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禅とはなんだろう

        中野禅塾 (2015/9/15)

禅とはなんだろう(1)

 ブログを読んでくださった方から、「もっと初心者の方にもわかりやすい記事を」とのアドバイスをいただきました。そこで、シリーズを一休みして、「なんのために禅を学ぶのか」についてお話しさせていただきます。もちろん、禅を学ぶ目的は人さまざまです。

 最初の著書「禅を正しく、わかりやすく」(株式会社パレード)にも書きましたように、筆者は6年ほど前、大変苦しい状況に陥りました。その時、是が非でも自分を支える思想を必要としました。「一度落ち込むと、負のスパイラルに入る」ことだけは感覚的に承知していたからです。筆者は昔から、さまざまな本を読んで「これはいいな」と思われる語句をノートに記録してきました。将来困った時、自分を支えるものになるだろうと考えたからです。6年前のその頃、2-3冊になったノートを必死になって読み返しました。しかし、残念ながら力にはなってくれませんでした。

 そこで、「禅を本格的に学び直そう」と決心しました。なぜ禅に思いが行ったのか、今ではよく思い出せません。たしかに何十年も前から禅に興味を持っていてたのですが、いろいろな本を読んでもどうもよく分からなかったのです。今振り返ると、どうも、それらの解説書を書いた人自身がよく分かっていなかったからだろうと思われます。そこで、解説書ではなく、自分自身で、原典である道元の「正法眼蔵」に取り組むことにしました。図書館で検索してみますと、橋田邦彦先生の「正法眼蔵釈意」(山喜房沸書林)が見つかりました。橋田先生は、元東京大学医学部生理学教授で、近衛内閣の文部大臣をされた人です。惜しくも終戦直後、戦犯にされるのを嫌って自死されました。橋田先生の「正法眼蔵釈意」は戦時中の出版で、紙質が悪く、破れかけているのを慎重にコピーしました。

 橋田先生の文章も筆者には非常に難しかったのですが、いかにも学者らしい、誠実な人柄が偲ばれ、同じ学者として共感が持てました。必死になって読み進みますと、やはり橋田先生こそ「本当に禅が分かった人だ」と思いました。橋田先生は、近・現代のいかなる僧侶や仏教解説者達の助けを借りることなく、独力で「正法眼蔵」の解釈に挑戦されました。先生の本を読みますと、「禅が分からない」と言う人達に、「君達は中学・高校・大学と何年も勉強して、医学のことが少し分かるようになったのではないか。2年や3年で禅が分かるはずがない」と言っておられたそうです。驚くべきことに、先生は当時、医学部のセミナーとして、毎週一回「正法眼蔵」についてお話しされていたそうです。

 全3冊を読み進んだ頃、いろいろな幸運も重なって、筆者は苦境を脱出することができました。今では、何か人生の「核」ができたように、心強く思っています。

 次回は、禅の精神を世界平和のために生かすための活動をしていらっしゃるベトナム出身のテイク・ナット・ハン師についてお話しさせていただきます。

禅とは何だろう(2)

テイクナットハン師の活動
テイクナットハン師(1926~)はベトナム出身の禅僧です。フランスとのインドシナ戦争、アメリカとの戦い、そして南北ベトナム戦争と、長い間「明日の命もわからない」渦中にあった人です。しかし常にどちらの勢力にも属さず、非暴力を訴え続けました。そのため、北ベトナムによる統一後も国を追われ、現在はフランスの農村にプラムビレッジ(すももの里)と呼ばれる修養の場を開きました。今では毎年、世界中から多くの人が修行とリトリート(自分を見つめ直す)を受けに訪れています。驚くべきことに、そこではイスラエルとパレスチナの人々も一堂に会しているのです。ハン師は「行動する仏教」運動を実践しています。

 あの東日本大震災の時、多くのわが国の仏教僧たちが現地を訪れ、被災者に対する誠実な傾聴活動を行ったことはよく知られています。しかし、そのほとんどが挫折したのです。ある有名寺院の布教教化委員であるエリート青年僧が、自分の無力さを感じ涙を流していたと、NHKテレビで放映されていました。僧達の気持ちが純粋であっただけに、見る者の胸を打ちました。筆者にはどうしてもわが国の仏教、ことに大乗仏教が衰退してしまったためと思わざるを得ません。

 これに対し、ハン師の「行動する仏教」は、具体的で、はるかに説得力があるように思えます。ハン師の実践は、いわゆる南伝仏教(註)の「気付き」を基本とします。国家同士、民族、異なる宗教、宗派、さまざまな組織、家族間であれ、まず対立する一方が、自らの怒りや恐怖をはっきりと認識し、その上で慈愛をもって相手の言い分に耳を傾けようと言うのです。お互い、長い恨みの歴史があり、不信や疑心暗鬼も生じているはずです。また、話し合いの途中でも思わず暴言を吐き、相手の話を途中で遮ることも必ずあるでしょう。しかし、まず自分の心を見つめ直し、怒りや不信の根に「気付こう」と言うのです。その上で、相手の言葉尻に捉われることなく、最後まで相手の話を聞き、共感できるところは共感しようと言うのです。これらのハン師の平和主義は、世界中の人々の共感を呼び、さまざまな国でリトリートを行い、アメリカ連邦議会や、フランスのユネスコにも招かれ、講演を行っています。
 ハン師の活動は、まさに禅の教えを世の中のために生かしている好例でしょう。

註 釈迦によって始められた仏教は、その後チベットや西域、中国、朝鮮、日本などに伝わりました。  北伝仏教と称します。一方、スリランカ、ミャンマー、タイなどに伝わったものを南伝仏教と
  言います。北伝仏教が、いわゆる大乗仏教であるのに対し、南伝仏教は初期仏教の影響を色濃く 
  残しています。ハン師の言う「気付き」は南伝仏教で重視される修法です。ちなみにインドで
  はその後、仏教は衰退し、ヒンズー教が主流を占めています。

