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公案の理解と坐禅(1, 2)

禅における語録の意義(1)

ここでお話しする語録とは、公案や禅語のことです。
 禅では、曹洞宗のように只管打座、つまりひたすら坐禅・瞑想をする宗派と、臨済宗のように、坐禅とともに公案についての師弟の問答を重視する宗派があります。一般に前者を黙照禅、後者を看話(かんな)禅と言われています。

 小川隆博士は「語録の思想史」(岩波書店)の中で、
 ・・・禅は一般に、坐禅によって悟りをめざす宗教だとされている。しかし、坐禅・禅定という行の実践は、とくに禅宗に限ったものではなく、さらには仏教独自のものでさえない。文献として残されているものを見るかぎり、禅宗のきわだった特徴は、坐禅よりもむしろ禅僧どうしの問答にこそあった・・・
と言っています。たしかに天台宗や真言宗にも瞑想はあります(止観と言います)。空海は虚空蔵求聞持法にある陀羅尼(短い呪文)を百万回唱えた結果、開悟したことはよく知られています。一方、釈迦以前のインドにも古くから瞑想はあり、釈迦自身が悟りを開いたのも瞑想によります。しかし、やはり坐禅瞑想と言えば禅でしょう。小川氏のこの説は、「語録の思想史」をのべるための、いささか我田引水の気味があります。それは小川氏がつづいて、
 ・・・自らの開悟を目指すのなら、今日でもやはり、自らその道を行くべきでしょう・・・
と言っていることから明らかです。悟りを目的とせず、たんに学問として語録を学んだとてどんな意味があるのでしょう。大部分の人が開悟のために語録を学んでいるはずです。

 道元がなぜ、「只管打座」、つまり、「ひたすらざぜんせよ」と言ったのか。それは道元の師・如浄の時代の中国の禅宗の事情にあります。禅はその前の唐の時代に大きく発展し、今に伝えられるそうそうたる禅師たちが輩出しました。しかし、如浄のいた宋の時代になると、ある者は朝廷や貴族に重んぜられるようになり、必然的に権威主義的になり、禅問答ももったいぶって形式的なものになりました。僧侶たちも経済的にも安定し、ひたむきな修行から離れて行ったのでしょう。如浄の禅風は、その流れから屹立したものだったのです。「只管打座」は道元の師・如浄の修法なのです。おそらく、まじめな禅僧たちも、ともすれば無意味な「禅問答」にとらわれ、正しい修行から遠ざかっていたのでしょう。
 道元の死後、師の言葉が弟子たちによってまとめられたものを「永平広録(十巻)」と称しますが、弟子義尹(ぎいん)がそれを持って宋へ渡り、かって道元の兄弟弟子だった無外義遠に校正を頼みました。無外義遠がそれを一冊に抄録したものを「永平略録」とも「永平(道)元禅師語録」とも言います。その序文に筆者が今のべた如浄の功績が書かれています。
 道元が公案を重視していたことは、「正法眼蔵」の中にも、「谿声山色巻」「栢樹子巻」「祖師西来意巻」「三界唯心巻」「即心是仏巻」など、多くの公案が含まれていることから明らかです。ただ、曹洞宗では臨済宗でのような「問答」は重視されませんでした。

 悟りのためには坐禅・瞑想と公案の理解のいずれもが重要だと思います。くりかえしますが、如浄や道元が「只管打座(ひたすらざぜんせよ)」と言ったのは、修行僧たちがあまりにも公案の理解に執心していたためでしょう。現代でも看話禅の宗派では、禅問答が儀式化されているところがあります。儀式も禅の嫌う概念の固定化なのですが・・・。

禅における語録の意義(2)

 筆者は、日々坐禅・瞑想を欠かしませんが、公案や禅語録も重視しています。以前お話したように、筆者は「永平(道)元禅師語録」「臨済録」などの現代語訳をしました(「従容録(碧巌録)」については進行中です)。禅を体得するには、やはり言葉も大切だと思い、詳しく検討したのです。公案の学習は、坐禅・瞑想とともに悟りに至る重要な道だと思うからです。

