西嶋和夫さんの般若心経(1-4)

(1)西嶋和夫さん(1919-2014)は東大法学部卒。大蔵省を経て日本金融証券。勤務のかたわら澤木興道師の教えに従いつつ仏教研究を行った。永平寺の丹羽廉芳もとで出家。曹洞宗宝寿寺住職。主著は「現代語訳正法眼蔵全12巻」およびその解説(34巻)など多数。各地で日本人ならびに外国人に講義を行う。現在は、日本はもとよりアメリカ、ヨーロッパ、南米において弟子が活動をしている。長く、信者の篤志によって開設されたホームページ上で講演の内容が紹介され、筆者もよく読んでいました。昭和を代表する禅師でしょう。

 今回は「般若心経・参同契・宝鏡三昧提唱」(金沢文庫)に基づいて西嶋さんの考えの一端をご紹介します(一部言い回しは筆者の責任で変更しました)。

 1)龍樹の「中論」について

 ・・・今日の(日本の)仏教学会の通説では、「この世の中は、本来無いものである。それを一般に人々は、この世の中があるように錯覚している。この世の中は実際には存在しないことがわかることが仏教の勉強である」とされています・・・龍樹の「中論」を原文で読んでいくと、その教えはこの世の中は実在する。つまり「ダールマ」が明確に存在すると説かれている。ただ、人間はそれを頭で解釈しようとして、さまざまの幻影を作り上げる。眼に見えたもの、耳に聞こえたものだけが、ダールマのすべてだと錯覚する。したがって、そういう人間の考えの誤りを正すことが、龍樹の言う仏教の中心思想であって、ダールマの存在を疑っていることではない。しかもダールマは、たんなる理論ではなくて、われわれが生きているこの世界である(p2)・・・

筆者のコメント:まずダールマとは自然(宇宙)の原理を意味し、それはとりもなおさず、その現れである自然そのものを指します。

 ここで、西嶋さんの「中論」についての解釈が筆者とは異なることを指摘します。龍樹はインドの2-3世紀ころの人。それまで解釈が分かれていた「ダールマは絶対不変か」との議論に、釈迦仏教の基本理論である縁起の法を使って(註1)はっきりと否定したのが龍樹です。すなわち、「あらゆるモノゴトは原因(縁)があって生じ、縁が無くなれば消滅する」・・・これが縁起の法です。龍樹は「それゆえ、ダールマもその例外ではありえない」と言うのです。つまり、龍樹は「絶対不変のダールマなどない、その根拠(原因)が無くなれば消滅する」と言っているのです。西嶋さんの解釈では、ダールマの存在の一面しかとらえていないのです。龍樹のこの思想は、それまでの仏教界の混乱を一挙に沈静化し、以後の大乗仏教の方向性を決定したのです。それゆえ「八宗(仏教各宗派)の祖と称されています。

 ことほどさように、西嶋さんの「中論」解釈は、筆者のそれとは逆なのです。

 筆者が今回、西嶋さんの「中論」解釈の最初に「般若心経」解説を取り上げたのは、「中論」をベースにして「般若心経」解釈しているように思われるからです。

註1 じつは釈迦が説いたのは「縁起の法」などという抽象概念ではなく、「あらゆる苦しみには原因がある。それを突き止めることが苦しみから逃れる第一歩である」という、いわば「生活の知恵」なのです。それを後代の仏教学者たちが思想にまで高めて(低めて?)しまったことが、今日の仏教解釈の混乱を引き起こしたと、筆者は考えています。

(2)

西嶋和夫さんの般若心経(2)

 次いで「般若心経」に入ります。その冒頭に、(観自在菩薩は)照見五蘊皆空(五蘊すべてが空くうであることを認識された)とあります。西嶋さんは五蘊とは、

色(しき、姿・形態)、受(じゅ、感覚)、想(そう、思考)、行(ぎょう、行為)、識(しき、意識)のことだと言っています(p9)。

 以前お話した筆者の解釈は、

 色蘊  –  人間の体(眼や耳、皮膚などの感覚器官)と、認識する対象、すなわちモノ
 受蘊  -  見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚感覚などの感覚
 想蘊  - (「あれはバラだ」とする判断のための)知識
 行蘊  -  「バラを取りたい」という気持ち
 識蘊  –  「きれいなバラだ」と判断する価値基準の記憶

 西嶋さんの解釈は、それはそれでいいのですが、問題は、西嶋さんが「仏教では心と物とが一つのものだと考えれられている・・・仏教では、われわれの住んでいる世界が単に物だけでなしに、美しいものを見るとか、美しい音を聞くとか、あるいはおいしいものを食べるとか、そういう感覚的な働きも、この宇宙を形成している一つの集合体だという考えを持っている・・・この「五蘊」という考え方も、この世が物と、人間の心の働き、あるいは心そのものとが、共通の地盤の上で働いて、われわれの住んでいる世界が出来上がっていると考えている・・・それはについても同じで、われわれは脳を使ってさまざまなものを考える。そのことも仏教では、この世を形作っている一つの集合体だと考える。これはについても当てはまる。こういう形で、仏教では五種類の要素が、われわれの住んでいる宇宙を構成していると考えている・・・」との考え方です。

