マイスター・エックハルトと禅(4)

キリスト教と禅‐マイスター・エックハルトの思想(4)

 マイスター・エックハルト(1260?-1327)は、ドイツのキリスト教神学者、パリ大学の神学教授、そしてドミニコ会総長代理などを歴任。当時のヨーロッパは、カトリックの勢力がますます強大になり、大学と言えば宗教学、芸術と言えばゴシック様式などなど、芸術と学問はことどとく教会によって支配されていました。それらのことは当然、神父の権力も増大させ、ために教会は堕落し、やがては免罪符といういい加減なものを売って収入とするようになったのです。いわゆる中世暗黒時代ですね。マルチン・ルターが宗教改革に乗り出し、ルネッサンス(再生)が起こったのは200年後でした。じつはエックハルトはカトリック教会において最も優れた指導者だったのです。しかし、やがて彼の思想は当時のカトリックから離れて独自のものになってゆき、民衆の心に直接訴えていくようになったのです。

 以下に示すように、エックハルトは神と人間の一体化を説きました。キリスト教の根本的思想は「神は人間から隔絶したものである。しかし、すべての人々のすぐ傍らに居て見守り助け給もう」ですから、エックハルトの言う神と人間の一体化がどれほど画期的だったのかおわかりいただけるでしょう。その考えは必然的に教会や司祭などの「仲介者」を不要のものとしました。教会が安住していた権威と経済的基盤を奪うことになったのです。異端者とされたのは当然でしょう。エックハルト自身は審問を受けるため教皇庁へ行く途上で亡くなってしまいましたが、その後彼の著作はことごとく焼かれ、説教を記録した文書を持っていた民衆まで徹底的に弾圧されたのです。現代に伝わるエックハルトの思想は、奇跡的に廃棄を免れたものなのです。

 以下に、著作「神の慰めの書」(講談社学術文庫)からエックハルトの思想を御紹介します。

エックハルトは言う、

 ・・・汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない状態となり、名前無きなることを理解するであろう・・・神は自分に似せて人間を作り賜うた。・・・魂の諸能力がより無垢であり、より清浄であればあるだけ、それだけ魂はますます完全にますます(神を:筆者)広く受容するのであり、ますます緊密にその受容せるものと一つになる。そして最後に、あらゆる物を離脱し、いかなる物とも共通することなき最高の魂の力は、実にほかならぬ神そのものを、その本然の、如実なる本質において受容するに至るのである。何ものもこの(神との:筆者)合一と貫通打開(突破:鈴木大拙博士)の歓喜にしくものはない(p311)・・・神は私より私に近い・・・

筆者のコメント:
 1)鈴木大拙博士が言うように、まさしく禅の悟りの境地と同じですね。ある一瞬を境にしてモノゴトの観え方がガラリと変わってしまう・・・以前から見えていたにもかかわらず見えなかったもう一つのモノゴトの姿が見えて来る・・・神との境が取れて神と一体化する貫通打開はその一瞬ですね。
 キリスト教会の権力が頂点に達した時の最高の指導者が、キリスト教学とはまったく異なる思想に達したのは大きな驚きです。

 筆者が以前、「悟りとは本当の我(真我)と疎通し、神と一体化することだ」とお話したとき、ある人から「それは一闡提(いっせんだい)と言って禅では否定されている」とのコメントがありました。すぐに「それは一禅者の個人的見解に過ぎません。第一、一闡提の解釈を取り違えています」とお答えしました。

 2)神は私よりも私に近い・・・ちょっとわかりにくい言葉ですが、私よりもの私とは、自分がこれまで「私」と考えていたもの顕在意識での私。私に近いの私とは筆者の言う本当のわれ、真我を指すと思います。

神と一体化するにはどうすればいいのか
 ではどうしたら神と一体となれるか。エックハルトは、神に対する全き従順、虚心、善、我意を離れること、棄却と言っています。さらに熱心、愛、人間の内面への充分な洞察、溌溂として真実に理性的現実的な認識、内面的な閑寂とも・・・うーん。当然でしょうが、あまり参考になりそうにもありませんね。それが残念です(註2)。

註1 一闡提:仏法を信じず誹謗する者(Wikipedia)。
註2 「エックハルトは深い瞑想によってこの考えに達した」という説もあります。

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