禅の公案(1, 2)

 禅の公案(1)

 禅でよく言われる「不立文字・直指人心」とは、禅は文字を通じて伝えるのではなく、直接弟子の心に伝える、という意味です。初祖達磨大師、二祖慧可など、初期の指導者たちの言葉がよく伝わっていないのはそのためでしょう。しかし、その後どうしてもそれだけでは不十分であり、六祖慧能(638-713)の頃からは悟りを促す重要な言葉やエピソードが記録されるようになりました。それらをまとめたものが「公案集」であり、「無門関」「従容録(「碧巌録」と重なる部分が多い)」、臨済宗の祖臨済の言葉を弟子達がまとめた「臨済録」などが有名です。「公案が理解できると仏祖(釈迦)や祖師の思想に直接つながる」とも言われます。ちなみに「公案に答えはない」と書いている人がいましたが、それは誤りです。「禅問答」と混同しているのでしょう。「公案は解説するものではない」と言われます。修行を積んだ僧を悟りに導く最後のひと押しとも言いますから、いわば上級者のためのものですね。解釈を示してしまったら「不立文字・直指人心」の精神に反するからです。以下に、印象的な公案について幾つか感想を述べます。

1) 趙州狗子(じょうしゅうくし)
「無門関」(岩波文庫)第一則です。著者無門慧開はこの公案を「無門関」の初めに置きました。そして四十八則それぞれについて「評唱」と「頌」を付けました。「評唱」とはコメント、「頌」とは会得した時の感動を詩にしたものです。いずれも回答ではありません。この公案はまた「無字の公案」と言われ、禅宗、特に臨済宗の看話禅では修行者の第一関門としてまず課せられます。次の趙州(778-897、120歳!)は唐時代の高僧です。

趙州和尚、因(ちなみ)に僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや」(趙)州云く、「無」
(趙州禅師に、ある時、一僧が、「狗子(犬)に仏性が有りますか、無いのですか」と尋ねた。趙州は「無」と答えた。)
この僧は「一切衆生悉有仏性」(涅槃経にある、一切のものには仏の本性があるとの意味です)」との文言が常識だと分かってた上で尋ねたのです。ですから趙州が「無い」と答えたのを、「犬には仏性がない」と解釈してはどうにもなりません。「有るとか無い」の問題ではないという意味なのです。なにより「従容録」第十八則でも、趙州は同じ質問に対して「有」と答えています。ただし、さまざまな禅師が言うように「絶対無」と解釈してはまた迷路に入ってしまいます。
 無門慧開は「評唱」で、
 ・・・「参禅は須(すべか)らく祖師の関を透(とお)るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す(筆者訳:禅に参じようと思うなら、何としても禅を伝えた祖師達が設けた関門を透過しなければならない。これがその一つである)」・・・「通身に箇(こ)の疑団を起こして箇の無の字に参ぜよ。昼夜提撕(ていぜい)して、虚無(きょむ)の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ、有無の会を作(な)すこと莫(なか)れ (筆者訳:全身を疑いの塊にして、昼も夜もこの無の一字の意味を理解せよ。この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない)」
と言っています。筆者はこの有名な公案を以前から知っており、いろいろな人の解説を読みましたが、納得できるものはありませんでした。ある人は「ただひたすら無の意味を考えよ」と解釈しています(その通りに書いてあるのですが)が、そんなことが続けられるとは思いません。しかし、ある時その意味が「アッ」とわかりました。禅をできるだけ広く深く学んでいれば、いつかおのずとわかることだと思います。頭で知っていたことが腑に落ちるということは、禅ではとても大切だと思います。もちろん無は空とはまったく違います

禅の公案(2)

庭前柏樹(子(「無門関」三十七則より)

    趙州、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来(せいらい)の意(註1)」
    州云く、「庭前の柏樹子(はくじゅし)」。
   (ある僧が趙州に聞いた。「祖師がわざわざインドから来られた意味は何でしょうか」
  趙州和尚は、「庭前の柏樹子(註2)」と応えた)

  この問答の原典「趙州録」(「趙州録提唱」福島慶道著 春秋社)によると、僧は趙州の
  答えに満足せず、
  「和尚、境(きょう)を将(もっ)て人に示すこと莫(な)かれ」
  趙州云く、「我れ境を将て人に示さず」
  僧問う。「如何なるか是れ祖師西来意」
  州云く「庭前の柏樹子」
(「和尚、境《外境、つまり自己の対象物:禅独特の表現》なんかで示しても分かりません。もっと精神的な内容を持つ言葉で説明して下さい」と趙州に抗議した。そして同じ質問を繰り返したが、趙州は「あの柏の樹じゃ」と答えた)

 註1 つまり禅とは何か、仏法の本質とは何かという重要な意味です。
 註2 柏餅の柏のことではなく、ヒノキ科の柏槙(びゃくしん)のことです。

ある人の解説では:
 ・・・この僧は心と境とを対立的に見ての問いです。趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、天地ヒタ一枚、禅師の心には境など存在しないのです。庭前の柏樹子、ただただ、庭前の柏樹子です。祖師西来意だの、禅だの、仏だの、悟りだのという小理屈は捨て切って、柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。この消息は釈迦、達磨といえども窺い知る事の出来ない、兎の毛ほどの思慮分別も差し挟む事の出来ない徹底的な「無心」の心です・・・
とあります。こういう解釈が多いのですが、間違いです。おそらく「境」という字にとらわれて、前回枯木龍吟のところでもお話した「自己と境が一体である」と同じ公案だと解釈してしまったのでしょう。第一、「無門関」では、「境」という言葉は使われていません。正しい意味は、次の拈華微笑と同じなのです。ちなみに「天地ヒタ一枚」はあの澤木興道師の口癖です。影響を受けた人は多いのです。

拈華微笑(ねんげみしょう )
 禅では有名な言葉で、「無門関」第六則に「世尊拈華」として出てきます。
 臨済宗・黄檗宗公式ホームページ「臨黄ネット」(山田無文著作集より引用とあります)では、
 ・・・一般に「インドの霊鷲山上で釈迦が黙って華を拈(ひね)ったところ、大衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉だけがその意味を理解して破顔微笑したため、迦葉に禅の法門を伝えたという」とか、「言葉を使わないで、心から心へ伝えること」と解釈されています・・・

このように、「以心伝心」との解釈が多いのですが、それでは公案にはなりませんね。無門は「評唱」でこの公案の一般的な解釈に疑問を呈しています。筆者も同感です。上記の「庭前の拍樹子と同じだ」をヒントに考えてみてください。

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