禅とは何だろう(3)

 禅は東洋独特のモノゴトの観かたです。西洋の哲学や科学の特徴は、モノゴトを区別し、分析し、比較することにあります。筆者も長年生命科学の研究をして来ましたから、それがよくわかります。この思考方法が科学研究の基本として使われてきたたため、皆さんご存知のすばらしい医療技術や工業技術の発展をもたらしました。

 しかし、一方、このモノゴトの見かたが政治や経済の哲学としても使われたため、国家や宗教間の深刻な対立を生み出しました。第二次大戦中のドイツは、「異教徒」としてユダヤ人の大量虐殺を行いましたし、現在では、キリスト教徒とイスラム教徒の対立は激しさを増す一方です。しかし、キリスト教とユダヤ教やイスラム教は、歴史的に言って、ごく近い教えなのです。しかもイラン、シリア、イラクやアフガニスタンなどの人びとの間の対立は、同じイスラム教のシーア派とスンニ派同士の争いなのです。私たち日本人には信じられないことですね。

 宗教派閥の間ばかりではありません。社会主義系のロシアや中国と、自由主義系のアメリカやイギリス、フランス、ドイツなどとの争いは、朝鮮半島やベトナム、さらには中東での代理戦争から、経済問題にまで及んでいます。これらはすべて西洋的モノゴトの考え方、つまり区別と分析と比較に基づくものです。今、世界では、投機が経済を引っ張り回し、円やドル、ユーロなどのわずかな変動で、さまざまな国の経済が浮沈しています。マネーゲームですね。そのため、真面目なモノづくりや貿易活動など、あっという間に吹っ飛んでしまうことが、日常的に繰り返されています。わずか7年前のリーマンショックが世界経済を激震しました。しかし最近、アメリカの金利値上げが現実になってみると、もう、リーマンショックの震源地だったアメリカで、マンションや住宅などの不動産投機が盛んになっているのです。「人間は歴史を教訓とする」など、まったくの誤りですね。
 政治や経済問題ばかりではありません。この考えは日本にも深く浸透し、会社間の競争が激化し、過労死や、うつ病患者を増やしています。さらに受験戦争をとおして、子供たちの心を大きく蝕んでいます。人びとは心休まるときがないのです。

 世界の心ある人たちには、世界はもうどうしようもないところまで来ていると思えるのです。

 これに対し、そもそも禅には対立や、比較して優劣を評価する思想がまったくないのです。また、人間同士はもちろん、人間と自然とは一体なのです。禅ではよく、「父母未生以前の自己如何」と言います。「父や母すら生まれる前のお前はどうか」という意味です。つまり、他人との比較というような、相対的な自分というものを離れた、絶対・普遍的な本来の自分を考えなさい」というわけですね。いかにこれまでの西洋的モノゴトの見かたと違うか、よくお分かりでしょう。そのため、この東洋独自の思想のすばらしさに気付いた西洋の有識者たちは、今こぞって、禅に強い関心を持つようになっているのです。禅の目的は、穏やかで、心豊かな人生を送るためのものなのです。

 禅こそ、世界を救う大きなカギなのです。

中野禅塾だより

中野禅塾だより(1)

このコーナーは、正式のブログとは違って、筆者の禅に関する雑感を、折に触れて書いたものです。気楽にお読みください。

禅は、「わかったか、わからないか」の世界である、とよく言われます。私も学び始めたころ、つくづくそう思いました。それでもその後、だんだん事情がわかってきました。まず、「禅は教えてはいけない、ヒントを与えるだけで、直接修行者の心に響かせる」という鉄則があるからです。「直指人心」と言います。たしかに教えられてしまったら、かえって心に残らないからで、あくまで自力で理解することが大切です。もう一つ、禅のわかりにくさは、どうもこれまでの僧侶や仏教の解説者自身が、よくわかっていないためではないかと思うようになりました。

たとえば、生涯に100冊近くの仏教に関する著書を出し、数多くの講演をした有名なM禅僧がいました。私が禅の思想の基本とされる、般若心経について初めて読んだのは、彼の書いたものでした。40年前のことです。なかなか良いことが書いてあると思ったのですが、どうしても「空(くう)」についての彼の解釈には納得が行きませんでした。その本は今でも手元にありますが、

・・・あらゆるものは空であるから実体がない。それはあらゆるものは常に変化し一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わり合っている。だから苦しみや不安などの実体は無い・・・

と言うのです。ここのところがどうもピンと来なかったのです。この「どうもピンとこない」という感覚は大変重要なのですが、それは次回以降、触れて行きます。そして、「どうやら彼自身もしっくりいってないのではないか」と感じました。たぶん、あらゆるものを「ない、無い」と言っても、生身の人間まで否定できるのかと、自分でも不安になったのでしょう。なによりも、そう言う人の頭をポカンと叩いてみれば、「イタッ」と、実体があることがわかるはず。そのため彼は「否定の否定」などと説明していました。どうしても苦し紛れのつじつま合わせとしか思えません。禅はきわめて厳しい世界です。「わかったか、わからないか」だけなのです。「わかったと思う」というのはないのです。

「空」の思想は大乗仏教の要諦だと思います。「空」に関心を持ったのなら、「色即是空・空即是色」と広げて下さい。般若心経の一節ですね。この経典は、大乗仏教の根本教典の一つ、大般若経600巻のエッセンスだとされています。わずか276文字からなるものです。ついでですが、この経典は短いのでぜひ暗記して下さい。いつでもどこででも口ずさむことができますし、それを読誦することが大きな意味を持つのです。それは後でお話します。「空」の思想は、インドの龍樹によって確立されました。しかし、じつは龍樹の「空」思想は、禅の「空」思想とはまったく別ものだと、私は考えています。

