アウシュヴィッツで生き残った人(1-3)

 1)ナチスの強制収容所で殺されたのは、ユダヤ人(600万とも300万とも)を初め、ソビエト人捕虜(200万とも300万とも)、ジプシー、男性同性愛者、エホバの証人などと言われています。筆者にとってこの問題は、たんにドイツ人の犯罪としてだけでなく、人間というものの底知れぬ恐ろしさを感じさせます。ヴィクトール・E・フランクル(1905-1997)の「夜と霧」(みすず書房)は、強制収容所の体験記録としてよく知られています。発行部数はこれまでに1000万部を越えるでしょう。

 筆者が以前これを読んだのはその実態を知りたかったからです。しかし、今回再読して深い感銘を受けたのは「どうして生き残れたのか」を知ったことです。この本の貴重さは、フランクルが精神医学者として冷静に、生き残った人、死んだ人の心の動きを観察したことにあります。

 フランクルが悪名高いアウシュヴィッツ収容所に入れられたのは、1944年10月、それ以前の3年間はチェコにあるユダヤ人ゲットー(特別居住区)にいたとか。そして1945年3月に連合軍によって解放されるまでわずか半年でしたが、そこで生きることの過酷さは、この「夜と霧」でまざまざと思い知らされます。まず家畜輸送列車で運ばれたフランクルたち1500人がアウシュヴィッツ駅について受けたのは、一人のドイツ親衛隊の高級将校による選別でした。長身痩躯でスマートな、非の打ちどころのない真新しい制服に身を包んだ人間だった。一人ずつ彼の前に立った収容者にたいし、彼は人差し指をごく控えめにほんのわずか・・・・ある時は左に、またあるときは右に動かした。フランクルは、コートの中に隠し持った重いパンのことを悟られまいと、直立不動でその前に立った。人差し指は「右に」振られ、右の列に並んだ。じつは後でわかったのは、左の列は労働不適格者とされたもので、そのままガス室へ送られたのです。「数百メートル離れた煙突から数メートルの高さに不気味な炎が噴き出し、真っ黒な煙になって消えて行った」と。

 「労働適格者たちも、すべての所持品を捨て、すぐ衣服を脱がされ、靴もベルトも眼鏡も外し、頭髪も刈られた」。フランクルは当時から著名な精神医として知られていましたが、かけがえのない研究成果の原稿すら捨てざるを得ませんでした。「残したい」と懇願するフランクルに監視兵は「くそったれ」と。そして名前まで消され、たんなる「119104号」にされたのです。彼らはすぐにシャワー室へ入れられましたが、「(殺人ガスではなく)本物の水が出てきたので歓喜した」と。第一夜、収容者は三段ベッドで寝たが、一段当たり2m×2.5mの板敷に9人が横になった。全体で毛布が2枚。横向きにびっしりと体を押し付けあって寝なければならなかった。もっとも外は冷え込み、居住棟には暖房などなかったから、かえってそれが好都合だった」と。

 食事は一日パン300g(実際はそれよりずっと少ない)と水のように薄いスープだけ。酷寒の中での肉体労働と、親衛隊員やカポー(収容者の中から逆の意味で選ばれた監督!「人殺しカポー」とフランクルは言っています。)たちによる理由のない暴行-銃床や長靴のかかとによる殴打・・・・。これらの暴力や飢餓、そして発疹チフスに耐えられず次々に仲間たちは死んで行った(アウシュビッツ全体で死者100万)。フランクルたちは次第に「苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者たちを平然と眺めるようになった」と。感情が完全にマヒしてしまったのです。そして「極端な飢餓により、皮下脂肪や、自分の筋肉のの最後の最後までを消費してしまうと、ガイコツが皮をかぶって、その上からちょろっとボロをまとったような有様になった」。「人が死ぬと、仲間が一人また一人と、まだ温かい死体にわらわらと近づいた。一人は昼食の泥だらけのじゃがいもをせしめた。もうひとりは、死体の木靴が自分のよりましなことを確かめて交換した。三人目は、死者と上着を取り換えた・・・・。ほとんどの収容者は、風前の灯火のような命を長らえさせるという一点に神経を集中せざるを得なかった」。

