父母未生以前の自己(2‐その1)
大西晋二さんから次のようなコメントがありました。
(前半は後半と重複しますので省略)・・・「父母未生以前の自己」とは、自分の父母が生まれる以前の自分とは、霊的存在である自己が、転生輪廻の過程で、この世とあの世を何回も、生まれ変わっているのが私達人間の本当の姿ですよ。ということを説きたかったのです。解れば簡単な事なのです。ある仏教の僧侶は、こう答えてました「この意味は、本来自分という我はいないのだ」。皆さんこれで理解できますか。私は情けなくなりました。ここまで仏教の教えが歪められたら、黙っていられなくなりメールした次第です・・・
筆者のコメント:大西さんの舌鋒が筆者に向けられているのか、たんに筆者のブログに便乗して自説を開陳しているだけかはわかりませんが(ちなみに筆者はまだこの公案について考えを述べたことはありませんので後者でしょう)、重要な公案の一つですからこの機会に筆者の解釈を述べます。ちなみに、夏目漱石が鎌倉東慶寺の釈宗演禅師の元で参禅し、著書「門」や「吾輩は猫である」にこの公案を取り上げたのはよく知られています。結論から言いますと、大西さんの解釈はまちがいです。
この公案は、もともと禅の六祖慧能(638‐713)の「父母(ぶも)未生以前に於ける、本来の面目如何」という問い掛けから始まっています。この公案を解説するのにネットで見つけた「仏光さん」の次の説明は、この公案の趣旨を理解するのにわかりやすいので一部引用させていただきます(ameblo.jp/bukko-san/entry-10263994887.html)。ただ、仏法さんのブログにはこの公案の解釈は出ていません。それが重要なのですが。
・・・私たちはよく「私はこう思う」とか「私は腹が立った!」とか「私は嬉しい」とか言っていますが、この私とはいったい何を指して私と言っているのでしょう?「この身体が私か?」 「いやいやそうではない。この心が私なのだ」とか色々考えてしまいます。「じゃあ私というその心をここに出して見せてくれ」と言われても困ります。心とはいったいどこにあってどんなものなのでしょう?・・・普段私たちはこのつかみどころのない「私」に振り回されているのではないでしょうか?このよくわからない私が苦しみ、悲しみ、喜んでいるのです。いったい「私とは何なんでしょう。「私」の知っている限り、正しい坐禅瞑想をしないと本当の答えは出てこないと思います・・・
要するに「本来の人間とは何かをはっきり見定めよ。それがわからないから悩みや喜びに振り回されているのだ」と言うのですね。
じつは「人間とは本来神である」と言っているのです。禅の語録や公案をよく読んでみますと、禅思想の根底には「神(仏教では仏)」があることがよくわかります。それどころか、あらゆる宗教に共通する大前提として「神(仏)」があることは言うまでもありませんね。「父母も生まれない遥かな過去」とは、神(仏)の世界です。そこには宇宙すら(もちろん人間も)ありません(じつは「そこ」もないのですが)。今、悩んだり苦しんだり、喜んだりしている人間も神なのです。神には悩みや苦しみはありません。「もともとは神なのに悩みや苦しみに振り回されている自分に気付くべきだ」というのがこの公案の主旨なのです。その意味で大西さんが批判するお坊さんの言葉「本来自分という我はいないのだ」の方がむしろ正しいのです。もう少しそのお坊さんの言葉の前後を知りたのですが。このテーマは次回以降も続きます。