禅語(3)而今(にこん)

禅語(3)而今(にこん、今ここに)

 作家の中野孝次さん(1925-2004)の座右の銘が「而今」でした。 禅を学ぶ者にはなじみの言葉ですね。これまでほとんどの禅師や仏教研究家がその意味を、
 ・・・過去はもう過ぎたのでこだわるな。未来はまだ来ないので心配するな。今を大切に、今だけのことを考えなさい・・・
と解釈しています。しかしこの言葉の真意はまったく別なのです。
 
 このホームページで「空とは見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触る)という一瞬の体験だ」とくりかえしお話しています。今回のブログはそれに関連するものです。それを念頭にして「而今」の意味を考えてください。この言葉の本来の意味は、「体験(現象)が起こるのは、今ここでの一瞬であり、ものごとはその時だけ現われる」です。生きている間に次から次へと一瞬の体験(現象)が続くのです。当然ですね。まさにそうとしか言いようがありません。道元も「正法眼蔵・現成公案編」で、

 ・・・たきぎ(薪)はひ(灰)となる。さらにかへりて(返りて)薪となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさき(先)と見取すべらかず。知るべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後際断せり。灰は灰の法位に住して、後あり先あり。かの薪、灰となりぬるのち、さらに薪にならざるがごとく、人の死ぬるのち、さらに生とならず、しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆえに不生という。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。これゆえに不滅という。生も一時のくらゐ(位)なり、死も一時の位なり、例えば冬と春との如し。冬の春となるをおもはず、春の夏となるといはぬなり・・・

(筆者訳:薪が燃えて灰になるとか,薪は先、灰はのち、生きているものが死ぬ、と考えるのは普通の見方である。しかし正しい観方によれば、薪とか灰とか云う物があるのではなく、「私達がそれらを観る」という体験そのものがあるだけで、それが真の実在なのだ。だから、薪を観る体験も、灰を観る体験も、その一瞬、「今」だけだ。その時が過ぎればそれらの体験が直ちに消えるのは当然だ。だから生とは、一瞬一瞬の「今ここ」の生(なま)の体験の連続であり、死も同様の体験なのだ。つまり、死と生とは別の体験なのだ。春は春の体験、夏は夏の体験と同じことだ)

と言っています。なかなか難しい言葉ですが、要するに、
 ・・・見る(聞く・・・)という、今、ここの一瞬の体験にこそモノゴトの真実が現れるのです。過去は消えた、未来もない。あるのは今この一瞬だけなのです。「生き方」の問題などではなく、事実そのものを言っているのです。事実の正しい認識があってこそ、生き方の指針も道徳も成り立つのです・・・

これこそ而今(いま、ここ)の正しい意味なのです。

 これまで、ほとんどの禅師や仏教研究家が上記のような解釈をしていました。それがどれほど多くの人が禅を学ぶ上での障害になってきたかわからないのです。「禅はわかったか、分からないかの世界」とはこういうことなのです。

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