而今(今ここだけを懸命にに生きる)

而今(今ここだけを懸命にに生きる)

 魚川氏が伝えるブッダの悟りへの道は、「衆生が現世で体験するモノゴトは、すべて因(原因)と縁(条件)によって現れた仮の現象であり、実体ではないことをはっきりと認識し、苦や渇愛(欲望)につながるそれらを徹底的に消し去ることによって達成される」でした。まことに正当な、納得のいく思想です。そして南伝仏教では、悟りに至るために、「気付きの瞑想」の実践を重視します。

 これに対し筆者が考える禅の悟りへの道は空(くう)思想に基づくものです。すでに何度もお話しましたように、「空とはモノゴトの観かたであり、モノゴトを見た(聞いた、味わった、嗅いだ、触った。以下同じ)一瞬の体験こそ真実だ」というものです。このモノゴトの観かたが自在にできるようになれるよう、修行するのです。このモノゴトの観かたは、「人間が生きているのはいつか」を考えればわかりやすいでしょう。「いや、私は過去何十年も生きて来て、これからも生き続けるはずだ」と言ってはいけません。なぜなら過去のモノゴトは、「私が過去に見た世界」であり、すでにその私はいません。よく禅の世界では、「だから過去はない」と言いますが、それは誤りです。過去はあったのです。しかし過去は過ぎ去ったものなのです。もう実体はありません。「将来起こるであろうモノゴト」はもちろん、将来私が見るであろう世界で、たんに想像しているだけです。やはり実体はありません。これらに対し、いま私が観ているモノゴトは、まさに生きている私が観た真実の世界そのものです。

 筆者の考える「悟り」とは、「人間の意識が、神に通じる魂(筆者の言う本当の我)につながること」です。そして「輪廻、つまり生まれ変わり現象」がそのバックグラウンドとしてあります。この考えは、筆者が長年修行した神道系教団での体験と、禅の体験と知識、そして神智学(註1)から学んだ知識によるものです。このように、筆者の考えはブッダの思想とはまったく別のものです。筆者も悟りに至るための修行として、坐禅・瞑想を専ら実践するのは、禅と変わりません(註2)。「気づきの瞑想」も取り入れていますが、なかなか身に付きません。

禅の世界では而今(にこん:いま、ここ)という言葉が重要だと言われてきました。その理論的根拠は、この筆者の言う「空」の意味にあると思います。

今、ここだけに生きる

 前にもご紹介した筆者の友人Aさんから、最近よいお話を聞きました。Aさんは筆者のブログを熱心に読んで下さる人で、「空」の思想もよく理解していただいています。Aさんの知人Cさんは、これまで禅にはあまり関心のなかった人ですが、「昨日はない、明日のことは考えない、今日だけを一生懸命生きるだけ」と、「空」の思想と同じことを言っているとか。驚いて聞いてみますと、彼は長年胃ガンで苦しんでおり、常に死の不安があるギリギリの状況でつかんだのが、この人生観だったのです。「健康だった昔のことは考えない。明日、事態が急変するかもしれない。しかし、今日一日は何とかやっていける。今日だけを生きるつもりだ」と言うのです。

 いかがでしょうか。禅とはこういう思想なのです。

註1 神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神と結びついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとする学問。
註2 ブッダが悟りに至るまでの長い間坐禅・瞑想したことはよく知られた事実で、奈良の大仏などはブッダの坐禅の姿を写しています。

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