志慶真文雄さんと浄土の教え(1)
志慶真さんは沖縄県うるま市で小児科医院を開くかたわら、二階に聞法(もんぼう)道場をつくり、仏教講演会、仏教読書会などを開催していらっしゃいます。聞法とは、おもに浄土真宗で使われる言葉で、仏教の教えを聞くことです。
志慶真さんは 「十歳のある日、夜空の星を見ながら、自分がいずれこの地上から消えてしまうという恐怖感とむなしさに襲われた。その日を境に生きていくのがつらくなり、誰か助けてくれという悲鳴をあげながら過ごしてきた」と言います。そして大学時代、「歎異抄」に関する聞法を通して、浄土真宗に出会ったのです。以後二十年にわたってそれを続け、沖縄に帰って開業し、「まなざし仏教塾」を開きました。現在は、ビハーラ医療団(註1)にも属し、「仏教の基盤に立った医療活動をしていきたい」と言っておられます。
筆者が志慶真さんのことを知ったのは、2014年11月のNHK教育テレビ「こころの時代」でした。経歴も、テレビ映像から伺えるお人柄も誠実そのものの人で、深い印象を受けました。
しかし、筆者には、そのおっしゃっていることで心に響くところはまったくないのです。浄土の教えを深く学んだ結果、どんなところに感銘したのか、視聴者に何を伝えたいのかが読み取れないのです。たとえば、
tannisho.a.la9.jp/seishi_wo_koerumichi_ge.html
http://manazasi-letter.com/index.php?2014%C7%AF(%CA%BF%C0%AE26%C7%AF)
をお読みください。ふしぎな気がします。誠実に生き、ひたむきに仏教の教えを学び、広めようとしている人を批判するのは大きなためらいがありますが、やはり見過ごすことはできません。ビハーラ医療団についても、その趣旨はあくまでも終末期のカウンセリングであって、けっして志慶真さんのおっしゃるような「仏教精神に基づく医療活動」ではないはずです(註1)。
志慶真さんがテレビで「仏説無量寿経は宝の山です」とおっしゃっていましたのには驚きました。「仏説無量寿経」については、以前、このブログシリーズでお話しましたように、弥陀の四十八願という、「阿弥陀仏がすべての人を救うために立てた誓い」が書いてあります。しかし、そのエピソードがすべてフィクションであることは考えるまでもないでしょう。フィクションから何を学ぶというのでしょうか。さすがに浄土真宗当局の中にも「事実だ」と言うことに不安があるようで、「釈迦のようなすぐれた人が深い瞑想の結果感得したことだ」と註釈を付けています。しかし、これは宗教でよく見られる「逃げの論法」なのです。そう言われてしまえば議論は終わってしまうからです。
筆者は、志慶真さんは法然の思想を誤解されていると思うのです。法然の著作をよく読めば、法然自身、「仏説無量寿経」の内容など重視してないことは明白なのです。法然や親鸞は、そんなものを飛び越えて、一気に他力本願の思想を理解したのです。筆者がそう考えた理由についてはのちほど改めてお話します。志慶真さんは他の宗教にも目を向けるべきだったと思います。
今、わが国の仏教が滅びつつあるのはだれの目にも明らかです。志慶真さんのような浄土の教えの理解では、その衰退を止めようがないと思うのです。志慶真さんも読者の皆さんも、筆者のこの提言を虚心に受け止めていただくことを祈っています。
註1 ヒバーラ医療団とは、ネットで検索しますと、浄土真宗の教えを学び、ビハーラ(仏教ホスピス)運動を推進する医療関係者・ビハーラ関係者のネットワーク組織。1998年7月に内田桂太(岩手県立磐井病院院長、田畑正久(東国東国保総合病院院長)、田代俊孝同朋大学教授の呼びかけで発会。全国組織で会員は多くが医師などの医療関係者であり、同時に僧籍を持つ。毎年、各地で「仏教と医療を考える研修会」を開催。とあります。