飯田史彦さんについての疑問(1-3)

死後の世界と生まれ変わり(5)-飯田史彦さんについての疑問(1)

  飯田史彦さん(1962‐)は福島大学経済学部経営学科教授。「生きがいの創造」「同II」「生きがいの本質」(PHP文庫)など著書多数。さらに活発な講演活動もしている人です。とくに、飯田さんの「生きがい・・・」シリーズは全部で130万部以上の大ベストセラーになったということです(「生きがいの創造」での著者紹介から)。それだけこのシリーズで紹介した「人は死んでも魂は不滅」とか、「いつかまた死者に会える」、「生まれ変わってまた家族になれる」などの言葉が、多くの人に死の不安や家族を失った悲しみを癒してくれると受け取られたからでしょう。しかし、筆者はこの飯田さんの発言に強い疑問をもっています。それをお伝えするのが今回以降のお話です。

 飯田さんのこれらの著作を読んですぐ気が付いたのは、これらのシリーズの随所に「批判に対する予防線」や「自己弁護」が目立つことです。もちろんその理由の一半は筆者にもよくわかります。飯田さんのような大学の研究者が、スピリチュアリズムについて話すのには、学内外からの大きな抵抗があるからでしょう。「いったいそんな不確かなことを大学教師が言っていいのか」とか、「それらの発言はあなたの研究とどういう関係があるのか」とか、「沢山の著書を出しているが、大学での研究や講義に差し支えないのか」などの批判です。筆者も研究者でしたからから、それらの批判があることはよくわかります。飯田さんのさまざまな「予防線」や「自己弁護」は、恐らく著書を発表する以前からたくさんの指摘があったからでしょう。

 しかし、飯田さんのさまざまな発言や活動については、それらを越えた本質的な疑問があるのです。つまり、飯田さんの言動の根拠が正しくないからです。じつはご本人もそれを感じているらしく、「生きがいの本質」では、「まちがっていたかもしれない」と反省しています。しかし、それも自己批判ではなく、たくみに論理のすり替えをしているのです。
 
 飯田さんに対する筆者の疑問は次のようなものです。

 1)飯田さんの所説の独創性
 飯田さんの初期の著作「生きがいの創造」「同2II」HP 文庫)を読んで、まず筆者が感じた重要な疑点は、「はたして飯田さん自身もブライアン・L・ワイス博士らのような「退行催眠による前世療法を実践しているかどうか」です。それがなければ、同著は科学研究報告書ではなく、独創性もない、たんなるお話になってしまいます。筆者はもちろん飯田さんが医師でないことは承知しています。しかし、専門医と共同研究をし、現場に立ち会い、結果の判断などに関与することはできたはずなのに実践していません。たしかに飯田氏さんは奥山輝美医師(註8)との共著「生きがいの催眠療法」(PHP研究所, 2000)を出版していますが、内容はすべて奥山さんの医療実績であり、よく読めば実際には飯田さんはまったく関与していないことがわかります。それは、同著の「おわりに」の部分で奥谷さんが、

 ・・・(私の実践している)「催眠治療による生きがい療法」の基礎理論は、プラトン哲学、ゲシュタルト理論とユング心理学が主体となり、脳神経外科と東洋医学の知識と経験が媒体となり、それらに飯田史彦先生の「生きがい論」がコーテイングされて「生きがい療法」という形に仕上がっている(下線筆者)・・・

と言っていることから明白です。つまり、筆者の予想通り、共同研究でもなんでもないのです。にもかかわらず飯田さんが主著者になっているのは理解に苦しみます。好意的に見ても「奥山さんの実践の成果を(おそらく奥山さんが多忙のため)代筆しているだけなのです。ここに、飯田さん自身の研究者としての良心が疑われるのです。

註8 奥山クリニックの最近のHPを見てみますと、2017年までの20年間に4000例の「光の前世療法」をしており・・・施療を受けた人は「解決したいテーマについて光と対話していただき、神託を得ていただきます」とか、「輪廻転生から離脱します」とかの、信じられないような効果がうたってあります。奥山さんは上記の書で、次のようにも言っています。
 ・・・「催眠治療」は、誰が(催眠を)誘導しても同じではない・・・誘導する先生のテクニックと経験はもちろんのこと、その哲学と理論的裏付けによって、たとえ同じ過去生を経験したとしても、得られる結果はまったく違ったものになる可能性がある・・・
まさに語るに落ちた、唖然とするような発言だと思います。