筆者のコメント:たしかにこのような考えをする仏教家は他にもありますが、筆者の考えは違います。筆者は「モノゴトの観かた(認識法)」だと考えます。たとえば、唯物論とか観念論とかいうような、「モノゴトの観かた」のことです。そうでなければ「般若心経」が、「度一切苦厄」、すなわち「正しくモノゴトを観て、苦から脱するための知恵」につながりません。いくら何でも「感覚的な働きも、この宇宙を形成している一つの集合体だ」と言うのには無理があります。

西嶋和夫さんの般若心経(3)

 いよいよ「般若心経」のハイライト「色即是空 空即是色」に入ります。西嶋さんは、「色即是空」を、われわれの住んでいるこの世界が、ありのままの姿そのものである。われわれはあたまを使っていろいろな解釈をしたり、感情的に様々な受け取り方をするけれども、そういう人間の考えや感情を乗り越えて、われわれの生きている世界は、ありのままに存在する」と言っています。

 一方、「空即是色」について。西嶋さんは、「空とは『ありのまま』ということでありますが、そのありのままの性質が、仏道の狙っている一つの目標である。われわれは、一切の執着を離れて、この世の中のすべてを、ありのままに受け取るべきだということが釈尊の教えでありますが、そのありのままの世界がけっしてわれわれが現に生きている世界以外に別にあるわけではない。机とか、壁とか、そういう具体的なものの中に、われわれは生きている。その具体的な物の世界がありのままに存在する。そのありのままの世界の中でわれわれは生きている。そういう事実をはっきりと確認することが、われわれにとって非常に大切な問題である・・・・・・この世の中は、醜い面があると同時に、その醜さを直そうとする人間の努力もあって、そういう組んずほぐれつの葛藤が、われわれの生きている世界である。その組んずほぐれつの葛藤を、ありのままに素直に受け取ることが、「空」の思想だ・・・(p31)

筆者のコメント:いかがでしょうか。西嶋さんは「空」を「この世界はありのままの姿をしている」としています。おそらく「ありのままの姿」とは、たぶん大乗仏教の根本思想の一つ「諸法実相」を指していると思われます。つまり、「釈尊が悟りの世界から見た森羅万象のことです。西嶋さんは、「現実の世界とあるべき世界との人間の葛藤を素直に受け取ることが『空』だ」と言っていますね。しかし、釈尊が悟りの世界から見た世界があるかどうかなど、現代のだれがわかるでしょうか。筆者の「空」の解釈は、すべての人にわかる「空(くう)の観かた」です。

 さらに、「空即是色」についての西嶋さんの考えは一層わかりません。「ブッダが悟りの境地で認識されたありのままの世界も、けっしてわれわれが現に生きている世界以外に別にあるわけではない」と言う意味でしょうか。しかし、西嶋さん自身、「空即是色」が特別な意味を持っているとは思っていないようです。その理由を以下にしまします。

 同書は西嶋さんがお弟子さんたちに向けた講演を筆録したものです。そのため、一区切りごとに読者との質疑応答があります。その一節(p46)に、

読者:「色即是空」と「空即是色」はたんなる文字の羅列ではないか。それとも何か深い意味があるのではないでしょうか。

西嶋:仏教の理論は、こういう往復的な説明なんです。「A(ここでは色)」と「B(ここでは空)」が同じだというだけでは、「色」と「空」とが別々のものだという前提になるわけです。仏教の主張は、「色」と「空」が一つに重なっている。だから「色」と「空」が別々のものではないと主張するために、こういう往復の論理を使うわけです。それはなぜかというと、現実そのものがそういう性格のものだという主張になるからです。たった一つのものの説明だから、二つのものがあって、それが一つという説明と違うという主張になります。

筆者のコメント:西嶋さんは「往復の論理、すなわち、たんなる仏教の形式に過ぎない」と言っているのですね。しかし、けっして往復の論理などではありません。重要な意味があるのです。

西嶋和夫さんの般若心経(4)

 西嶋さんの同書を読んで「アッ」と驚いたのは、「希望者がありますと、ときどき仏教の戒律を授ける、受戒の式をやっています。去年の3月に○○○さん、4月には××・××さん、同日にオーストラリアからやってきた△・△△と言う人・・・・」と。

 筆者の理解では、受戒を授けられる資格を持つのは特別な人です。あの鑑真和上は、奈良の南都七大寺には、戒律を授けられる僧がいなくなったので、わざわざ唐から招かれたのです。来日するのに苦難の道を12年かかったと言われていますね。それほどの特別な儀式を西嶋さんにが日常行っていたことを知って驚いたのです。じつは現在、永平寺などでも授戒の式は行われていますが、かねがね鑑真和上の時代に比べてあまりにも安易ではないかと思っていたのです。筆者は、良寛さんは道元以来の、いや、道元を超えるほどの禅師だと思っていますが、良寛さんが西嶋さんのこの行為を知ったら驚くと思います。決して表情には表さない人だとは思いますが。

 前述のように、西嶋さんはすでに亡くなられましたが(2014)、たくさんのお弟子さんや信者があり、講演と質疑応答の内容がホームページ(HP)に載っています。HPは信者の篤志により開設されています。

 このブログでお話したように、西嶋さんは、禅思想でもっとも有名な「般若心経」を全く理解してません。西嶋さんはすでに亡くなられましたので、筆者の批判に反論できません。ただ、たくさんのお弟子さんがいらっしゃるそうですから、どなたでも反論していただければ幸いです。

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