 1945年3月、連合軍によって収容所が解放されると、総司令官アイゼンハワーは、近隣のドイツ人住民たちを強制的に見学させました。「もし、将来、『そんなことなどなかった』と言う人が現れないための証拠として」・・・・。

(以下、訳がフランクルの言葉を尊重したためか、やや生硬になっていますので、筆者の責任で自然な文章に改めさせていただきました)。

2)フランクルは、戦後になって知りましたが、両親、妻、子供たちは、あるいはガスで殺され、あるいは餓死しました。フランクルだけが生き延びたのです。

 さて、本題の「どうしてフランクルたちは生き残れたか」に入ります(「ドイツとポーランドやチェコの全収容者の数パーセントだった」とフランクルは言っています)。

 人間としての誇り

 フランクルは「ほとんどの収容者は、人間としての誇りも矜持も捨てて、ただ自分の命を長らえさせるという一点に神経を集中せざるを得なかった」と言いました。「しかし、その中にあっても、感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えた人がいた。最後に残された精神の自由、つまり、一見どうにもならない極限状態でも『わたし』を見失わなかった人もいた」。もちろん、フランクル自身もその一人でしょう。

 大部分の被収容者を悩ませていたのは、「ここを生き抜けるかどうか」でした。「生きしのげないのなら、この苦しみには意味がない」ことになります。しかしフランクルは、まったく逆に、「問題は、私たちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。人間に避けられない運命と、それが引き起こすあらゆる苦しみを受け止めるかどうかは、本人次第である。すべての人間には、きわめて厳しい状況でも、また人生最後の瞬間においても、生(せい)を意味深いものにしうる可能性が残されている。勇敢で、プライドを持ち、無私の精神を持ち続けられるか、それとも熾烈をきわめた保身のための戦いの中に人間性を忘れるかの決断には一つ一つにチャンスがあった。それらのチャンスに、おのれの真価を発揮したかどうかに、その苦しみが価値あるものかどうかが決まると言っています。フランクルはさらに「それは強制収容所に限らない、人生のどこにも運命と対峙せられ、苦しい状況に陥ることがある。そこで精神的に何かを成し遂げられるかどうかがその人の価値だ」と。とても重要な言葉ですね。

楽しい空想

 「収容所から工事現場へ向かうとき、雪に足を取られ、氷に滑り、しょっちゅう仲間を支え、支えられながら、進んで行くあいだ、もはや言葉は一言も交わされなかった。心の中で妻と語っていたのだ。妻は答え、微笑んだ。まなざしで促し、励ますのが見えた・・・・目の前の仲間が倒れ、後に続く者たちも連られて転んだ。監視兵が早速飛んできて殴りかかった。だが魂は瞬時に立ち直り、愛する妻との会話を再開した。人は、この世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いを凝らせば、ほんの一時にせよ至福の境地になれることを、私は理解した。収容所に入れられ、思いつく限りで最も悲惨な状況、この耐え難い苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人の眼差しやや面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができると、私は気づいた」。

生きる支え

 フランクルを「ただ生きるために生きる人間」から「生き残ろう」という積極的な気持ちに替えたのは、「精神医学者としてこの収容所の人々の有様を記憶しよう」と決心したことと書いています。まさに自分のアイデンテテイを取り戻したのですね。紙の切れ端に自分のこれまでの知見を暗号で書き残した。そしてフランクルは、自分が大聴衆の前で強制収容所について講演する姿を想像して、自らを勇気づけました。

 収容者には自死が相次ぎました。状況のあまりの過酷さに耐えられなかったのです。しかし、首吊りの綱を切ることは禁止されていました。「生きていることにもう何にも期待が持てない」という男の一人に対しては、外国で父親の帰りを待っている、目に入れても痛くないほど愛している子供のことを思い出させた。もう一人は研究者で、あるテーマの本を数巻上梓していたが、まだ完結していなかった。彼にとってこの仕事はなにものにも代えがたいものであることを思い出させた。・・・・二人とも自死を思い留まったのです。

 宗教について

 ・・・・とりわけ感動したのは、居住棟の片隅で、あるいは作業を終え、ぐっしょりと濡れたぼろをまとって、くたびれ、腹を空かせ、凍えながら、あるいは遠い現場から収容所へと送り返されるとき、また閉め切られた家畜用貨車の闇の中での、ささやかな祈りや礼拝だった・・・・。

