鈴木大拙の即非の論理

         中野禅塾だより (2015/12/20)

鈴木大拙の即非の論理

 鈴木大拙と西田幾太郎は同郷(金沢)の親しい友人同志で、「お互いに影響を受け合った」と言っています。すなわち鈴木博士は以下に述べます即非の論理、西田博士は絶対矛盾的自己同一理論がそれぞれ禅と哲学における画期的な思想でした。

 鈴木博士の「即非の論理」は「金剛般若経」をヒントに案出されました。以前お話したように「金剛般若経」は、「般若経典類」の中でも初期に成立(紀元150-200頃、ちなみに「般若心経」の成立は4世紀頃)しました。空の思想が述べられていますが「空」という言葉自身はありません。その意味でも初期のものであることが推定されます。鈴木博士は「金剛般若経」には「即非」という言葉が繰り返し出て来るのに注目しました。たとえば、

 ・・・仏説般若波羅蜜 即非般若波羅蜜 是経名金剛般若波羅蜜(如来によって説かれた<智慧の完成>は、智慧の完成ではないと如来によって説かれているからだ。それだからこそ<智慧の完成>と言われるのだ)・・・とか、

 ・・・所言法相者 如来説即非法相 是名法相(それではどのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ<説いて聞かせる>と言われるのだ)

というふうに、「〇〇〇である。しかし○○○ではない。だから〇〇〇」なのだ」と、マッチポンプ的な表現なのです。ちょっと面喰いますが、じつは重要です。鈴木博士は禅の要諦は即非にありと考えたのです。さすが慧眼だと思います。なぜなら禅の中心課題の一つに概念の固定化の否定があるからです。さまざまな公案集を読んでみますと、それがよくわかります。筆者が研究者時代、あらゆる学説や新しい研究報告に対し信じつつ信じないという態度を一貫して取って来たことは以前お話しました。

 ある人のブログを読んでいましたら、鈴木博士や西田博士に対する厳しい批判が出ていました。たとえば、
 ・・・大拙氏の「即非的自己同一」なる論理はまったくのナンセンスで、そのナンセンスなものをヒントにして作成した西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一(註)」なる論文は、茶番としか言えないのである・・・鈴木大拙氏の「主客未分(註)」の禅理論が何の根拠もない誤論であることは、わたしは度々指摘した。ゆえに、その誤論を根拠に構築したと思われる「絶対矛盾的自己同一」や「善の研究」はまったく以ってナンセンスとしかいいようがない・・・
とありました。自説に対する批判は少々厳しくても甘受して次の展開の糧とすべきでしょう。しかし、じつはこの人のブログの内容自体にも誤りが多いのです。しかも匿名でした。それは許されません。上記の筆者の解釈をお読みいただければ、鈴木博士の解釈はナンセンスどころか重要な指摘であることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

註 「主客未分」および「絶対矛盾的自己同一」については次回以降にお話します。

2 thoughts on “鈴木大拙の即非の論理”

  1. 「AだAというものはAではないからAと言われるのである」。これを分かりやすく言い換えると、一般人がAだAだと言っているものは一般人の幻想であって、仏から観るとAは存在しないものだから、Aと呼ばれるのは一般人から呼ばれるのであって仏からはAとは呼ばれないのである。という事になる。こう考えると何も不思議なことを言っているわけではないと分かる。「Aではない」ということを非Aと解釈するから全く分けの分からないことになる。即非の論理というものは間違いである。一般人が有る有るというものは仏から観ると幻想で無いと分かるから、一般人が迷って無いものを有る有ると妄想しているだけのことで本当は存在しないということである。
    仏から観ると無いものでも、一般人から見ると有ると思うから執着して悩むのである。

    1. 名無し様
       コメント嬉しく拝読しました。大切な問題ですから、後ほど改めてブログで取り上げさせていただきます。

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