッコリと笑った。 この時ブッダは云った、「私にはモノゴトを正しく見る眼、安らぎの悟りの心とはなにかの精妙な法を理解している。それは文字に表わすこともできないし、 経典にも書けないものである。これを、摩訶迦葉にゆだねよう」。

筆者のコメント:重要な公案の一つですね。山川宗玄師の提唱(解説)は、

・・・「不立文字、教外別伝、つまり、表現しようにも表現できない、伝えようにも伝えられない法をお前に伝えるぞ」とは矛盾した話です・・・私は和歌山県由良の興国寺の住職をしていました・・・その仏殿の本尊がお釈迦様です・・・その像は少し変わっておりまして、右手に花を掲げた如来像です・・・この世尊拈華の話を何度もお参りの方々にしました。しかしこの話をする度にある疑問がだんだん大きくなっていったのです。なぜ迦葉尊者はなぜ破顔したのか・・・ただ肯くだけでもよかったのです・・・ある時、仏殿の花を活け替えていました・・・そのとたんに「アッなるほどなあ」・・・なぜ迦葉尊者は破顔微笑されたのか。理由は簡単でした・・・花が咲くの「咲く」という字は他に「わらう」と読めるんです。仏陀が掲げた花は咲いていました。花は笑っていた。だから迦葉尊者はそれを見てにっこりと笑われた。仏陀もそのとたんににっこりされたのだ・・・これが不伝の法です(「無門関の教え―アメリカで禅を説く」淡交社)・・・です(山川師の原文は長いので、筆者の責任において一部省略しました)。

筆者のコメント:これでは何のことかわかりませんね。以前にもこの公案についてお話しましたが、この公案は「」の思想を表しているのです(詳しくは以前のブログをお読みください)。「空」がわからなければ、この「世尊拈華」エピソードの真の意味はわからないのです。「空」がわからなければ禅はわからないのです。

 山川師も、・・・この内容は実はお釈迦様がお説きになったと言われている「大蔵経」にはございません。中国で作られたと言われている「大梵天王問仏決疑経」の中に載っております・・・と言っていらっしゃいますが、それだけでは不十分なのです。なぜなら、この経典は偽経だからです。おそらく「世尊拈華」のエピソードは禅宗の誰かが創作したのだと思います。

サヘルローズさんもっと幸せに

 「戦場から女優へ」(文芸春秋)の著者経歴欄などによると、イラン出身。11人家族の極貧の家庭で、本名も生年月日もわからないとか。1988年、イラン・イラク戦争の空爆により、住んでいた400人の村が全滅。4歳のサヘルさんがただ一人、空爆により、ボランテイアの女子大学生より奇跡的に救出された。もうあきらめかけていた4日後、がれきの中から手だけが出ていたそうです。人形かと思ってさわってみると暖かかった。その後、規則により孤児院に。後にこの女学生フローラさんに養女として引き取られました。フローラさんはイランでも指折りの資産家の長女だったが、サヘルさんを養女にしたため両親から勘当されました。ちなみにサヘルという名前はフローラさんの母によって付けられ、「静か」という意味だとか。1993年、日本で働くフローラさんの婚約者を頼り、二人で来日。しかし、飛行機を見送りに来てくれたフローラさんの親族は誰もいなかったとか。日本についてみると、「連れ子」の存在と、婚約者がすでに別の女性と関係があったことがわかり離別。それにより、公園でのホームレス生活(2週間)。それを知った小学校の給食おばさんに助けられた。小学校時代の校長から日本語を学んだと。すぐに上達し、今でも日本語がうまく話せないフローラさんの買い物の手助けをすると言います。それ中学に入ってもクラスメートからのひどいいじめを受ける。

 日本でのこの母娘の極貧生活は信じられないほどで、母のフローラさんはツナ缶1つを2日に分けて食べるのがすべてだったと言います。このお母さんが素晴らしいですね。イランにそのままいれば資産家の娘として大学院へ進み、その後キャリアーウーマンとして、いくらでも華やかで豊かな生活が待っていたでしょうに。サヘルさんのためだけの、しかも極貧の人生を送ってきた人です。