こんなわけで、般若心経については、じつに多くの解説書が出されています。僧侶、仏教学者、仏教評論家などによるものです。一度、書店や図書館を訪れ、宗教関係のコーナーへ行ってみて下さい。般若心経の解説書がいくつも目に付くはずです。それほど多くの人の関心を集めているのでしょう。しかし、さきほど述べたM禅僧のものをふくめ、驚くべきことに、「色即是空・空即是色」の解釈のほとんどは間違っていると思います。

この問題は、次回、さまざな解説者の解釈を比較することによって検討します。

中野禅塾だより(2) (2015/2/1)

 「空」は大乗仏教の基本理念の一つです。「空」について、従来のさまざまな解釈を紹介しますと、

 1)前号で紹介したM師の解釈は、
  ……あらゆるものは空であるから実体がない。それはあらゆるものは常に変化し一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わりあっている。だから苦しみや不安などの実体はない……
でした。一方、

 2)Hさんは、
  ……空とはうつろ、ふくれたもので中がない状態をいう。そこからこの世の一切のものには固定的、実体的な我や自性などはない。この世の一切の現象は、因(直接の原因)と縁(間接)の原因が和合して消滅をくり返す。したがってどんなものにも固定的な実体がないというのが、空のとらえかたである……

と解釈しています。また、

 3)N師の解釈は、
 ……(「色即是空」について)色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる。したがって色即是空とは物質世界は現象であって、有でもなければ無でもない、の意、いわば唯心的な主張。空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界意外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張……

と述べています。

筆者のコメント:そもそも「絶対無」とは一体なんでしょう。「無」とどう違うのか。おそらくN師は、般若心経には別に「無」という概念があるので、別の概念を入れざるを得なかったのでしょう。しかし、それにはその正確な定義が必要だと思います。それがなくてはN師の主張のすべてては成り立たない。それが「論理」というものだと思います。

4)G師の解釈(「面白くてよくわかる般若心経」アスペクト社)は、
 ……ものには「客観的な姿」というような実体はなく、それを見たり聞いたり匂いをかいだりする個々の感覚器と脳とで把握できるだけの現象しか認識できない……
「色即是空(色すなわちこれ空なり)」……私達が知覚するあらゆるもの、現象は、すべて実体がなく、絶えず流動している空である……このとらえ方は、釈尊の教えである「諸法無常」「諸法無我」と同じ意味をなしています。「諸法無常」とは、「この世のすべてのものは絶えることにない変化のなかで流動しており、移りゆく無常のものである」ということですし、また諸法無我は「すべてのものに永遠不変な実体はなく、他のものと関係しながら成り立っている」という意味ですこの、「ほかのものと関係しながら成り立っている」というのは釈尊の教えの縁起という考え方です……
「空即是色」……これは前項の対句となる言葉です、つまり空であるがゆえに縁起は絶えず起こり、あらゆることは関わり合いを持ちながら変化し、その時々の「色」として現れる、空があらゆるものになる、という意味を持っています。

筆者のコメント:つまり、M師、Hさん、G師ともに、釈尊の教えの基本原理である、縁起と無常をもって「空」を説明しています。これが平均的解釈でしょう。しかし、そもそも釈尊の教えは、それらとは違うのです。仏教を解釈する上でいちばん注意しなければならないのは、釈尊の教えが、その後次々に深化し、選択され、拡大していった事実です(これを「増広」と「損耗」と言います)。つまり、釈迦の教えはその後変貌してしまったのです。いわゆる大乗非仏説(大乗経典は釈迦の説いた法とは別ものである)です。私は、釈尊の説いたのは因果の法であり、それが因縁起の法となり、さらに縁起の法となって行ったと思っています。さらに、無常や無我の思想も、釈尊の思想が後に大乗仏教徒によって付け加えられたものだと考えています。これらについては後ほど改めてお話しします。上でお話した事情を理解していただいた上で、G師の解釈について筆者の感想を述べますと、
 まず、「色即是空・空即是色」の「即」は、G師の言うような「すなわち」ではありません。「即座のそく」なのです。これは重要です。さらに、「空即是色」は「色即是空」の単なる対句ではありません。対句という解釈は多いのですが、じつは、これらの言葉には大切な意味があるのです。中国唐時代から、わが国の栄西、道元に続く祖師達が、死に物狂いで理解しようとしてきたのはこの点なのです。これらのことがわからなければ、この重要な思想はわからないのです。

5)柳澤桂子さんの「空」の解釈(堀文子と共著「生きて死ぬ智慧」小学館)

お聞きなさい
あなたも 宇宙のなかで
粒子でできています
宇宙のなかの
ほかの粒子と一つづきです
ですから宇宙も「空」です
あなたという実体はないのです
あなたと宇宙は一つです

「あとがき」で柳澤さんは、
 ・・・私たちは原子でできています。原子は動き回っているために、この物質の世界(宇宙か?:筆者)が成り立っているのです……一面の原始が飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところ(人間や物質?)があるだけです……あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです・・・と述べています。

中野のコメント:この解釈は誤りです。宇宙物理学から言ってもこの説は間違っています。それ以外にコメントしようがありません。

読者の皆さま
 私のブログのアップも、最初の頃は慣れていなくて、抜けてしまったところがあります。そこで、改めて以下を再投稿させていただきます。本来は3月にアップしたものです。

中野禅塾だより(3)(2015/3/1)

 私のホームページも、登録後3ヶ月たってようやくオープン、すなわちネットで検索していただけるようになりました。そこで、今後皆さんにお伝えしていきたいことのアウトラインについてお話しします。
 著者プロフィールにも書きましたように、これまで禅に関する著書を3冊出版しました。とくに第1冊目は、道元禅師の「正法眼蔵」について、できるだけわかりやすく解説しました。現在までに完成している禅関連の著書原稿は、

