弓と禅(1-3)

弓と禅(1)

 剣禅一如という言葉はよく聞きますね。山岡鉄舟や柳生但馬守が剣の修行に禅の修行を取り入れたと言われています。弓道についても同様で、今回から中西政次という教師だった人が、偶然のキッカケから弓道を始め、ついに高位に達した修行の過程と感動的な体験についてご紹介します(「弓と禅」春秋社)。
 中西さんは中学校(新制)校長だった53歳のとき、鷺野暁という弓道師範の訪問を受けた。同中学校に弓道部を作らないかとの提案でした。中西さんは長く禅の修行をしてきた人です。鷺野師と親しく話し、その弓術に触れるうちに、弓道が禅の修行と共通するところが多いことを知ったと言います。大学で教えを受けた鈴木大拙博士にも相談したところ即座に賛成され、本格的な弓の修行をすることになりました。

 教えを受けた鷺野師範の無影心月流(註1)の主旨は、

 ・・・真の目的は的中にあるのではなく、的中を二義的なもの副次的なものと考えて、もっぱら内面を培(つちか)って行き、心が宇宙と一体になったような広々とした状態になること、つまり、射理見性(弓道を通じて悟りを開く)だ(筆者簡約)・・・

です。鷺野師の弓道は、弓術の修行に禅の修行を取り入れるどころか、修行過程が禅の境地の進化そのもののようです。すなわち無影心月流には段位というものはなく、心境の深化を表わす段階があるのみなのです。そして師範は各門弟の射を見ただけでその心境がわかるようなのです。さらに、その心の深化が直接的中率に反映されるというのです。

 中西さんは、心の深化が進んだある時、
・・・ふと我に返って庭を見ると樹々が燦然と光って見える。苔も濡れたように青々と輝いて見える。目を上げると、屋根も山も空もすべてが異様に光り輝いて見える。さらにそれらの奥に、すばらしい何物かが見える。私はただ恍惚と見とれていた。踵(きびす)を返して茶の間へ行った。家内や娘がいた。家内も娘も私の目下(めした)としての家内や娘ではなくて、強い光を放つ尊い存在として見えるではないか。それは神とも仏ともいうべき尊い存在であった。あなたはよう私の妻になって下さった。娘たちよ、よく私の所へ生まれて来て下さった。ありがたいことだと思われた。妻や子供だけではなかった。机も本も額も襖も目に触れるものすべてが強い光を放っているではないか。翌日になっても変わらなかった。山川草木すべてが絶対者の一部として感ぜられるとともに、その奥の絶対者それ自体が観取されるではないか・・・

感動的なシーンです。まさに弓道と禅道は同じだったのですね。

註1無影心月流の創始者は梅路見鸞師範(1892‐1951)。門弟3000人と言われます。

弓と禅(2)オイゲン・ヘリゲル

(原題は「弓術における禅」、「無我と無私」と変えて藤原美子訳(ランダムハウス講談社)など様々な訳本が出ている。
 オイゲン・ヘリゲル(ドイツ人1884-1954、東北帝国大学客員講師として日本に6年滞在して西洋哲学を教えた。日本の精神文化の奥底を知りたいと、夫人は日本画と華道を習い、自身は阿波研造師範(1880-1935、大射道教の創始者)に弓道の教えを受けた。帰国する時には五段の免状を授受。阿波師範は、前回お話した中西政次さんの大先輩で、梅道見鸞師の高弟。その境地と技は弓聖とも呼ばれるほどだったと言います。たとえば、弓道の全国大会で優勝したときは、4日間連続、全射的中したとか。
 筆者は10年ほど前に「無我と無私」を読みました。その内容に感動すると同時に、少し疑問も感じました。それについてお話します。
 ヘリゲルは「離れ(矢を放つこと)」がどうしてもうまくできない。彼は西洋哲学者であり、ピストル射撃術にも通暁していましたから、どうしても技術的な論理を究明したいと思った。しかし師匠はまったく意味不明のことを言う。

 ヘリゲル:的に当てるという目的を果たすために、弓を引くという手段をとっている
 のです。この関係を無視するわけにはいきません。
 阿波師範:正しく射るためには無為自然でなければなりません。的に当てるために
 正しい矢の離れを修得しようと躍起になればなるほど、ますます離れは
 うまくいかず、当たらなくなるでしょう。あなたのあまりにも強い執着が
 邪魔をしているのです。
 ヘリゲル:ではいったい私はどうすればいいのでしょう
 阿波師範:正しく待つことを覚えなければなりません。そのためにはあなたは自身
 から離脱し、あなたやあなたのもの一切を捨て去れば、そこに残るのは
 引き絞った弓だけになります。
 ヘリゲルはそこがどうしても理解できなかった。そこで、巧妙に「自然に離れたように見えそうな技術」を工夫して阿波師匠に見せた。ところが阿波はたちどころにそれを見抜いて、無言でその場を去ったと言います。つまり、ほとんど見放されたのです。
 その後、ヘリゲルは許され、さらに質問した。
 ヘリゲル:私が弓を射なかったら誰が射るのですか。
 阿波師範:「それ」が射るのです。

