坐禅・瞑想について(1)不思量と非思量

坐禅・瞑想について(1)不思量と非思量

 坐禅・瞑想の経験をお持ちの方は多いと思います。「要点は何も考えないこと」と指導されたでしょうが、どなたも「難しい」とお考えでしょう。眼を半眼に閉じればたちまち、さまざまなことが頭に浮かび、おそらく「考えないこと」は一分と続かないでしょう。坐禅・瞑想のやり方は古来、修行僧たちの重要な課題でした。その「コツ」を薬山惟儼(745-828)が述べた次の問答があります(「景徳伝灯録」巻十四薬山章 景徳伝灯録研究会編 禅文化研究所刊 )

僧有りて問う「兀兀地(ごつごつち)に什麼(なに)をか思量す」(どっかりと坐って、なにを考えるのですか)。
師(薬山)云く「思量箇不思量底」(思量しないところを思量するのだ)。
僧云く「不思量底如何思量」(思量しないところをどのように思量するのですか)
師云、「非思量」〈思量にあらず〉。

道元も「正法眼蔵」の中で、繰り返し坐禅・瞑想の方法について述べています。すなわち、
「正法眼蔵・普勧坐禅儀」で、
 ・・・兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禅の法術なり・・
と、薬山の言葉を引用しています。
 この「非思量」が大問題で、さまざまな解説がなされています。たとえば、
1)曹洞宗東海教化センターHP:
 ・・・「思量」とは思いめぐらすことであります。「非思量」とは思いめぐらすことにとらわれないことであります・・・
2)goo国語辞書:
・・・すべての相対的な観念を捨てた無分別の境地・・・
3)長福寺HP:
 ・・・何も考えないと決めるのではなく、頭を開け放し入ってくることを受け流す、体で感ずるこの感覚で坐禅をすることが大切なのです・・・
4)ビジネスマンの人間力育成をサポートする有徳経営研究所株式会社セミナー(www.utok.jp/)では、澤木興道師の言葉「非思量とは人間的思惑を外した世界」を引用しています。
5)小川隆博士(駒澤大学教授)は、
 薬山の上記の問答を(筆者簡約、以前お話した井筒俊彦博士の論述を参照してください)、
 ・・・モノを一つひとつのモノとして認識することを拒否することを不思量と言い、それによってモノの存在を成り立たせている神(宇宙原理)そのものに同化する(以前お話した青原禅師の言う「山ではない山」)ことを非思量と言った・・・
と解説しています(「語録の思想史」岩波書店)。

 いかがでしょうか。これらいずれの説によっても、「坐禅・瞑想のコツ」が納得できた人がいるとは思えません。じつは、筆者の不思量と非思量の解釈、そして実行している「コツ」はこれらとはまったく違うのです。

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