 筆者は、このブログシリーズで、さまざまな公案を取り上げ、近現代のわが国の著名な禅師たちの解釈を紹介してきました。じつは、もっと多くの禅師たちの解釈を調べたのですが、それらを比較評論するのはかえって読者の皆さんを混乱させると思い、ここでは避けました。結論だけ言いますと、同じ公案についても、禅師たちの解釈は一つとして同じものはありません。もちろん、どの禅師についても直弟子や孫弟子の考えは除外しました。師匠の影響を強く受けるのは当然だからです。とにかく、禅師によってこれほどバラバラな解釈から私たちは何を学べばいいのでしょう。「公案の解釈は人さまざまでいいのだ」という説もありますが、筆者にはなっとくできません。

思想とは言葉である
 悟りとは思想の飛躍的変化ですが、思想とは言葉なのです。言うまでもありませんね。「なにかをわかる」というのは「言葉」としてわかるのです。心を表現するに言葉を持たない人に悟りはありえません。ことほどさように禅において言葉は大切であり、公案の解釈は開悟の重要なヒントになるのです。そしてさらに、悟境(とうぜん、それ以前とはまったく違った世界になっているはずです)を詩で表現することもよく行われています。偈頌(げじゅ)と言います。

 次は、以前お話した、中国宋時代の詩人蘇軾(そしょく:蘇東坡1037-1101)がある時、廬山を訪れ、夜の渓流の声を聞いて突然悟に達したときの感動を常総禅師に呈上した偈頌です。

 谿声(けいせい)便(すなわち)ち是れ広長舌(こうちょうぜつ)、
 山色(さんしき)清浄身(しょうじょうしん)に非ざること無し。
 夜来八万四千の偈、
 他日如何(いかん)が人に挙似(こじ)せん。

筆者訳:渓流の声はそのまま仏のご説法であり、
    山のたたずまいは仏の清浄なお姿そのものである。
    この昨夜からの八万四千の偈文の経を、
    後日 人にどう話せば分かってもらえるであろうか。

 このように、思想とは言葉なのです。そして坐禅・瞑想の実践が禅の言葉を作り出すこともあるのです。道元もこの感動的なエピソードを「正法眼蔵・谿声山色巻」で取り上げています。

浅原才市ー他力信仰の真髄

浅原佐市

 前回、「清原満之と暁烏敏のあと、本当の意味の他力信仰を理解していた人はいないのではないか」と言いました。ただ、石見の下駄職人浅原佐市(1850-1932)だけは例外です。佐市は、幕末から昭和7年の死まで、阿弥陀如来を心から信じて生きた人です。下駄造りで出たカンナの削りくずにすなおな信仰の気持ちを書き続けました。その内容は素朴ですが、心に響きます。
    ええな せかいこくうがみなほとけ
    わしもその中 なむあみだぶつ 

    ねるも仏
    おきるも仏
    さめるも仏
    さめてうやまう なむあみだぶつ
    むねに六字のこゑがする
    おやのよびごえ
    慈悲のさいそく
    なむあみだぶつ

    目にみえぬ慈悲が 言葉にあらわれて 
    南無阿弥陀仏と 声でしられる
    死ぬるは浮世のきまりなり
    死なぬは浄土のきまりなり     
    これが楽しみ 南無阿弥陀仏
    世界をおがむ 南無阿弥陀仏  
    世界がほとけ 南無阿弥陀仏

    聞いた聞いた
    いいこと聞いた
    凡夫が仏になること聞いた
    聞いても聞いても何ともない
    何ともないのが目当てと聞いた

    ほとけから
    ほとけをもろうて
    なむあみだぶつ

    なむあみだぶつが
    わしのほとけよ
    こんなさいちわ(才市は) かくことわやめりゃゑゑだ 
    いいや こがなたのしみわありません やめらりゃしません 
    ほ(法)をたのしむかくもん(無学者)であります
    まことにゆかいなたのしみであります
    明ご(名号)のなせることのたのしみ なもあみだぶつてあります
    道理理屈を聞くじゃない 味にとられて味を聞くことなむあみだぶつ
    あさましと知られた心 仏の心よ

