正法眼蔵・現成公案(続)

 その1)前回に続いて、正法眼蔵・現成公案の解釈についてお話します。

 現成公案巻は「正法眼蔵」のハイライトと言われています。その理由について、例えば

〇佐藤隆定さんは、

 ・・・現成公案とは、ずばり「悟りの実現」を意味する言葉であり、この巻で著述されている内容は、仏法の根幹である「悟り」をテーマとしている(正法眼蔵第一「現成公案」の巻の概要と現代語訳と原文‐禅の視点 life-(zen-essay.com)

〇西嶋和夫さん(「現代語訳正法眼蔵」の著者)は、

 ・・・ 現成公案とは行為に関連して現実世界にいきいきと躍動する宇宙秩序のことをいい、本巻は道元禅師の御立場からこの宇宙秩序を極めて端的に叙述されている(「現代語訳正法眼蔵」第1巻p83)・・・と、

〇水野弥穂子さん(「原文対照現代語訳 道元禅師全集 正法眼蔵 」の著者)は、
 ・・・現実はあるがままで何不足ない真実であり、万物は分を守って平等であること・・・(「正法眼蔵(一)」1990 p53)

〇石井恭二さん(「正法眼蔵1-4 注釈・現代訳」の著者)は、
 ・・・諸々の存在や現象は実体がないのであるが、しかし諸々の形相として保持されている(「正法眼蔵現代文訳1」p15)・・・

〇ひろさちやさんは、
 ・・・世界はいまあるがまま、そのままの存在です。わたしたちが世界をあるがままに認識できたとき、わたしたちは仏教者になれたのであり、それがすなわち悟りなんだ、と道元は言っています(「新訳 正法眼蔵」p26)・・・。

〇木村清孝さん(「正法眼蔵全巻解読」の著者)は、
 ・・・ありのままに現れている真実の様相を解き明かすとともに、その真実がおのずから自分にあらわになる、すなわち、「さとる」とはどういうことかを開示しようとしている。これらに共通する考え方は、「この世界の在り方をありのままに了解する」という立場である。そしてこの立場は、現実に目の前に存在するものがそのまま真実だとする考え方を根拠にしている。確かに、現成公案という語は、現成している現実がそのまま真であるということを意味するといえなくもない。現成している姿がそのまま真であるとは、すなわち、大乗仏教の根本思想としての「空」であり「無自性」であることにほかならない(「正法眼蔵全巻解読」 p31)・・・。

〇曹洞宗東海管区教化センターHPでは、  ・・・「現成公案」の巻は仏教者にとって最も重要な「悟り」について説かれた巻であります・・・

筆者のコメント:以上、よく知られた人たちですね。何人かが、「現実に目の前に存在するものがそのまま真実の姿だ(註1)。それをあるがままに認識できた時、それが悟りだ」と言っているようです。しかし、これらの解釈はすべて、「現成公案」巻の趣旨とは違います。なぜなら、これらの解釈では、「現成公案」の有名な一節「たきぎはいになる・・・」がなぜ出てくるのかが、わからないからです。筆者はこのブログシリーズで、すでに「現成公案巻では『空』思想を説いている」とお話しました。

註1よく言われる諸法実相のことですね。

正法眼蔵 現成公案(続)(その2) 

 筆者は「現成公案巻は『空』を説いている」と言いましたが、その端的な表れがよく知られた第5節です。すなわち、

 ・・・たき木、はひ(灰)となる、さらにかへり(返り)てたき木(薪)となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち(後)、薪はさき(先)と見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のし(死)ぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるとい(言)はざるは、仏法のさだまれるならひ(習い)なり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり・・・。とあります。

 解釈の例(1)前記の佐藤隆定さん:

 ・・・薪を燃やせば灰となる。一度灰になったものが薪に戻ることはない。
しかしながら、灰は後、薪は先であると理解してはいけない。薪は薪であることによって薪以外の何ものでもなく、その前後の姿があったとしても、それらは続いてはおらず途切れている。つまり、実在する時間は「今」以外にない。途切れた「今」が連続することによって、時間はあたかも進んでいるかのように感じられるだけで、実際に存在する時間は常に現在をおいてほかにない
 灰もまた同じで、今この現在において灰は灰以外の何ものでもない。薪の後の姿なのではない。薪が灰となってから再び薪に戻ることがないように、人が死んだ後に再び生きる人になることもない。生が死になると言わないのは、仏法において当り前のことである。だから不生という。また、死が生になることはないという真実も、仏法を説く上で定まっていることである。だから不滅という。

 生とは線ではなく、生きている今この一点を示す言葉であり、死もまた、死んでいる一点を示す言葉だ。それはたとえば、季節の移ろいを例にするとわかりやすい。冬が春になるという移ろいを、冬というものが春というものになったのだとは普通考えない。春というものが夏というものになったのだとも言わない。冬が春に変化したのではなく、「今、春である」というよりほかに、季節を言い表すことなどできないのである。

筆者のコメント:これでは現代語訳したに過ぎず、道元の真意がわかりませんね。

解釈の例(2):尾崎正覚さん、  ・・・薪は燃えて灰になるが、仏法においては灰は後のもの薪は先のものと見てはいけない。薪は何処までいっても薪であり、また灰は元薪だと云ってももはや薪にはならない。灰は灰である。次に「薪は薪の法位に住して」とは、「薪は薪の在り方として在る」。一貫して前も薪であり後も薪である。「前後ありといえども、前後際断せり」とは、要するに昨日も薪であり今日も薪であるというような薪そのものの前後はある。然し薪の前は木であって薪になったとか、或いは時が経つと何かに変わったというように、物事を原因と結果、或いは目的と手段というような「一連の(変化の)過程」として、即ち「分別して見る」のは、仏法の見方ではないということである・・・。
解釈の例(3)「現成公案を読む」shoubo. mokuren.ne.jpさん

 ・・・我々が日常的に暮らしているこの経験的世界には、種々さまざまな事物が存在しており、それらは、ひとつひとつの名称をもっている。きまったひとつの名称をもつということは、きまったひとつの本質をもつということである。より正確にいえば、きまったひとつの「本質」をもっているかのように見える、ということである。

 薪は「薪」という名称をもち、かつ、薪が薪たる本質をもつ。灰は「灰」という名称をもち、かつ、灰が灰たる本質をもつ。薪と聞けば薪の本質のイメージが喚起され、灰と聞けば灰の本質のイメージが喚起される。さらには、薪は燃えて灰となる概念上の先後関係が呼び起こされる。これが、通常、我々が了解している現実の経験的世界である。何の区別も境界も名称も定められていない原初の現実世界の全体から、ある一部分を括りだして意識を集中させ、一個の独立した存在として見立てる。この部分的な存在物の中核をなし、そのモノをそのモノたらしめている固有性が、「本質」である。その「本質」がことばによって名指しされることで、一定の事物として我々の意識に現成する。通常、我々は、このようなプロセスをいちいち意識することなく、既に割り当てられた名称とその本質の組み合わせを学習することで、経験的世界を生きている。ところが、大乗仏教は、このような、ことばによって様々に分節された経験的世界を妄念の世界と呼び、ことばによって名指しされるいかなる本質も認めない。

筆者のコメント:この、「正法眼蔵」のハイライトと呼ぶべき現成公案巻の、さらに最も重要な一節の解釈を皆さん間違えているのです。改めて「禅はわかったか、わからないかの世界」だと思います。この巻は「空」を説いているのです(2019/9/1のブログをお読み下さい)。

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