1.「永平元禅師語録」(つまり「永平広録」のエッセンス)の筆者新訳

2.「臨済録」の筆者新訳

3.「禅の本流に戻る I」(近・現代の代表的な禅師の考えの比較評論)

4.「禅の本流に戻る II」(同 続編)

5.「禅はすばらしい」(釈迦以前のインド哲学から、釈迦の思想、それ以降の原始仏教、大乗仏教から、禅思想に至る仏教の歴史を考察したもの)

6. 「私の祈り、あなたの信念」(「祈り」について考察したもの)

7.「悟りとは気付きである」

などが完成しています。さらに、浄土系思想を考察した、

8.「親鸞を問う」

また、命の根源について考察した、

9.「私とは何か、いのちとはなにか」

10.「死後の世界はあるか」

についても原稿は完成しております。その他、「従容録」(「碧巌録」と重複する部分が多い)の筆者新訳を現在執筆中です。

 つまり私は、禅を中心に精神世界や、信仰について、できるだけ広い視野で考えていきたいのです。したがって私のホームページは、現在のこの視点に立って書き進めているのだということをご承知ください。

なお、今回のキーフレーズは、神は実在されるです。

中野禅塾だより(4) (2015/4/1)

今回は、禅のお話を進める前に、もう少し基本的なこと、「悟り」についてお話いたします。

 悟りについて

 「悟り」について、次の三つの疑問があります。すなわち、

 1)「悟り」の目的は何か
 2)「悟り」とはどういう状態か
 3)なぜ神は限られた人にしか「悟り」を与えないのか

です。
 1)については、「悟り」は仏教信仰の究極の到達点だということです。仏教信仰の目的はさまざまでしょう。苦しみや悲しみから抜け出て絶対的な心の平安に至りたい、という人もいるでしょう。もちろんそれは重要なことです。一方、おもに専門の修行僧達は、釈迦の教えが出る以前、インドの古代宗教であるヴェーダ信仰の時代から「悟り」を目指して修行してきました。「悟り」とは神との一体化であり、信仰を持つものなら当然それを目指すはずでしょう。キリスト教やイスラム教では、「悟り」のための修行はなさそうです。その理由については次回以降にお話します。

 2)仏教では「なま悟り(わかったつもり)」を厳しく戒めています。「なま悟り」かどうかは自分ではよくわかりませんが、それを示す良い例があります。あの弘法大師空海は、室戸岬の洞窟(御厨人窟みくろど)で「虚空蔵求聞持法」という真言(短いお経)を百万回唱えることによって悟りに達したと言われています。じつは、この修法は今でも、高野山の限られた僧だけが実践しています。108個の数珠玉をまさぐりながら1日2万回なら50日、1万回なら100日唱え続けるのです。それがどれほど過酷な修行かは、2万回唱えるには8-10時間かかること、100万回唱えても奇跡が起こらなけばもう一度やり直さなければならないことからわかります(奇跡の内容については秘密ですが、想像はできます)。

3)もちろん「悟り」は神によって公認された修行です。しかし、「なぜ神はごく一部の人にだけそれを成功させるのか」という疑問があります。答えを得るには、まず、人間がこの世に生きる意味を考えなければなりません。私の想像を交えて一口で言いますと、「神は自分の完全さを知るために人間をお造りになった。人間は不完全なものであり、この世に生きる間にさまざまな苦しみや悲しみに会う。生まれ変わりを繰り返す間にそれらを克服し、魂の成長を遂げて、最終的に神の境地に達する」というものです。生まれ変わり(輪廻転生)は、人によっては何千回、何万回にもなると言います。それどころか、人間以外の動物や虫になることさえあると言います。親鸞が「人身得難し、今すでに得(う)く」を言ったのは、「今、人間としてこの世に生まれてきたことのありがたさを思いなさい。この世にいる時だけ魂の成長ができるから」との意味です。
 「この生で一度に悟りに達するか、何千回も苦しい人生を繰り返して悟りに達するかは、その人の自由だ」これが(筆者の考える)神のご意志です。神はけっして人間を指図されません。

 中野禅塾だより(5)(2015/10/15)

 筆者のブログを読んでくださっているから質問がありました。

 ・・・平安時代の文盲の人たちはただ「南無阿弥陀仏」を唱えればいいでしょうが、現代の人たちは全て教育を受けていますから、力で悟らなければいけないのですか?多分ほとんどの人が自力で悟りを開ける人はいないように思えます。ただ習慣で先祖代々の宗教で疑いもせずお参りをして(満足はしていないと思いますが)一生を過ごす人が特に日本人には多いと思います・・・

というものです。筆者の答えは次のようなものです。
 
 ・・・法然や親鸞は、ただ文字も読めない、平安時代の人々のために「南無阿弥陀仏と唱えなさい」と言ったわけではありません。もっと深い、例えば現代人にも十分通用するような教えを説いたのだと思います。確かに「ただ習慣で先祖代々の宗教で疑いもせずお参りをして一生を過ごす人が特に日本人には多い」のは事実でしょう。そこが問題なのです。あなたも、その人たちも、法然や親鸞の言う他力本願の真意をわかっていらっしゃらないのだと思います。これは重要な問題ですから、このブログで追々お話していきます。

 あなたのおっしゃるように、禅は厳しく、長い修行が必要だと言われています。しかし、筆者がそもそもこの禅塾を立ち上げたのは、だれでもが、真剣に、そして継続する気持ちさえあれば、いわゆる悟り(究極的な心の平安)にたどり着けるような道を探して、皆さんにお伝えするためです。筆者が、禅はもちろん、浄土思想などの他の仏教宗派やキリスト教やスピリチュアリズムなど、幅広く、できるだけ深く学んでいるのはそのためです。最近、少しづつ見えて来たようです。