    凡夫わからにゃ邪慳なり 凡夫わかれば慚愧なり なむあみだぶつ
    おなじ迷い迷いと言いましても 
    迷いが迷いに居るのと 法が迷いに居るのとは違いがしてをります 
    自力他力はここでわかります
    他力には自力も他力もありわせん 一面他力なむあみだぶつ
    煩悩も具足 お慈悲も具足 具足づくめのなむあみだぶつ

    如来さんはどこにをる 如来さんはここにをる    
    才市が心に満ち満ちて なむあみだぶつを申しているよ
    名号は不思議な慈悲で 合点がいらぬ 
    合点いらぬがなむあみだぶつ

    念仏は仏の念仏 仏が申す念仏 ただの念仏 
    わたしゃ用なし ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ
    なむあみだぶつに抱き取られ 取られて申すなむあみだぶつ
    称(たた)えても 称えても また称えても
    弥陀の呼び声なむあみだぶつ
    名号はわしが称えるじゃない わしにひびいてなむあみだぶつ

    才市や何処におる 浄土貰うて娑婆におる 
    これがよろこび なむあみだぶつ
    わたしゃ浄土を先に見て 娑婆で申すなむあみだぶつ

    才市や臨終すんで 葬式すんで 
    なむあみだぶつとこの世にはをる云々
    影を見よ 光明の光のおかげで 影がみえるぞ 
    浄土の影がこれでわかるぞ 
    ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ なむあみだぶつ

    才市や何がおもしろい 迷いの浮き世がおもしろい 
    法をよろこぶ種となる なむあみだぶつの花ざかり

    昔はありがたいこと たよりに思い なんともないこと ちからをおとし 
    いまは あろうがあるまいが ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ

    ありがたいの ありがたいの ありがたいのがあなたの慈悲で 
    うれしうないのがわたしの心 うれしかろうがかるまいが
    機法一体なむあみだぶつ これが知れたらありがたい

    わたしゃあさまし 親のごをん(御恩)がよろこばれん 
    よろこばれんならほうっておけよ 凡夫がよろこぶ法ではないよ 
    ごをんうれしやなむあみだぶつ
    へいぜい(平生)に臨終すんで葬式すんで 
    あとはあなたをまつばかり
    なむあみだぶつに 臨終はない

    おがみようがない
    おがまれてよろこぷ
    なむあみだぷつ

    才市はなむあみだぶつをどう心得てをるか 
    へ はなむあみだぶつに貰われましたよ 
    御報謝をどう心得てをるか 
    へ 御報謝は思い出したり忘れたり あさましいものであります。

    才市よい うれしいか ありがたいか 
    ありがたいときや ありがたい なつともないときや なつともない 
    才市 なつともないときや どぎあすりや(どうするか)
    どがあもしよをがないよ なむあみだぶと どんぐりへんぐりしているよ 
    今日も来る日も やーい やーい
いかがでしょうか。解説など要りませんね。浅原の言葉からは、以前お話した、東日本大震災を受けた僧侶の「葬式仏教のなにが悪い」の境地など論外であることがおわかりいただけるでしょう。

「蓑笠の人浅原才市」水上 勉(講談社学術文庫)、鈴木大拙編著「妙好人浅原才市集」新装版(春秋社)

清沢満之-浄土思想の救世主?(1,2)

清沢満之‐浄土真宗の救世主?(1)