2)飯田さん自身の霊的体験
 次の筆者の疑問は、「はたして飯田さん自身のスピリチュアリズムの体験」はどの程度のものか」でした。霊的体験のない人がこのような問題を公言し、著書を書けば、たんなる「また聞き」になってしまうからです。「生きがいの創造」に、「私(飯田さん:筆者)の霊的体験は『生きがいの創造II』で示します」とありましたので、早速読んでみました。そこには、多くの読者からも「飯田さんが『生きがいの創造』で一言だけ書いている、ご自身の体験とは、具体的にどのようなものでしょうか?」という質問が多かったとありました。

 しかし、そこに書かれておりましたのは「自死やガン死をした霊との交信体験と、霊の謝罪の気持ちを遺族に伝える『魂のメッセンジャー』としての活動」と、「まぶしい光からの『これをお前の使命として与える』とのメッセージ(註9)だけでした。つまり、退行睡眠による前世療法などとは一切関係なかったのです。それだけでは「他人の〇〇で相撲を取る」こととまったく変わりません。少なくとも飯田さんの言説が「人を救うため」にあるのならば、一つの思想科学として十分な検証がなされていなければなりません。筆者のこのブログシリーズは、すべてそういう基本的態度でお話しています。

註9 こう言った「光からのメッセージ」は、まず疑ってかかるのが、スピリチュアリズムや神道に関心のある者のあるべき基本的態度です。

 3)飯田さんの「霊魂不滅」や「生まれ変わり」の根拠となる知見がどこから得られているのか
 飯田さんが自説の根拠としているのが、ほとんどブライアン・L・ワイスが実践した「退行催眠による前世療法」で示された臨床例だけであることは明らかです。しかし、すでにご紹介した、「前世を語る子供たち」の著者イアン・スチーブンスンは、退行催眠による前世の探求には重大な欠陥があることを指摘しています。それについては以下に紹介します。しかし、それを待つまでもなく次の飯田さんの文の一節から明らかなのです。すなわち、ブライアン・L・ワイスと被験者キャサリンとのやりとり(「生きがいの創造」p54)、

ワイス:あなたの名前はなんですか?
キャサリン:アロンダ・・・私は18歳です・・・(中略)・・・時代は紀元前1863年です・・・

おわかりでしょうか。なぜ彼女が「今」いるのが「紀元前」とわかるのでしょうか。紀元前とか紀元後という概念は、キリスト以降の人が規定した年号なのです。キャサリンが生きているのが「紀元前」であることが分かるはずがありません。キャサリンの答えは明らかにフィクションなのです。飯田さんはそれに気付かずに引用しているのです。次回にも述べますが、これが「退行催眠による前世療法」の危険の一つなのです。

 飯田史彦さんについての疑問(2)
 
 ここで改めて、「前世を記憶する子供たち」の著者イアン・スチーブンソンによる、「退行催眠による前世医療法」に対する警告についてお話します。まずご注意いただきたいのは、スチーブンソン自身、「退行催眠による前世の復元」を何度も実践していることです。その経験の上に立って、「退行催眠・・・」の危険性を指摘しています。すなわち、

 ・・・催眠状態にある被験者(患者:筆者)の注意は、驚くほど集中した状態になっている・・・こうした集中力をさらに高めて行く中で被術者の思考の主導権を施術者(催眠を誘導する人:筆者)に委ねてしまうため、施術者の催眠暗示に抵抗できにくく・・・催眠によって誘発される特殊な服従状態の中で被術者は、何らかの、過去にあった出来事らしいものを物語らずにはいられない衝動に駆られるため、現世の生活の中からそれらしきものが捜し出せない場合には、前世らしき時代の記憶が全くなかった場合でも、それらしき話を作り上げるかもしれない・・・また、被術者は催眠のもう一つの特徴である演技力を利用することも多い、記憶の中に潜んでいるいろいろな情報をつなぎ合わせ、それをもとに「前世の人格」を作り上げてしまうのである・・・(以上下線筆者、「前世を記憶する子供たち」p71‐72、長いため筆者の責任において一部簡略化しています)

 催眠術に少しでも学術的な興味をお持ちの方なら、十分納得のいく論述でしょう。以上、実際に「退行催眠」を行っているスチーブンソンの経験として、十二分に尊重すべきではないでしょうか(註10)。スチーブンソンはさらに、

 ・・・薬物を使うにせよ(幻覚剤LSD:筆者)瞑想(による方法もある:筆者)や、催眠(による方法もある:筆者)を利用するにせよ、前世の記憶を意図的に探り出そうとすることにはあえて反対の立場をを取りたいと思う・・・心得違いの催眠ブームを、あるいは前世と思しき時代まで遡る大半の催眠実験の、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を・・・何とか終息させたいと考えている(p7、下線筆者)・・・