中野禅塾だより (6)(2015/10/24)

 筆者のブログを続けて読んでくださっているから質問がありました。

・・・聖書を信仰としてではなく、教養として勉強しています。キリスト教信者は、聖書のみを信仰の原点とし、カトリックはプラトン哲学やアリストテレス哲学を取り入れた神学を認めず、背教と非難します。宗教であれば神の言葉のみを大事にすべきで、人間の解釈などは否定されるべきなのでしょう。あなた(筆者)の新ブログにも書いてあるように、大乗仏教は初期の釈迦の教えからかなり変貌を遂げているようです。哲学なら進化の過程で変貌を遂げても不思議な無いでしょうが、宗教としてみれば神や仏の教えから逸脱したり、他の宗教や思想が混入する(カトリックには北欧宗教の影響が、仏教には老荘思想)のは創始者から見れば背教ととらえられるかも知れません。カトリックも仏教界も神や釈迦の精神を受け継いでいるというのが主張でしょうが、原理主義の人からみれば違うかもしれません。今の仏教界も変貌を簡単には認められないのではないでしょか・・・

筆者のコメント:おっしゃるように、大乗経典は、釈迦の教えからかなり変貌していると思います。もちろん筆者が知りたいのは釈迦の教えそのものですが、大乗仏教も決して否定していません。ただし、幾つかの宗派が言っているような、大乗経典類を「釈迦の言葉だ」することは問題です。インドは、哲学的な国民性だと言われています。もちろん釈迦は傑出した人で、神からの啓示を受けていると思います。それでも大乗仏教を考えた人達も、やはりすぐれた思想家です。現に筆者は、浄土思想もすばらしいと考えています。筆者のブログは禅を中心にしていますが、浄土思想の問題点やすばらしさについてもお話を始めています。

 釈迦の教えを真摯に我がものとしたいと考える上で、その教えを自分の納得できる形で理解しようとするのは、人間としてむしろ当然のことと思います。プラトンやアリストテレスは、もちろん、聖書とは別に、独自の哲学として研究した人たちでしょう。それでもギリシャや西欧の人たちがプラトンやアリストテレスの思想との関連においてキリスト教を学ぶのは、むしろ真摯な信仰の表われだと思います。中国でも老荘思想など、古くから親しまれた思想があり、新しく入ってきた仏教をその基盤の上でとらえたのも、もっともなことでしょう。

 筆者は、キリスト教もすばらしい宗教だと思っています。しかし、人間の考え方や価値観が多様化した2000年後の今日、一人ひとり異なり、かつ、さまざまな人生の局面において、聖書の語句を画一的な絶対の拠り所とするのには、いささか疑問も感じています。自分の尊厳はどうなるのでしょう。ましてや聖書から少しでも外れるのを背教と決めつけるのは、いかがなものか。さらに、ある宗派では輸血も禁じていますが、緊急輸血が必要なとき、両親がそれを拒否したため、子供が亡くなったケースも現にありますね。原理主義という言葉にある、やや特異的な意味合いの現われではないでしょうか。

 筆者は、聖書からいったん離れ、キリスト教を独自の視点で考え直して、初めて救われた人を目の当たりにしているのです。

禅はなぜわかりにくいのか

   中野禅塾だより (2015/8/15)

禅はなぜわかりにくいのか(1)

 禅はなぜむつかしいのか・・・。仏教はなぜ分かりにくいのか、と言い換えてもいいと思います。筆者は、その理由の一つとして、仏教があまりにも拡大されてしまったこと、その歴史的展開をごっちゃにしていることが原因だと考えています。たとえば、中野禅塾だよりNo.2(2/1)でお話した、「空」についての、現代の有名な禅師や仏教解説者であるM師やHさんの解釈:
  ・・・あらゆるものは空であるから実体はない。それはあらゆるものは常に変化し、一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わりあっている。だから苦しみや不安などの実体はない・・・(M師)
  ・・・空とはうつろ、ふくれたもので中がない状態をいう。そこからこの世の一切のものには固定的、実体的な我や自性などはない。この世の一切の現象は、因(直接の原因)と縁(間接)の原因が和合して消滅をくり返す。したがってどんなものにも固定的な実体がないというのが、空のとらえかたである・・・(Hさん)

を見ればわかります。両者とも、仏教の根本理念とされる「無常」「縁起」「無我」「苦」を使って解釈していますね。じつはそれらすら、釈迦が説いた法かどうかは分からないのです。釈迦が悟りを開いて最初に説いた法を「初転法輪」と言いますが、仏教に関する本のどれにも、

 ・・・このとき説かれた教えは、中道と、その実践法たる八正道、苦集滅道の四諦、四諦の完成にいたる三転十二行相、であったとされる・・・
とあります(八正道とか四諦、三転十二行相の意味は、それぞれ調べてください)。このように仏教には数字がさまざま出て来て、分かりにくさの原因となっています。じつは数字をやたらに使いたがるのはインドの人々の性癖なのです。そんなものに振り回されてはいけません。初転法輪がどのようなものであったのかも、今ではよく分からないのです。
 釈迦没後長い間、その教えはもっぱら口伝で伝えられました。100-200年くらい経って、いわゆる部派仏教徒達によって文書としてまとめられました。いわゆる阿含(あごん)経典類です。さらに100-200年経った紀元前後から、それらが整理され、拡大されて成立したのが「般若経(初期)」「維摩経」「法華経」「浄土三部経」などの大乗経典類です。紀元2世紀頃のインドの人、龍樹(ナーガールジュナ)が「空」の理論を打ち立て、仏教のその後の方向性を決めたのは有名な話です。
 仏教の経典類はこのような歴史的変遷を経ているのです。キリスト教がイエスの死後わずか30年で確立されたことと大きな違いですね。にもかかわらず、現代の仏教各宗派が、自らの根本経典を「これこそ釈迦が悟りの後最初に説かれた教えである」とか、「最後に説かれたもっとも重要な法である」などと言っています。本当に困ったことです。
 膨大な仏教経典類を読破し、「それらはだんだん積み上げられたものである」と、世界で初めて洞察して整理したのが、江戸中期の大阪の私学校の学者富永仲基で、わずか31歳で夭折した大天才です。今では「大乗経典類は釈迦の教えとは無関係である」ことは定説になっています(大乗非仏説)。
 このように、複雑な仏教経典類も、もつれた糸をほぐすように読み解いていけば、だんだん分かってくるのです。