 神や仏の存在を心から信じられるかどうかは、人が宗教に向かうときの決定的な要因でしょう。しかし、阿弥陀仏存在の確信を絶対条件とする他力本願の本当の意味を理解している人は、現代の僧侶ですらほとんどいないはず。それどころか、あの親鸞のあと、すでにあやしくなっているのです。教えの勝手な解釈(異)を歎いたのが「歎異抄」ですね。浄土真宗堕落の第一歩を踏み出させた張本人は蓮如だと、以前お話しました。親鸞の200年後の人です。さらに、江戸時代に入ると、日本仏教は幕府の支配体制に組み入れられ、寺受け制度によって全国民を檀徒としました。それによって各寺院は確かな経済的基盤と権威を得たのです。法事を独占的に執り行い、それから上がる収益は莫大なものとなったのです。現在でも、わが国の浄土真宗本山である、京都東・西両本願寺の壮大な建築群を見ればその財力の大きさがが窺い知れます。法主大谷家は華族との通婚を繰り返し、戦後すら「(最後の)貴族」と言われたほどです。大きな富を権力を得れば、人々の救済と言う本来の目的を忘れるのは自然の成り行きで、他力本願の本当の意味などとっくに忘れられていたのでしょう。
 しかし、明治政府によって国家神道が国是とされたため、廃仏毀釈が行われ、寺受け制度が廃止されました。さらに追い打ちを掛けるように、キリスト教や西洋哲学が入ってきて、一挙に日本仏教は存亡の危機に直面したのです。それを打開するため東本願寺が期待をかけたのがこれからお話しする清沢満之です。

 清沢満之(1863-1903)は、いまお話した、明治になって直面した浄土真宗の危機を打開するため、期待を背負って東京大学へ派遣されたエリートでした。尾張藩の下級武士の子として生まれ15歳で真宗大谷派の東本願寺育英学校に入学しました。そしてその俊秀ぶりを認められ、東京大学へ派遣されたのです。浄土の教えをキリスト教や西洋哲学に対抗できる思想体系にしてほしいとの輿望を担ったのです。
 清沢は期待に応えて東京大学文学部哲学科を首席で卒業しました。教授たちはわが国の哲学界を背負って立つよう嘱望したのですが、真宗大谷派の要請で、同派が委嘱されていた京都府尋常中学校の校長になりました。その後、教育制度や組織などについて、宗門改革運動を推進しました。そのため、東本願寺と対立し、除名処分されました。
 その後除名処分は解かれましたが、1899年、東京本郷で私塾浩々塾を開きました。その時の弟子の一人が、以前お話した暁烏敏です。1901年、再び真宗大谷派の要請を受け、真宗大学(現大谷大学)の学監に就任しました。しかし翌年、またもや辞任しました。真宗の体質と清沢の理想があまりにもかけ離れたものだったからでしょう。浄土真宗の救世主にはならなかったのです。

 その後清沢は愛知県碧南市西方寺(清沢の妻の実家、ただし住職にはなれなかった)に移り、1903年、肺結核が悪化し、わずか39歳で死亡しました。清沢はミニマムポシブル(最小限でも可能)と名付けた極端な清貧生活(主食はそば粉、副食は松脂だったと言います)による栄養失調で結核になったのでしょう。純粋もここに極まれりですね。

 このように清沢は惜しくも早世しましたので著作も少なく、「宗教哲学骸骨」や「我が信念」などわずかです。浄土真宗が期待した「浄土の教えに基づき、西洋哲学に匹敵する確固たる思想を確立する」には至りませんでした。しかし、以下に示すように、清沢自身は浄土の教えを完全にわがものとし、暁烏敏のような優れた弟子を育てたのです。ところが、暁烏敏以降、また他力思想はおかしくなってしまい、今日に至っていると筆者は考えます。
清沢の思想については次回お話します。

清沢満之‐浄土思想の救世主?(2)

 前回、ある解説者が「清沢の思想が浄土系思想から離れしまったことは明らかである」と言っているのは誤りだ、とお話しました。それは著書「我が信念」の一節(紙数の都合で簡約)に、