と明言しています。前述の奥山医師が実践している「前世療法」は、まさにそれです。

 もちろんスチーブンソンは、「退行催眠による前世の探求」を全否定しているわけではありません。
・・・結果については懐疑的ではあるが、全てを無意味だとして切り捨てているわけではない(p78)・・・
とし、前述の「真正異言」のケースを例として挙げています。

前世療法の根本的矛盾
 退行催眠によって神経症の問題点を突き止めるというのは、取りも直さず中間生(前世と現世の中間:筆者)で決めた「課題」を知るということです。「課題」は、現世で起こったことから「自ら知る」ことが何よりも大切なはず。それを人の助けを借りて知ってしまえば「答え」を知ることになり、スピリチュアリズの根本原則に反することになります。これこそ重大な問題点でしょう。

註10 スチーブンソンは「患者の作り話」説以外にも、「霊の憑依によるもの」について触れています。つまり、こういう、自分としての意識が極端に低下している状況では他の霊が憑依し、患者の口を借りて発言することがありうるのです。それに関する筆者の体験ついては、いずれお話します。前回、「阪神淡路大震災で死んだ少女の前世記憶は他の霊の記憶との混信でしょう」と筆者が紹介したケースはこのようなケースの一つだと思われます。

 4)飯田さんの自己批判には論理のすり替えがないか:
  飯田さんには、「生きがい・・・」シリーズを書き進めるうち、読者から多くの厳しい批判が寄せられていたようです。そして、それらの中には、看過できないような重大な指摘があることを気付いていたようです。そのため、おそらく版を進めるうちに、それらの批判に対する「予防線(反論封じ)」を、気になるほど随所に張ったのでしょう。それどころか、「生きがいの創造II」の冒頭で、

 ・・・「こんなこと絶対あり得ない」と拒否する方は、どうぞ目くじら立てないで、きらびやかなファンタジー(空想小説)として、お楽しみ下さい・・・「こんなことがあったらいいなあ」と願う方は、どうぞ、わくわくしながら、夢をかなえてくれるエンターテインメント(娯楽)として、お楽しみください・・・

とあります。驚くべき無責任さです。さらに、飯田さんの著作や講演、そして自死やガン死に霊魂たちと遺族たちとのメッセンジャーとしての実践活動の主目的は、「ただ何かの御縁で目の前にいらっしゃる、その御方を救いたいだけ」と明言している以上、それらの根拠が、ファンタジー小説やエンターテインメントであっていいはずがありません。それどころか、現実に飯田さんの「生きがい・・・」シリーズは多くの反響を呼び、人々に影響を与えているのです。これこそ、科学者としての基本的態度が問われるところです。

 飯田史彦さんについての疑問(3)

 5)科学者としての飯田氏の態度:
  飯田さんは、
  ・・・第一作の『生きがいの創造』は、死後の生命や生まれ変わりに関する各国の大学教官や医者たちの研究成果をご紹介し、私たちはどのようにして生まれてきたのか、という仕組みの観点から、人間の「生きがい」について考察しました。私自身は、決して“真理の解明”に興味があったわけではなく、人間に生きがいをもたらす価値観とはどのようなものなのか、を新たな方法で追求したつもりでした。しかし、私の書き方が未熟だったために、私があの世や魂そのものの研究を行っているかのような誤解も生んでしまいました。私は「あの世」でなく「この世」の研究者であり、あくまでも、人間に生きがいをもたらすような発想法に興味を抱いていたにすぎません(下線筆者「生きがいの本質」p32)・・・

と言っています。しかし、飯田さんの「決して“真理の解明”に興味があったわけではなく云々」は、およそ科学者として許される発言ではありません。明らかに科学者としての踏み絵を踏んでいます。

 飯田さんはさらに、
 ・・・私は、人間の生きがいについて、人間の価値観というものに焦点をあてながら研究している学者ですから、何が真理であるかということよりも、どのような価値観を選び取ることが人間に生きがいをもたらすのだろうか、という問題意識を貫いています。なぜなら、真理であるかどうかという判断不可能な問題にこだわってしまうと、かえって自分自身を、出口のない迷路へと追い込んでしまうからです(下線筆者「生きがいの本質」p345‐346、「CD付き{新版}生きがいの本質」p332‐333)・・・

と唖然とするようなことを言っています。「なぜなら、真理であるかどうかという判断不可能な問題にこだわってしまうと、かえって自分自身を、出口のない迷路へと追い込んでしまうからです」とは!こだわる?出口のない迷路へ追い込む?・・・自己弁護以上の詭弁でしょう。