禅はなぜわかりにくいのか(2)

 前回、仏教はなぜわかりにくいのかの理由について書きました。それは釈迦の死後、つぎつぎに教えが拡大解釈されていったためです。たとえば「大般若経」を取り上げても、紀元前後に成立した第一バージョンから、あの玄奘三蔵(7世紀の人)のバージョンまで3つもあるのです。「釈迦の本当の教えは何だったのか」は、真摯な仏教徒なら誰でも知りたいところでしょう。その意味で、大乗仏教の経典類には、筆者は批判的です。ただ、否定はしません。インドには哲学的な国民性があり、釈迦は傑出した人でしたが、決して奇跡の人ではないからです。その以前も、以後にも優れた哲学者がたくさんおり、大乗経典は、深い思索の結果生まれた、新しい仏教の教えと言ってもいいからです。

 それでも釈迦の教えそのものを知りたいのが多くの人々の願いでしょう。前回お話した、部派仏教の各部派では、釈迦の教えにもっとも近いとされる、スッタニパータや、ダンマパダ、ウダーナヴァルガなどをそれぞれ根本経典としています。スッタニパータは「ブッダのことば」、ダンマパダ、ウダーナヴァルガは「真理の言葉 感興のことば」として中村元博士によって翻訳され、岩波書店から出されています。中村博士(1912-99)は、筆者が最も尊敬する仏教学者で、パーリ語、サンスクリット語など、インドの古語や文化に精通し、その卓越した知識と語学力により、上記の経典や、大乗仏典を翻訳、解説されました。中村博士の翻訳によるスッタニパータやダンマパダ、ウダーナヴァルガは、大乗経典類とは異なり、短い話言葉で書かれており、釈迦の教えがその後ずっと口伝で伝えられたことが彷彿とされます。それでも筆者は、それらは釈迦の教えの一部にすぎないか、脚色されたものとみなしています。

 前回お話ししたように、現在、釈迦の教えのエッセンスは、「苦」「縁起」「無常」「無我」だとされており、近現代のわが国の仏教解説者達は、それらをキーワードとして仏教経典類を解釈しています。しかし、それが大きな誤りの原因であることはすでにお話しました。釈迦の悟りの内容について、筆者は「すべての苦しみには原因がある。それにこだわることが苦しみとなっている」だと思います。「因果の法」ですね。しかしその後、とくに大乗仏教徒によって「縁起」になり、「因縁起」と拡大解釈されていったのだと思います。この「拡大(増広と言います)」こそ、曲者なのです。「空」の解釈でお話したM師やHさんは、有名な人達ですが、いずれもその轍を踏んでいるのです。
 このことを念頭に置いて、さまざまな解説書を読むと、現代の仏教解説者の誤りがだんだん見えてきます。

宗教と科学

宗教と科学(1)

 後輩Iさんは、誠実そのもので、知性あふれる人です。蔵書7000冊(今は大分整理)からも、その奥行きがお分かりいただけるでしょう。筆者は数か月に一度、彼と会って、お茶を飲みながらその教養の一端を知るのを楽しみにしています。Iさんはここ半年、その延長として、聖書について学んでいるとのことです。彼の古い友人が、キリスト教の一宗派の熱心な信者だとか。そこで筆者もこのところ、彼を通じてキリスト教の話を聞いています。この宗派は、やや特異なものとして知られていますが、第二次大戦時、「信仰に反するから」と、徴兵拒否したドイツやソ連の信者の話は胸を打ちました。恐らく強制収容所や、シベリア送りになって、その多くは死んだでしょう。
 ただ、Iさんとは話が平行線になることも少なくありません。彼はギリギリのその時、「宗教と科学は別だと考えていますから」と言いました。そこで、今回、この重要な問題について、筆者の考えを述べます。

 筆者は、宗教と科学は完全に一つ、と考えています。これは、長年、生命科学者として生きて来た実感です。その経験から、生命は神が造られたとしか思えないのです。筆者にとって神への信仰と科学研究は完全に一致するものなのです。

 現代の唯物論的生命観からは、「生命は偶然の重なりによって出来た」と言われています。しかし、筆者はその考えには与しません。138億年かけて人間は、ビッグバンから始まる宇宙の発展原理や構造まで解明できるようになりました。これはすごいことです。この宇宙の誕生から進化も含めて、偶然の積み重ねと言うには余りにも飛躍があると思うのです。人間はもちろん、あらゆる生命も、山も川も草も木も、そして宇宙全体も、神が造られたものに違いありません。
 