 阿波はそれを証明するために、暗闇の中で的の前に線香一本だけを立て(もちろん的は見えない)、続けて2射した。甲矢は的の真中に、乙矢は、甲矢を貫いたと言います。ヘリゲルはこれにより日本文化の根源に仏教や禅の精神性を見出したとし、帰国後講演を重ね、前述の書を著わした。
 ヘリゲルは、阿波師範が言った「それ」とは、「仏とか神のことだろう」と理解し、講演や著書でもそれを匂わしたことが、「日本文化の神秘性」としてヨーロッパ人に大きな衝撃を与えたのでしょう(註1)。

註1 これに対し元ドイツ弓術連盟会長Feliks F. Hoffは、「よい射を日本語で『それです』と誉めるのをドイツ語でEs(英語のIt)を主語にしたため意味が変わってしまったのだと「神秘性」に疑問を呈している。わが国の弓道家の中にもそういう人は少なくない。

 筆者が10年前この本を繰り返し読み、感銘を受ける一方、どうしても違和感が残りました。それが中西政次さんの「弓と禅」を読んで氷解したように思います。中西さんも境地と技術の向上に努め、「矢の自然の離れ」ができるようになりました。じつは中西さんにとっても重要な課題だったのです。そして、その技術・境地は梅路見鸞師範の「無影心月流」のいわば「初段」に過ぎません(前述のように、ヘリゲルは阿波師範から最終的に五段の免許を受けましたが)。これに対し中西さんは弓の道へ入る以前から禅にも造詣が深く、弓道を学びながらも禅を学び、坐禅を続けたのです。そして「弓と禅」を書いた時期にはヘリゲルよりさらに二段階も上に達していました(ちなみに同流にはさらにその上に二段階あります)。

 ヘリゲルは日本語はほとんど理解できず、阿波師範との会話はすべて東北大学のドイツ語が堪能な教授による通訳を介していました。そのため当然、日本滞在中に得た禅の知識は皆無だったと思われます。つまり、ヘリゲルが「弓術における禅」を書くにはあまりにも低い境地だったと言わざるを得ません。これが筆者が「ヘリゲルの論述には違和感があった」原因だったのではないかと考えています。

弓と禅(3)「無」「空」について、あるやり取り

 1)中西政次「弓と禅」(春秋社)に興味あるやり取りがあります。

弓の中級者で禅の修行も積んでいた中西さんが、鷺野師範に、

中西:(弓道の大先輩であり、禅にも造詣が深い)F氏が、「弓を打ち上げた時(弓に矢をつがえて頭上に挙げた時)無の境地になる」と言われましたが、正しい見解ですか」
師範:正しい見解です。弓を打ち上げた時だけでなく、始めから終わりまで「無」の状態
です。
中西:F氏は「無とは空であり、何物もないことだ」と説明されましたが、私が坐禅
でわかった無の見解は『何物もない』ということではないのです。何もないという見解が正しいのであれば、弓と禅とは一致しないような気もしますが。
師範:有るとか無いとかの相対界の無ではなく、相対界を越えたものです。
中西:凛然たる気、純一無雑な心は「無」という言葉で表現するのは不適当だと思います。それは「絶対有」あるいは「真の実在」というべきであると思いますが・・・。
師範:F氏の無の意味も有限界、相対界の無ではないと思います・・・あなたの言われる「絶対有」というのも世間の一般的な言葉では「何物もない」というように表現したり、「空」と表現します。

 いかがでしょうか。このやり取りを読んで、筆者は中西さんの、少なくとも禅境については、むしろ鷺野師範より進んでいると思います。

 まず、F氏の言う「弓を打ち上げた時の無の境地」とは、禅で言う有・無とか空の問題ではなく、たんに「無心、つまり何も考えない」だと思います。坐禅の時の心の状態ですね。師範の言う「有るとか無いとかの相対界の無ではなく、相対界を越えたもの」という表現は考え過ぎです。

 次に中西さんが「凛然たる気とは『絶対有』あるいは『真の実在』というべきである」と言っているのはよく理解できます。実に良いところをついていると思うのです。ただ、表現についは筆者とが違いますが。「絶対有」とか、「真の実在」というような言葉は、禅では使いません。筆者ならそれを「神(仏)に通じる『本当の我』と疎通した状態」と表現します。

 さらに、鷺野師範が「『絶対有』というのも世間の一般的な言葉では『何物もない』というように表現したり、「空」と表現します」言っているのにも問題があります。「空」についての筆者の解釈はすでに何度もお話していますように、師範の解釈とはまったく違います。さらに、「空とは何物もない」ではありません。鷺野師範は「空」という言葉を少し安易に使い過ぎていると思います。

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追記:前回お話したオイゲン・ヘリゲルが阿波研三師範に、「私がいるのではないというなら誰が射るのですか」と聞いたのに対し、阿波師範が「ソレが射る」と言ったことについて、ドイツ弓術協会のF.F.Hoffやわが国の弓術家が疑問を呈していることは前回お話しました。筆者はむしろヘリゲルの理解が正しいと思います。上記のように、矢を射たのは、神につながる「本当の我」だと思うからです。つまり、「ソレ」とは神(仏教では仏)のことだと思います。

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