 ・・・私の信念は、どんなものであるかと申せば、如來を信ずることである。其如來は私の信ずることの出來る、又信ぜざるを得ざる所の本體である・・・如來は私に對する無限の慈悲である・・・如來は私に對する無限の智慧である・・・如來は私に對する無限の能力である。斯(か)くして私の信念は、無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力との實在を信ずるのである・・・如來は、無限の智慧であるが故に、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめ給ふ。從來の慣習によりて、私は知らず識らず、研究だの考究だのと、色々無用の論議に陷り易い。時には、有限粗造の思辨によりて、無限大悲の實在を論定せんと企つることすら起る・・・私の信ずる如來は、來世を待たず、現世に於て、既に大なる幸福を私に與へたまふ。私は他の事によりて、多少の幸福を得られないことはない。けれども如何なる幸福も、此(この)信念の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は私が毎日毎夜に實驗しつつある所の幸福である・・・今は「愚癡の法然房」とか、「愚禿の親鸞」とか云ふ御言葉を、ありがたく喜ぶことが出來、又自分も眞に無智を以て甘んずることが出來ることである・・・

とあることから明らかです。妻子を亡くし、悲嘆のどん底にあった清沢の言葉なのです。

 つまり清沢は、「私はいくら考えても、なにが真理であるのか、何が善であるのか、悪であるのかはわからない。ただ如来を信じ、お任せする」と言っているのです。なによりも、「愚癡の法然とか、愚禿の親鸞とか云ふ御言葉を、ありがたく喜ぶことが出來(る)」と宗祖の言葉を引用して言っているではないですか。「我が信念」の中には、清沢がどういうきっかけで阿弥陀如来を信じるようになったかは、書かれていません。それがちょっと残念です。それにしても、現代の浄土真宗の僧侶の中に、清沢のように言える人が何人いるでしょうか。

 なお、清沢の言う「(宗教哲学)骸骨」とは、骨組のことを指します。清沢は前述のように早世しており、それ以上の深い考究やそれに基づく考究はできませんでした。それゆえ、浄土思想を西洋哲学に匹敵する思想体系とするまでには至らなかったのです。いえ、阿弥陀如来に対する心からの信仰は、哲学などの人間の思考を越えています。清沢の言うとおりですね。

 それにしても、清沢が浄土真宗から大きな期待を持って東京大学に派遣されたにもかかわらず、浄土真宗から離れてしまったのは、その旧態依然とした組織のあり方に失望してしまったからでしょう。それは筆者にもよくわかります。

清沢満之の著書:「宗教哲学骸骨」、「我が信念」などは、安富信哉編「清沢満之集」(岩波文庫)、および「日本の名著(43)清沢満之・鈴木大拙」(橋本峰雄編 中公バックス)などに収められています。

いまここで死ねますかー暁烏敏の他力思想

 以前、このブログでお話した浄土真宗の暁烏敏(あけがらすはや)の言葉です。強烈なテーゼですね。暁烏師のこの言葉を、「神の心に近づくには死ななければならないのか」と解釈している人たちがいましたので註釈させていただきます。
 その解釈には飛躍があります。暁烏師が言いたかったのは、「いまここから飛び降りられますか」とか、「毒を飲めますか」ではありません。たとえば「いまここで、『あなたは末期ガンです』と宣告されても平常心を保てますか」という意味なのです(暁烏師は人騒がせな人ですね)。

 前にもお話した良い例があります。
 永井隆博士(1908-1951)は、元長崎医大教授、「長崎の鐘」や、「この子を残して」の著者としてよく知られています。一般には「原爆症で亡くなった」と言われていますが、じつは、それ以前から重い放射線障害に苦しんでいました。博士は放射線学科に長く勤めており、当時のことですから、放射線漏れによる障害が医師にとって深刻だったのです。自分の余命を悟った博士は緑夫人(原爆で一片の骨とロザリオが残ったと永井博士は書いています)にそのことを告白しました。すると、永井博士自身より長いキリスト教信者だった夫人は、

「なにごとも主の御心のままね!」と答えたそうです。

 次は、最近筆者の友人から聞いた話です。癌で入院している人をお見舞いに行った時のこと。その人も敬虔なキリスト教者でしたが、命旦夕に迫っているにもかかわらず、「病室で静かに読書していた」と言うのです。この人も「神の御心のままに」だったのでしょう。