 生命は神によって造られたという、筆者の信仰の基盤は、筆者自身がつかんだものです。誰から教えられたものでもありません。そのことをほんとうに嬉しく思うのです。

宗教と科学(2)禅は宗教か

 禅が宗教であるかどうかは色々な考えがあると思います。「当然じゃないか」と言う人も、「哲学である」と言う人も。筆者は、そのどちらとも少し違う考えを持っています。もちろん禅宗は宗教の一宗派です。あの曹洞宗永平寺にも本尊があり、釈迦如来、弥勒仏、阿弥陀如来です。釈迦如来は説明の必要はありませんね。阿弥陀如来は、無量寿仏、すなわち、「無限の寿命をもつもの」の意味で、西方にある極楽浄土を治める仏(東方は薬師如来)ですから、全宇宙を主宰する毘盧遮那仏(大仏)の一つ下の階級の仏のようです。 弥勒仏は、釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏とされていますが、大乗仏教では菩薩のお一人(如来の下)と言われています。つまり、道元が選択した永平寺の本尊は、ちょっと首尾一貫していないようです。つまり、宗教であるような、ないような捉え方です。
 じつは道元の著書をよく読めば、完全に哲学であることがわかります。禅の思想は、カント、ヘーゲル、フィヒテと続くドイツ観念論哲学と共通するところが多いのです。あの西田幾太郎の「善の研究」もその流れを汲むものです。西田は、禅に造詣の深い鈴木大拙と無二の親友で、思想的にもお互いに影響し合っています。それで筆者は、「善の研究」は「禅の研究」だとみなしています。

 「悟り」。禅を学ぶ人ならだれもが憧れる境地でしょう。しかし、それがどういうものか、イメージが湧きにくいですね。「ハラリと悟った」「身を見出した」「絶対平安の境地」・・・。筆者はそれを「神と一体になった状態」と理解しています。その意味では、禅は宗教と考えます。むしろ、仏教を一足飛びに飛び越えたものだと思います。その一方で、まぎれもなく「哲学だ」と思っています。哲学は人文科学ですから、筆者にとって、ここでも宗教と科学が融合しています。

色即是空・空即是色

         中野禅塾だより (2015/6/1)

「色即是空 空即是色」(1)

 前回、「空とはモノゴトを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触るなどの五感で感じる)一瞬の体験だ」と
お話しました。つまり、従来の、「私があってモノを見る」という唯物的見かたとはまったく異なる、物(モノ)と事(コト、現象)の観かたです。これまでのほとんどの僧侶や宗教学者は、この文言を「モノという実体はない」と解釈してきました。これは大きな誤りです。

 じつは、色即是空だけでは不十分なのです。空即是色と続けて初めて一つの思想になるのです。ここがきわめて大切です。その正しい意味は「モノがあって私が見るという見かたも、モノやコトを体験するという観かたも、両方正しい」ということなのです。道元も主著「正法眼蔵」の現成公案編で、

  ・・・色すなわち私達の五感で感知できる自然や物質はそのまま存在する。それは事実の一面である。もう一つの面が「体験」であり、空でなのだ。空は空でそのまま存在する。色と空は「不一不異」であり、「一如」である・・・

とはっきり言っています(以上、筆者訳)。
 ある近代の有名な禅師は、
 ・・・「色即是空」について、色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる……(中略)……空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、という主張(下線筆者)・・・

と述べています。こんな解釈(とくに下線部分)をしていては、一生かかっても禅は理解できないでしょう。そもそも絶対の無とはどいう意味でしょう。おそらくこの人は空の意味がわからず、「無のようでもあるが、無と言ってはおかしいし・・・」との苦しまぎれの説明をしたのでしょう。
 道元が言っている「不一不異」とか、「一如」は禅ではとても大切な概念です。同一なんかではありません。「同じではなく、別でもない」とは、一見、おかしな表現ですが、この概念をよく表わしています。心理学のテストで使われる「ルビンの盃」の絵があります。その絵の黒い部分を見ると盃に見えますが、バックの白い部分を見ると二人の人が向き合っているように見えます。このように、同じものでも視点を変えると別のものに見える。でもやっぱり同じものなのです。「不一不異」とは、たとえばこういうことを言うのです。色即是空で「空が実在である」ことを示し、一方で、空即是色、つまり「色も実在である」と言っているのです。是も、前述の禅師の言う、
 ・・・(即)是は、主語と客語をつなぐisに当たる・・・

は誤りで、色と空が「一如」だということを示すキーワードなのです。さらに重要なことは、同じ禅師の、
 ・・・空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして・・・

の解釈は大きな間違いであることがお分かりいただけるでしょう。前述のように、「色は空である」だけでは不十分で、「空は色である」とも言わなければ、この大切なフレーズは成り立たないのです。

 さらに、「色即是空」の即をすなわちと訳している人がいますが、まったくの誤りです。「即座」の即なのです。即座には深い意味があるのです。色と言いながら、即座にそれを否定して空と言っているのです。このように一瞬たりとも概念を固定しないのが、禅の重要な思想なのです。

色即是空・空即是色(2)

 前回、
 ・・・色即是空 空即是色 の正しい意味は、「モノがあって私が見るという見かたも、モノやコトを体験するという観かたも、両方正しい」ということなのです・・・

とお話ししました。

 今までほとんどの禅師も仏教学者も、この言葉を「モノという実体はない(だからこだわるな)」と説いてきました。そんな解釈で納得できるはずがありません。なぜなら、「あなたの体の実体はありません」と言われても、「ゴツン」とたたかれれば痛いからです。モノが実在することのなによりの証拠ですね。

 そもそも、空を「実体が無い」と解釈すること自体が間違いなのです。実体があるとかないとかの問題ではなく、モノゴトを観るという体験という観かたもある、というのが正しい意味なのです。さらに、「禅の基本は空の思想だ」というのも誤りです。よく知られているように、空の思想は紀元2-3世紀頃、インドのナーガルジュナ(龍樹)が確立しました。釈迦以来の仏教の大成者と言われている人です。しかし、禅の基本思想は空ではありません。色即是空 空即是色なのです。両者を一まとめにして一つの思想なのです。空の思想と禅は、基本的には別の思想なのです。空(体験)も色(モノ)も両方とも実体として認める。それが禅の思想なのです。いずれのモノゴトの見かたも正しい、しかしどちらにもこだわってはいけない、と言うのです。ある近代の禅師は、「空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界以外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張・・・」と言っています。こんな解釈をしていては、何十年経っても禅はわかりません。

