四国遍路のシーズン

四国遍路のシーズン

 いよいよ春が近づき、遍路のシーズンになります。志す人は毎年20万人にも及ぶとか。1200キロ(1450キロとも)を歩き通す人もいれば、バスツアー、自転車や車で巡る人もいるそうですが、一番多いのは、シーズンごとに10か所くらい歩いて回り、次の回にはそこまで電車で行って、そこから始め・・・という人もいる由。筆者の友人にも四国遍路をした人たちがいます。中には八十八ヶ所所だけでなく、別格二十ヶ所、さらには西国三十三ヶ所巡礼も結願し、最後の高野山や谷汲山へお礼参りもした人もいます。巡礼者たちは、各札所ごとに般若心経や不動明王の真言を唱え、印をいただいて、参拝の証とすると聞きます。
 巡礼の動機は、亡き親族の供養から、新しい自分を見付けるきっかけを見つけるためなど、人さまざまなようです。

 最近、その友人の一人とお話しました。筆者のブログを読んでいただいていることもあり、「四国遍路をどう思うか」との質問も、話の流れで出ました。筆者がこのブログシリーズで、日本仏教に対して厳しい目を持っていることを承知の上での質問でしょう。もちろん筆者は「尊いことだ」と思っています。筆者は以前から四国遍路に興味を持ち、テレビの体験番組から、ドラマまでほとんど見ていると思います。

 弘法大師開祖の高野山のご本尊については、ネットで調べてもよくわかりません。高野山と言っても金剛峯寺をはじめとする各寺院の集合体ゆえでしょう(金剛峯寺の御本尊は薬師如来とあります)。高野山は日本古代神道系の山岳信仰と習合していることが、不動明王をも崇めている理由でしょう。四国八十八か所寺では弘法大師その人を御本尊としていると聞きます。
 崇める対象がさまざまであることは、キリスト教やイスラム教徒から見れば「驚くべきこと」でしょう。筆者にも当惑するところがないではありません。ただ、本来、空海が尊重したのは、大日如来、つまり、宇宙の最高神ですから、空海を拝んでも結局は大日如来に帰依することになり、問題はないでしょう。しかも、筆者が四国遍路を「尊いことだ」と考えるのは別の観点からです。

 筆者には遍路を続けている人の心の変化に興味があります。以下は、体験者の言葉や、テレビ番組の内容に、筆者の感想を加えたものです。
 まず、最初の数日は歩きながら、それまでの人生の苦しかったこと、悲しかったことを次からつぎへと思い出すのでしょう。自分への嫌悪感、思い通りにならない世間に対する不満を繰り返すこともあるかもしれません。しかし、何日か経つと足は痛く、疲れも重なって来るし、単調な景色にも見飽きて、だんだん何も考えなくなり、ただひたすら歩くだけになるでしょう。
 巡礼をしていると、各地の住民たちから接待を受けることはよく知られています。報謝そのものが巡礼したとことになるからだと言います。そして、各札所で真剣に参拝しているうちに、おのずと、「自分一人の力で巡礼を続けているのではない」ことを知るのでしょう。つまり、「歩いている自分」から、「歩かせていただいている自分」に気付くのだと思います。つまり、苦しんだり悲しんだりしている「内向きの自分の目」から「生かされている」という、「外から自分を見つめる」との、思考の逆転が起こるのだと思います。
 これこそ、四国遍路の最大の収穫でしょう。これらのことに気付けるかどうか、それが成功するかどうかとの分かれ目でしょう。一回でわかる人もいれば、100回以上回る人もいます。しかし、10回巡錫しようと100ぺん回っても気付かなくても、それはそれでいいのだと思うのです。

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