 いかがでしょう。暁烏敏の「いまここで死ねますか」の真意はこういうことだったと思います。

「死ねば神の心に近づくのかどうか」は筆者にはわかりません。たしかにスピリチュアリズムの考えでは、人間は死んでからしばらくすると、守護霊とともに自分のこの世の人生をビデオのように再生し、生まれるとき持って出た、果たすべき課題を完遂できたかどうかをチェックすると言います。というのは誰でも今生に転生するのは、その課題を果たすためだと言うからです(生まれるとその課題のことは忘れてしまうとか)。もしビデオを見た結果が不満足だったら、守護霊と相談の上もう一度この世に生まれ変わるとも言います。
 こういうプロセスが本当にあるとすれば、たしかに自分の生命全体を俯瞰することになり、神の心に近づいたことになるでしょう。しかし、私たちはそんなことを考えるべきではないと思います。釈迦のおっしゃる「無記」、つまり、「わからないことは考えるな」ですね。

 そんなことより、自分が神によって造られ、神の恩寵によってこの世で生かされていることを改めて考え、心の底から感謝すべきなのです。そして、神の心に沿う生き方とは何かを、自分なりに真剣に考える方がよほど大切でしょう。これが本当の他力思想なのです

「祖師西来意」- 小川隆博士の解釈

 禅語・祖師西来意

 以前、「禅語・庭前柏樹子」のブログで、小川隆博士(1961-、駒澤大学教授)の禅についての基本的見解は「仏とは人間の心の問題だと思われる」とお話しました。今回は、この公案の質問の方について、小川氏の解釈と筆者の考えを比較します。すなわち、以前お話した趙州從諗(778-897 120歳!)の公案「庭前の柏樹子」の質問の方ですね。再録しますと、

  僧、趙州に問う「如何なるか是れ祖師西来意」
  趙州曰く「庭前の柏樹子」

です。言葉どおりに言えば、「祖師、すなわち達磨大師がはるばるインドから来られた意義は何ですか」ですが、真意は「仏法とはなんですか」とか、「禅の本質とは何ですか」という意味です。重要な課題ですから、さまざまな禅師による答えが残されています。小川氏は、以前お話したように、「入矢義高博士(元禅文化研究所長)の『当時の文化や関連項目と共に考えつつ、禅語録を解釈する』を尊重する」と言っています。小川氏(「語録の思想史」岩波書店)が見付けて来た「関連項目」では、

 問い:如何なるか是(これ)祖師西来意  
 答え:即今是恁麼意
 
とあります。有名な馬祖道一の答えです(「景徳伝灯録」巻六・馬祖章)。

小川氏は、

 ・・・如何なるか是(これ)祖師西来意とは、即今是恁麼意、つまり、ただ今この場のことはどういう意味だ。遥か昔の達磨のことではなく、今のあなたの心の問題だ(自分の心を直視することが大切だ)・・・

と解釈しています。つまり、小川氏は即今是恁麼意を「即今(そっこん)は是れ恁麼(なんの)意ぞ」と読み、馬祖の即身是仏とからめて解釈しているのです。つまり、仏とは人間の心の問題だ(心そのままが仏である)だと言うのです。筆者は、即今是恁麼意を、小川氏とはまったく別の意味に解釈しています。筆者は「即今(ただいまとは)、是れ恁麼(〇〇だと判断していない時)という意味だ」と読みます。すなわち、「一瞬(即今)の、まだそれが何か(恁麼)と判断する前(時節)の体験」です。つまり、これこそ筆者がよく言うの解釈そのものなのです。

 この馬祖道一と弟子との問答についての筆者の解釈は、趙州と弟子との問答、

  僧、趙州に問う「如何なるか是れ祖師西来意」
  趙州曰く「庭前の柏樹子」

の答えとして以前お話した庭前柏樹子についての解釈、

 ・・・「庭前柏樹子」の意味は、「あの庭の柏樹だ」と言われて思わずそれを見た僧の体験、つまり、筆者がこのブログで繰り返している「空」理論を示したのです・・・

と符合するのです。祖師西来意や、庭前柏樹子などの禅語については、じつにさまざまな解釈がされています。しかし、筆者の解釈によれば、馬祖の答えと趙州の答えがぴったりと一致するのです。