 禅の初祖と言われる、あの達磨大師(ボーデイダルマ)がインドから中国へ来たのは、紀元5世紀の末のことです。つまり、ナーガールジュナの300年も後の人です。300年も後に同じ思想を持ち出してくるはずがないじゃないですか。ちなみに、有名な鳩摩羅什(クマラージヴァ、インド出身ですが西域の人)が般若心経を漢訳したのが5世紀初めです。しかし、中国ではなななかその教えは浸透せず、達磨大師の出現を待たねばならなかったのでしょう。あの玄奘三蔵訳(異論もあります)が出たのは7世紀半ばで、禅の隆盛は9世紀以降、唐の時代です。

近・現代の禅師や仏教学者が犯してきた上記の誤解釈が、これまでどれほど、まじめに禅を学ぼうとする人々を混乱させてきたか分かりません。道元の「正法眼蔵」や「永平元(道元)禅師語録」、公案集である「無門関」「碧巌録(従容録と重なる部分も多い)」「臨済録」などの原典をよく読めばすぐ分かることなのです。禅を正しく理解するには、仏教の歴史を学ぶことも大切です。それはまた後ほどお話しします。

色即是空(3)

 今回は、「般若心経」の中心テーマである「色即是空」について、近・現代の禅師や、仏教研究家の解釈を示します。いずれも有名な人達ですから、ネットでお調べください。

鈴木大拙博士(1870-1966)
 鈴木博士は、禅を初めて欧米に紹介した人です。筆者の知る限り、日本語で書かれた「般若心経」の鈴木博士の解説はありませんので、英文そのままを示しますと、

 ・・・form is here emptiness, emptiness is form; form is no other than emptiness, emptiness is no other than form・・・

筆者訳:形あるものは空っぽである。空っぽなものは形あるものである。形あるものは空っぽ以外の何ものでもない。空っぽなものは形あるものである以外の何ものでもない。

山田無文師(1900-1988)
 
 ・・・肉体は虚無を離れない。虚無は肉体を離れない。肉体はそのまま虚無であり、
虚無はそのまま肉体である。感覚や想念や意欲や或いは自我というような精神作用もまた
その通りである・・・

筆者はこの文を読むと頭を抱えてしまいます。

中村元博士(1912-1999)

 ・・・物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない・・・

中村博士は東大名誉教授。筆者がもっとも尊敬する仏教学者ですが・・・。

西嶋和夫師(1919-2014)

  ・・・色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる。したがって色即是空とは物質世界は現象であって、有でもなければ無でもない、の意、いわば唯心的な主張。空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界意外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張・・・

 なぜこれらの著名な方々と、筆者の解釈とはあまりにも違うのでしょうか。禅は、「わかったか、わからないかの世界」だと言います。前にお話したように、「色即是空」とは、「モノゴトの見かたには二通りある」と言っているのです。「空」は、この人たちの言うような特定の概念ではないと思います。そこがわからないと禅はわかりません。

(紹介した各禅師、仏教研究家の引用文献はすべて把握していますが、字数の都合上省略させていただきました)

      色即是空(4)

西嶋和夫師(1919-2014)の解釈をもう一度例に挙げて、筆者の解釈との違いを説明させていただきます。他人の考えを批判するのは心苦しいのですが、両者を比較する方が、違いが鮮明になり、分かりやすいと考えてのことです。
 西嶋師は、東京大学法学部卒、大蔵省、日本証券金融勤務を経て、1973年に永平寺東京別院の丹羽廉芳師(元永平寺管主)の下で出家。その後、嗣法(後継者になること)。あの澤木興道師の弟子筋に当たります(法名「愚道」は、師の名前にちなんだものでしょう)。西嶋師は、道元の「正法眼蔵」や、龍樹の「中論」の日本語訳出。わが国内外で講演活動を行うなど、近代の代表的な禅師でした。その西嶋師の「色即是空」の解釈が、

  ・・・色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる。したがって色即是空とは物質世界は現象であって、有でもなければ無でもない、の意、いわば唯心的な主張。空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界意外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張・・・

です。この解釈では、肝心なところが欠けています。まず、「色即、空即・・」の「即」は重要な意味を持っているのです。説明しなければなりません。ちなみに「即」は「すなわち」ではありません。即座の「即」です。さらに、「是」は主語と客語が同一であることを示す述語とありますが、「同一」ではありません。「一如」、あるいは「不一不異」です。これらの言葉には禅独特の深い意味があり、それがわからなければ「禅がわかった」とは言えないのです。
 つづく「空即是色」も、西嶋師が言うような「(色即是空の)主語と述語を反対にして」というような、単なる文章上のスタイルではありません。とても大切な理由があるのです。さらに、前回も指摘したように「空は有でもなく無でもない絶対の無」とはどういうことでしょう。「有でも無でもなければ」別の言葉を考えねばなりませんので、やむを得ず「絶対無」としたのでしょう。もちろん「有無を超越した」でも説明になっていません。「色即是空」が唯心論的立場で、「空即是色」が唯物論的立場とは!それも説明が必要でしょう。つまり、西嶋師の「色即是空・空即是色」の解釈は誤りだとしか言えないのです。

 筆者の解釈は、次回以降にお話していきますが、要するに、「色即是空・空即是色」とは、モノゴトのみかたの問題なのです。「モノの有る無し」でも、「モノには実体が有るか無いか」の問題でもないのです。
 真の意味は、モノゴトのみかたには、「見かた」と「観かた」の二つがあり、「見たモノと観たモノを一如とする」ことが、モノゴトの真実の姿を知るために必要だと言うのです。これこそ東洋的モノゴトのみかたの真骨頂なのです(「見かた」と「観かた」は筆者が便宜上作った言葉です。後で説明します)。