ブログに対するコメントへの回答
最近ブログの読者から次のようなコメントがありました。
>実に馬鹿馬鹿しい論理ですね。自己満足と自己陶酔に嵌っているだけでしょう
今の世に神話を信じている人がどの位居るでしょう。亡くなった人が神になったり石や木が神になったりはたまた動物まで神に、・・・誠に多種多様な八百万の神とは恐れ入ります。一神教の国も有り、此をどの様に整合されますか。鰯の頭も信心から・・・良く言ったものです。この世に神仏が存在するならば、震災も貧困も無くなるのでは。ましてや神仏が有るから戦争が無くならない事はお釈迦もキリストも知っていた筈です。弱い人類、不安だらけの人類を如何に洗脳で籠絡し、自分の主義主張を押しつけたのが宗教の始まりでは。・・・いい加減に他力本願を押しつける事は止めましょう・・・
筆者の回答:礼儀を弁えないのはあなたの品性の問題ですから、筆者には関わりがありません。第一、あなたのコメントが誰に向けられているかもはっきりしません。「無視しよう」とも思いましたが、「これから宗教の勉強を本格的に始めよう」としている人には参考になる点もあると思いますので、筆者の考えをお話することにしました。
まず、あなたの考えはあまりにも素朴だと思います。
1)一神教か多神教か
この問題は、それぞれの宗教・宗派の考え方ですから、筆者が関知するところではありません(筆者の考えはいずれお話します)。キリスト教やイスラム教のような一神教と、日本のような多神教の思想を統合するなど、まったく稔りのない議論になるでしょう。
2)この世に神仏が存在するならば、震災や貧困が無くなるか
敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒の皆さんは、震災があろうと、貧困であろうと、神に対する絶対的な信頼は変わらないはずです。もし、争いも、貧困もなくなり、幸せばかりの人生ならば、この世に生きる意味がなくなってしまうのではないでしょうか。筆者など、極楽やシャングリラ(理想郷、あるとは思えませんが)では、暇でどうしようもないものになるでしょう。苦しみがあるからこそ、それを越えたとき喜びが湧くのではないですか。スピリチュアリズムでは、さまざまな苦しみを乗り越えて魂の成長を遂げることが、人間がこの世で生きる意味だと言います。
この問題は、筆者のブログシリーズの主要テーマですから、これからも、折りに触れてお話していきます。
3)神仏があるから戦争が無くならないのか
確かに世界の歴史はユダヤ教徒とキリスト教徒、キリスト教徒とイスラム教徒との争いの歴史だと言ってもいいでしょうね。それは現在でも世界各地で起こり、凄惨な殺し合いが行われています。しかし、正しくは、神仏があるのに戦争が無くならないのだと思います。戦争もするのもしないのも人間の意志です。
4)他力本願の押し付けかどうか
イスラム教やキリスト教は法然の浄土思想と同じ、「ただひたすら神を信じる」ですね。他力思想です。滅多なことを口にしない方がいいと思います。あなたのこの考えを「神は偉大なり」とするイスラム教徒過激派が知ったらどう思うでしょう。