加藤那津さん「最期を迎えるまでのノート」

 加藤那津さん(43歳)は、名古屋市在住。乳ガンのステージ4で、「最期を迎えるまでのノート‐最後まで精一杯生きる」と題するノートを綴っています。「親戚にはガンになる人が多い」と、近くの大病院を訪ねたところ、医師から「乳ガンのステージ0です」と言われた。手術は成功し、あと5年再発しなければ完治です」と。しかし、あと1年のところで再発が見つかり、肝臓や骨髄にも転移していた。「ステージ4です。治る見込みはありません。子供はあきらめてください」。

加藤さん「子供が好きだったので、その言葉がとてもショックだった」。

 抗がん剤を飲み始めたが、しびれや痛み、倦怠感など、副作用があまりにも辛く、3年前に仕事も辞めた。

 加藤さんには荒井里奈さん(47歳)という、4年前からの大切な友人がいる。荒井さんも末期ガンで、舌のほとんどを切除した。以前は一緒にいろいろなところへ行っていた。今は症状が進んだため、酸素吸入をしながら車椅子。そのため最近は近場で。今日は車椅子を押す荒井さんの両親と一緒に東山公園へ。

 加藤さん「荒井さんが気遣ってくれるのは嬉しい。変に何か励まそうとか、無理に引き上げようとしないのがありがたい。あえてそういう言葉にしないっていうところが私には心地よい。目標を達成するために頑張って、たまに気分転換に旅に出ることで何とか治療に対するモチベーションを保ってきた。それができなくなったので、そんな状態が続くんだったら、しんどい治療を続けていく意味があるのかなと思ったりした」。

荒井さん「昨日まで一人でできていたことができなくなった。失っていくことの怖さ、悲しさっていうのは、覚悟はしてたけど想像以上に大きかった。あんまり期待したり、頑張ってしまうと、できなかったとき辛いので、できそうな範囲で目標を持つようにしています」

加藤さん「里奈さんが『またどこどこに行こうね』と言ってくれるから、もうちょっと頑張ろうかて気持ちになり、また抗がん剤を飲み始めた。荒井さんの存在は大きかった」

 荒井さんのその言葉を受けて、那津さんは小さな目標を書き続けるようになった。

1マスカットを食べる

2パパとママと屋久島へ行く

3名古屋ウイメンズマラソンに出る

4中島みゆきのライブに行く

5悔いのない最期を迎える

6エンデイングノートを書く

・・・現在は174になっている。一つの願いが達成されると、その目標を消し、その年月日を書く・・・

 加藤さんは70歳代の両親と3人で暮らしている。

お母さん「3人のうち誰が先に逝くかわからないというのは覚悟している。だからいつ命の火が消えてもいいように、好きなものを食べさせている」

お父さん「那津が何らかの形で幸せを感じてくれればそれが皆にとって一番幸せなんだ」

デイレクター「あそこに『3人で喜べば3倍嬉しい。3人で悲しめば3分の1になる」とあるのは那津さんの手書き?」

加藤さん「そうです。元は『2人』と書いてあったのですけど、うちは3人なので」

 加藤さんがステージ4の宣告を受けてから今年で6年、これまでに大好きな屋久島へは17回行った。毎日6kmのジョギングをし、名古屋ウイメンズマラソンに出るのを楽しみにしている。「5年前に出た時は腰が痛くなってほとんどを歩いたので、今度はもっと長く走りたい」。

 筆者のコメント:筆者の同僚・後輩たちが、60歳前後で次々に亡くなりました。一人は心筋梗塞、2人はガンでした。心筋梗塞の後輩は、「先生が2日間も大学へ来ない」と教え子たちが騒ぎ、遠方にいる奥さんを読んで、部屋の鍵を開けたところ・・・。あとの2人のうち1人は筆者も間近で見ていましたから、経過も伺い知れました。何度もお見舞いに行きましたが、しばらくぶりに学科会議に出席したとき、彼のあまりの憔悴ぶりに「調子は?」と聞くこともできませんでした。その後3か月も保ちませんでした。

 彼は、「体調が良くない」が続き、病院に行ったところ、「ガンの疑いがある」・・・くわしく診断が進み、「ガンに間違いがない」・・・そして徐々に症状が進んでいったのでしょう。その間、夜ベッドの中で死を意識するようになり、それが現実になっていったのでしょう。彼のその心の経過を想像するとたまらないものがあります。

 しかし、ここでご紹介した加藤那津さんがガンと向き合う生活を見たとき、一つの解決法を教えていただいたように思いました。たしかに、どうしても避けようがない状況になったら、受け止めるより仕方ありませんね。あの良寛さんが、大地震で子供を亡くした友人に、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」と言ったことは、禅の達人の言葉としてじっくりと嚙み締めなければなりません。

 筆者の同級生の一人は、毎年送ってくれるミニコミ紙(自称)「定年万歳」で、いつも「ピンピンコロリ」と言っていましたが、ガンになり、そうはいかなくなりました。それでももう4年になり、今でも相変わらず、老人クラブの活動や、保育園児の農作業貢献に頑張っています。

 筆者はこういう事例を見てきて、「心筋梗塞で突然死ぬのも、長い時間をかけて少しづつ最後に近づくのも運命として受け止めるより仕方がないな」と思うようになりました。

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