 筆者はサヘルさんのことをNHK「探検バクモン」で見て知りましたが、上記の経歴からは想像もできないほど明るく、快活な性格ですね。中学在学中より、家計を支えるため芸能界へ。芸能界からのオファーと言っても、最初は死体の役ばかり。「イラン生まれ」への偏見からテロリスト役もこなしたと言います。しかし、その時のサヘルさんの心構えが素晴らしいです。「悔しかった。でもどんな仕事にも手を抜かなかった」。それがやがてテレビ、映画、舞台など幅広い活躍へとつながっていったのです。

 近年、日本では大災害が続き、大切な家族を失ったり、住む場所から生活の基盤さえ失った人たちがたくさんいます。しかし、サヘルさん親子のような過酷な経験をした人たちは少ないでしょう。あの明るい人柄を見ると勇気が出ますね。

 初の詩集「あなたと、わたし」(日本写真企画)より、

・・・生まれてきて、よかった。

と、ワタシはいう。

生まれてこなければ、よかった。

と、ワタシがいった。

生まれるってなに?

生まれてくるって、なに?

同じ地球人だけど、

命の層が違うみたい、この時代は。

・・・神さまっているの?

いないでしょう。

本当に神さまがいたら

貧困も戦争も起こす?

神さまが本当にいたら

見捨てたりしない。

神さまが本当にいるのなら

どうして罪のない人が苦しむの?

神さまはずっと助けてくれない。

だからね

わたし知ってるよ、

神さまが、いないってこと。

 ・・・足元をみて、

落ちた涙の跡には、

花が咲くの。

悔しいことは栄養の源。

どんどん、泣こう。

・・・あなた自身を愛してほしい。

無門関第二十二則「迦葉刹竿」

本則

迦葉 (かしょう)、因(ちな)みに阿難 (あなん)問うて云わく、「世尊、金襴の袈裟の外、別に何物をか添う」。迦葉、喚んで云わく、「阿難!」。阿難応諾す。迦葉云わく「門前の刹竿、倒却せよ」。

筆者訳:

阿難(アーナンダ 註1)が迦葉(カショウ 註2)に質問した。「世尊は金襴の袈裟(註3)の外に、何か貴方にお伝えなさりましたか。迦葉はその場で、「阿難!」と呼んだ。 阿難は「はい」と答えた。迦葉は「では門前の旗(今日説法があるという知らせ)を下ろしてくれ」と言った(つまり「説法は終わった」)。

註1 ブッダの従兄弟と言われています。この迦葉とのやり取りで第3代として認められました。

註2 やはり仏陀の従兄弟。ブッタの法を伝える人と認められた人。「拈華微笑」のエピソードが有名ですね。阿難より20歳年上。

註3 「袈裟を譲る」とは、法の後継者としての認可。

 山川宗玄師の解説:・・・名前を呼ばれて「ハイ」とすぐ答えられる人は何人いますか。名前を呼ばれれば皆さん「ハイ」と答える。でも本当に純粋な「ハイ」が言える人、そういう相手が何人いますか。香林和尚は師の雲門禅師から「隠寺(秘書)さん」と呼ばれて「ハイ」、「これ何ぞ」と聞かれるのを18年間続けた。18年目に初めて本当の「ハイ」が言えた(「無門関の教え」淡交社)

「Frankの悟り」ブログameblo.jp/satori2015/entry-12060118636.htmlより:・・・刹竿(せっかん)とは、説法中だと伝える旗です。迦葉は阿難が「はい」と答えたら即に門前の旗を下げてくれと言います。説法は終わったと言う事です。どうしでしょうか。これは、世尊の則の所で花を上げたお釈迦様から迦葉に以心伝心的に伝わった事のお返しとして、阿難に引き継げようとしています・・・ これは先の「無門関」六則、世尊拈花(世尊、花を拈ず)の思えば、分かりやすいと思います。

・・・釈尊の花が上がります。それは貴方に「この一瞬の一」を悟って欲しい大慈悲として上げられます。その時、迦葉はにっこり笑い以心伝心を受け継ぎます。この則では、先の「無門関」十六則の鐘声と同じく、声(音)で達成します。迦葉が「阿難!」と言った後と、阿難が「はい」と言う「は」の直前との「間」の「瞬間」です。また「はいと言った音調で迦葉には分かります。

筆者のコメント:お二人とも間違っています。これでは何が伝えられたのか、肝心なところがわかりません。つくづく「禅はわかったか、わからないか」の世界だと思います。もう少々疲れました。この公案の意味は、以前のブログでお話した「無門関 第十七則 国師三喚」をお読みください。