 加えて飯田さんは、
 ・・・催眠療法中に受け取るイメージについて、たとえその記憶が、受診者の脳が創作した空想物語にすぎないとしても、その物語を活用することによって症状や苦悩が改善されるのであれば、「脳が与えてくれた素晴らしい贈り物」として、医学的見地から大いにありがたく役立てるべきだからです。
 少なくとも、あらゆる可能性に心を開こうとする真の医療関係者であれば、その物語を活用して前向きに生きようとする人々の努力を、それが真実であると物理的に証明できないという理由のみによって、馬鹿にしたり否定したりはできないはずです(下線筆者)・・・

と持論を展開しています。「物理的に証明できなければ、科学的に証明できない」?もしそうなら、あらゆる心理学や精神療法はまちがいということになってしまいます。心理学や精神療法はまぎれもなくサイエンスです。つまり、物理的に証明できなくても、科学的に真理に近づけるのです。イアン・スチーブンソンの研究をくわしく検討すれば納得できるでしょう。飯田さんは明らかに論理のすり替えをしているのです。

 驚くべきことに、飯田さんはその一方で、
 ・・・私の著書は、空想小説ではなく「科学的考察を基にした思想書」(「生きがいの本質」p349)です・・・

と言っています。飯田さんは以前、「空想小説としてお楽しみください」とか、「真理の解明に興味があったわけではなく・・・」
と言ったではないですか!なのにここで、「科学的考察を基にした思想書」とは!「言いも言ったり」です。「科学的根拠を持たない科学的考察を基にした思想書」と言うべきです。

 科学者としてばかりでなく、こんなに重要な問題を人々に伝えるためには、真理であるかどうかを徹底的に追求しなければならないのです。飯田さんとまったく対照的なのが、イアン・スチーブンスンのスタンスです。スチーブンソンは、「前世を記憶する子供たち」の事例を2600以上集め、確かなものと不確かなものをさまざまな基準で峻別しています。それどころか、ワイスの「退行催眠」すら実践し、両者にまつわる危険性を明示しています。そして、最後に残された事例だけについて診断しているのです。一方、飯田さんは、「こだわると迷路に迷い込む」というネガテイブな語句を使って、巧妙に自分の態度を正当化しているのです。科学者としても、良識ある人間としても許されないはずです。

 その一方で飯田さんは、「生きがいの催眠療法」において、
 ・・・私は本書に記してあるような内容を、大学の「経営学」関係の講義中や、ゼミナールで学生たちに話すことは、一切いたしておりません・・・さらに、大学での私は、専攻する「経営学」(経営戦略論および人事管理論)の研究者として、勤務時間の全てを通じて「経営学の学術的研究」に専念しており、「経営学」に関するガチガチの学術論文を、コンスタントに発表しています(「生きがいの創造II」)・・・

と言っています。しかし、「人間に生きがいをもたらす価値観とはどのようなものなのか、を新たな方法で追求したつもりでした」の発言はまさしく飯田さんの「経営学(人事管理論)」の学術目的に沿ったものでしょう。これでも「研究や講義やとはまったく別」と言うのでしょうか。「勤務時間の全てを通じて云々」は、レトリックです。研究は「勤務時間以外」にもするものなのですから。

 飯田さんもここまで来ては後戻りなどできなくなっているのでしょう。しかし、これまで多くの著書やたくさんの講演を通じて、多くの人々に誤った感動を与えているのです。さらに、すでに日本各地に、おそらくワイスや飯田さんの強い影響を受けて、退行催眠による心理療法を行う有料のセラピストも輩出しているのです。筆者は、飯田さんの実践している「魂のメッセンジャー」としての活動を否定はしません。しかし、誤った根拠に基づく「前世療法」思想をこれ以上広めてはいけません。

 筆者はけっしてブライアンL・ワイス博士の「退行催眠による前世療法」をトータルに否定しているわけではありません。しかし、前述のように、この方法には強い疑問があるのです。飯田さんはイアン・スチーブンソンによる批判を知らなかったのでしょうか。それとも知っていて目をつぶっていたのでしょうか。前者なら、科学者として信じられないような怠慢ですし(筆者は当シリーズのように、ワイスの研究、スチーブンソンの研究、そしてシルバーバーチの霊訓をセットとして考察しています)、ことさらに無視したのならなら、不実としか言いようがありません。

 「人間としてもっとも重い罪は、人に誤った神理を伝えることだ」と聞いたことがあります。

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