読者のコメント(15)

 

筆者のブログ「何のために生きる?」に関連して無明の凡夫さんのコメント:

なぜ生きるのか?
生きるために生きるのです
ではなぜ生きるのか?
生きるためです

まるで禅問答ですね

私は生きる意味など無いと思います
死んでないから生きてるだけで、この場合死すら無意味じゃないでしょうか
自分を待つ家族や友人が居る、、、それも風の前の塵に同じで、死と共に消失です
生きてる間の満足感はあるかもしれませんね

唯一生きる意味があるとすれば、また人間に生まれ変わならないように、出来れば解脱するように、悟りを開く(悟りを求める)こと
この場合死にも意味はあるでしょう

人間としての幸せを求めるのではなく、魂の解脱を求めるのが、釈迦の解いた悟りへの道じゃないでしょうか

無意味な人生に意味を求めれば求めるほど、無意味に迷い悩む事になる

何の根拠もありませんが、そう考える人間も居たりします
色々な考え方があっても良いと思いコメントしましたが、気に障りましたらすみません

筆者のコメント:おっしゃる通り、色々な考えがあって良いと思います。筆者は親しい読者とのお一人と、「人の死生観など、その時になってみなければわからない」との点で意見が一致しています。「その時」とは、「死を現実のものとして認識した時」です。ガンを宣告されたときのように。あなたのコメントを読んだその「読者」から、次のコメントが寄せられました。

・・・この人は世の中に正面から向き合っていないような気がします。生きることはもっと素晴らしいことのはずです・・・。

無明の凡夫さん:・・・なぜ生きるのか?生きるために生きるのです・・・まるで禅問答ですね・・・

筆者のコメント:禅問答!その通りです。しかし筆者にはその人の言葉がよくわかります。それを言ったのは、前にお話したように、末期ガンの60歳代(?)の女性社長です。医者から見放され、最後の望みをかけて秋田県の山合いにある特別な温泉(玉川温泉)に来ました。そこで湧き出るラドンがガンに効くと言われているからです。記者の「なぜそこまでして生きたいのですか」という(不躾な)質問に対する答えです。ラドンを浴びるための簀の子の床に寝て、毛布を頭にかぶったまま。その女性は「生きたい。なんとしても生きたい。理屈などどうでもいいから」と言いたかったのです。「どんな絶望的な状況になっても、最後まで望みを捨てない」・・・筆者がイギリス人を好きな理由です。ちょっと悲劇的な場面に出くわすとすぐ「もうダメだ」と諦めるのが日本人です。

 上記の読者、筆者の畏友Iさんは、上級公務員としてエリートコースを歩いていましたが、その途中31歳で、会社経営者だったお父さんが突然亡くなられ、跡を継ぐことになりました。従業員を見捨てるわけにはいかなかったからです。不慣れな社長業がどれほど大変だったか、筆者の想像を越えていました。地方の中都市では、従業員たちの多くは近くの住民でしたから、 もし会社を畳むようなことがあれば、 元社長はもうそこに住めないとか。給料は毎月払わなければならず、仕事は常に途切れないようにしなければいけない。「仕事を受注できた時は100で、できなかったときは0」。「次はどうしようと考えて眠れない日が続いた」と。公共事業を引き受けた時は、役人の無理難題に「ひたすら忍耐の日々だった」・・・。それでも腹を立てればもう仕事は受注できません・・・誇り高いその人にとってどれほど無念だったか。

 それでも50年、立派に職務を果たし、会社を発展させました。今でも会社にとって不可欠のようで、退職後の今日でもなにかと協力しているとのこと。いつも筆者は「これからは、できるだけ遊んでください」と言っています。

 その人が、あなたの投稿を読んで、「いや、人生は素晴らしいものだ」と言っているのです。傾聴すべき言葉ではないでしょうか。

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