 ある若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。「運命に感謝しています。だって、私をこんなひどい目にあわせてくれたんですもの。以前、何不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えていたことがありませんでした。外に見えるあのマロニエの木とよくおしゃべりするんです」。当惑するフランクルに、「木はこういうんです。わたしはここにいるよ。私は命、永遠の命だって・・・・」。

 ユーモア

 「ユーモアも自分を失わないための魂の武器だ。ほんの数秒間でも、過酷な状況から距離を取り、打ちひしがれないために、人間という存在に備わっているなにかなのだ。わたしは一人の仲間(元外科助手)に毎日少しづずつユーモアを吹き込んだ。「いつか解放され、君は昔のように長丁場の胃の手術をしている。突然スタッフが叫びながら飛び込んで来た。「動け、動け。外科医長が来たぞ!」・・・・いつも「監視兵が来たぞ!」と言われていたのです。

希望

 「強制収容所でかってないほど死者が多かったのは1944年のクリスマスと1945年の正月の間だった。これは過酷さを増した労働条件からも、悪化した食糧事情からでも季節の変化からでも、新たに広まった伝染性疾患からでもない。多くの被収容者が『クリスマスまでには帰れる』という希望を失ったからだ」。

3)生きる意味を問うのではなく、その問いに対処することだ

 精神医学者としてフランクルは言う。「強制収容所の人間を奮い立たせるには、生きる意味についての問いを180度転換させることだ。生きることから何を期待するかではなく、むしろ生きることが私たちに何を期待しているかが問題なのだということを学ばなくてはならない。もういいかげん、生きる意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることの意味が日々、そして時々刻々、問いかけられる。それに対し、考え込んだり言葉を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出されるべきだ。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。このために自ら自尊心を奮い立たせねばならない。

 この要請は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできない。具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを、たった一度だけ課される責務としなければならない。他人の身代わりになってその苦しみを取り除くことはできない。この苦しみを引き当てたその人自身が、この苦しみを引き受けることに、二つとない何かを成し遂げるたった一度の可能性があるのだ。

筆者のコメント:筆者は大学で教えていた時代、多くの学生から相談を受けました。それらは突き詰めれば生きる意味とは何かです。そんな難しい問いに答えられるはずがありません。このブログシリーズも、学生たち、いや自分自身のために、この問いに対する答えを探るために続けています。この「夜と霧」に出会う前に持っていた唯一の知恵が、秋田県の玉川温泉(ガンの末期患者が集まる岩盤浴の場所)に来ていたある女性社長の言葉です。「なぜそこまでして生きようとするのですか」との問いに対し、毛布にもぐり込んだまま「生きるために生きるのです」と答えていました。そして今、「夜と霧」を読んで得られたのが、ここでお話しているこの智慧です。

 フランクルの原題をそのまま訳すと「強制収容所での一心理学者の体験」というほどの意味です。そして本書の現実のタイトル「夜と霧」は、「夜霧にまぎれて受刑者は次々に消えて行った」という、まことに適切な、そして恐ろしいタイトルです。

 さらに筆者は40年来、「なぜ日本人は、太平洋戦争という、無謀で悲惨な戦争をしたのか」に強い疑問を持ち続けていました。最近ようやくわかってきましたのは、軍人はもちろん、政治家も、政治や軍事の理論でなく、「もっとも大切なものは国民の命である」ことに思い至らなかったためだと思うようになりました。あのインパール作戦に当たって、司令官牟田口廉也が、「何人殺せばインパールが取れるか」と聞いたところ、幕僚は「5000人くらいでしょう」と答えた。牟田口中将お付きの斎藤博圀少尉は「イギリス兵のことだと思っていたら、日本兵のことを指していたのだとわかって驚いた」と書き残しています。牟田口らがいかに兵の命をおろそかにしていたかがわかりますね。

 フランクルの「夜と霧」にもその答えが見つかりました。「もっとも大切なものは、人間の命であり、それを支える究極的なものは、人間としての矜持だ」と。牟田口や上官の河辺正三にはそれがなかったのです。

フランクルは1947年に再婚し、その後、フランクルが収容所で夢見た通り、貴重な体験者として、日本を初め世界各国に招かれて講演をしました。

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