霊魂ーベルクソン・小林秀雄(1-5)

 1)ベルクソン(H.L.ベルクソン1859-1941、註1)は「生物学的脳(以下、脳とは大脳を指します:筆者)は意識とは無関係である」、そして「霊魂はある」とも言いました。この考えは、当時も今も大問題になります。そんなことを口にすれば、「専門家」からも「一般人」からも痛烈な非難や中傷を巻き起こすはず。「『科学的』に説明できないものは認めない」というのが現代人の強固な共通認識ですから。小林秀雄(1902-1983、註2)はベルクソンの研究者として知られ、講演でも若者たちに向かって、この偉大な哲学者の著作を読むべきだと力説しています。ベルクソンの思想は他にもハイデッカー、サルトル、内藤湖南や西田幾多郎などにも大きな影響を与えました。しかしそれ以後この考えは途絶えてしまいました。筆者はベルクソンや小林秀雄の考えに共感しています。以下5回に分けて、このベルクソンの重要な思想についてお話します。 
 ベルクソンが言う意識とは、人間の感覚(イマージュ)と、「自分が自分であるとの認識」、そして霊魂の問題です。「それらの意識現象は、脳にはない。どこにあるかはわからないがそれは問題ではない。現代人は『ある』と言えばすぐに所在する空間を問題にするが、そういう考えは現代科学の欠陥だ」と言うのです。

 イマージュ(感覚)とは、たとえばリンゴを見て「赤い」と判断する精神活動です。この問題はけっして単純ではなく、現代にも続いています。茂木健一郎さんがクオリア(質感)と読んでいるモノです(「意識とは何か」ちくま新書)。たとえばカメラの焦点に映った像は、たんなる映像であり、「赤い」とか「おいしそうだ」という判断はありません。ではなにが「赤い」とか「おいしそうだ」と判断しているのでしょうか。記憶の中にあった、以前リンゴを見て「赤い」とか「おいしそうだ」と学んだものが呼び覚まされ、それと比較して「これも赤い」とか「おいしそうだ」と判断したはずです。  
 一方、人間には「自分」という、物心ついてから消えることのない意識がありますね。自分であることのアイデンテイテイのことであり、誰もが持っていて、「魂」とも深い関わりのあるとても重要な精神活動ですね。ベルクソンは「私」という意識はどこにあるのかについても考えました。それも記憶と言ってもいいはずです。

 第三に、霊魂の問題です。ベルクソンや小林秀雄は「霊魂は存在する」と言っています。この意見は当時も今も強い批判や中傷の対象となりやすいのです。しかし、彼らの論調の強さには、聞いていて心配になったほどです(小林秀雄講義第二巻「信ずることと考えること」新潮社)。ベルクソンや小林秀雄がバッシングを受けたかどうかはわかりません。おそらく二人ともそんなものは歯牙にもかけなかったでしょう。また、二人の思想家としての偉大さゆえに、まともに批判できる人間などいなかったでしょう。

註1ノーベル文学賞受賞。主著に「時間と自由」(岩波文庫)、「物質と記憶」(同)など。以前お話した、夫が戦死した状況を遠く離れた自宅にいた妻が白日夢として見た話は、「精神のエネルギー」(白水社)に出ています。

註2 小林秀雄には「新潮」に連載していた「感想」というベルグソン論がありますが、小林はこれを中断し、出版する事も拒みました。自分は無学だったからと言っています(しかし、死後十数年を経て「小林秀雄全集5精神のエネルギー」として特別に刊行されました)。

 2)ベルクソンは、失語症(言葉を忘れてしまう脳疾患)などの脳に障害のある患者(註3)の観察から、「記憶のありかは脳ではない。脳は記憶を引き出す働きを持つだけだ」と結論しました(註4)。

 ベルクソンや小林秀雄は「『あらゆるものはどこかになければいけない』という考えは、現代科学の欠点だ。すなわち、それは唯物論的考えであり、たかだかここ300年か400年来のものだ」と言うのです。唯物思考とはイギリスやドイツで1700年代から始まった産業革命の発展にともなって出てきた考え方で、「モノこそ大切だ」という思想です。マルクスやエンゲルスを経て、現代にも続いています。「現代人は唯物思考の奴隷だ」とも小林は言っています:筆者、註5,6)。さらにベルクソンは「なんでも数字で判断するところ、つまり、99%まちがいでも1%の真実まで否定するという考え方もいけない」と言うのです。統計学的方法の欠点ですね(註7)。それは「まったく予想に反してトランプが大統領になった」現実によく表れています。さらに、「すぐに正しいとか間違っていると区別する考え方も唯物論の弊害だ」と言うのです。

 もちろんベルクソンや小林秀雄は唯物論を基盤とする現代科学技術を否定しているわけではありません。その成果により、人類は月にまで行けるようになったのですから。ただ、「あまりにも唯物論が偏重される世になったのが誤りだ」と言っているのです。今のモノ重視の世界が、もうどうしようもなくなっていることは、心ある人ならだれでも知っていますね。それゆえ、東洋的思考である禅に世界から強い関心が寄せられているのです。

註3 たとえば、病気治療の目的で脳の一部(海馬)を取り除く手術を受けたある青年は、手術以降の生活を記憶する長期記憶を持てなくなってしまった。しかし今の瞬間自分がしていることの短期記憶(筆者註:日常のどんな行動するためにも、一瞬の記憶が連続しなければならない)は異常なかったので日常の生活は支障なくできるが、昨日のことはまったく覚えていないという事態になった。つまり海馬はものごとを記憶するのに関係している組織です。ただ、ベルクソンは「記憶自体は海馬にはない」と言っているのです。

註4 ベルクソンは「運動習慣(たとえば赤ちゃんの時に記憶した「歩き方」)の記憶は脳ではなく体(現在では小脳と脊髄)に蓄えられている」と言っています。

註5 それどころかマルクスと同時代のカント(1724-1804)やヘーゲル(1770-1831)は、「真の実在はモノではなく、私が見た(聞いた・・・)直接経験にこそある」と言っているのです。「あなたが見た(聞いた・・・)経験」は関係ありません。あくまで「私が・・・」です。あまりに唯物思考が「流行った」ため、カントやヘーゲルの思想は忘れ去られたのです。

註6「宇宙は数学という言語で書かれている」と言ったのは近代物理学の創始者ガリレオです(世界の最先端の宇宙物理学者が集まる東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構のホールの柱には、イタリア語でその言葉が書かれています)。ベルクソンが見たらどう思うでしょう。

註7 よく、「唯物論と対比される考え方は観念論だ」と言いますが、それは正しくありません。小林秀雄は、そういうグループ分けをとても嫌います。あくまで「私個人の直接経験が重要だ」と言うのですから。当然ですね。 

3)ベルクソンは「感覚や『私が私であるという意識』の基盤は記憶であり、記憶は脳の中にはない」と言いました(「物質と記憶」岩波文庫)。

 「意識のような人間の精神作用が脳神経の活動で説明できるかどうか」は、昔からの重要な課題でした。「脳神経の働きをどこまでも解析してゆけば精神作用を説明できる」という肯定派と、「できない」という否定派があります。つまり、精神作用は生物学的な脳の働きで説明できるかどうか、です。肯定派は「受胎後、神経回路のネットワークが複雑になって行くとやがて意識が生じる」と言うのです。ベルクソンや小林秀雄はもちろん後者で、「精神作用は霊魂の領域である」と言いました。先日NHKテレビで、「アインシュタインの脳の標本が残されており、それを分析すれば彼の大天才性が説明できる」という人たちの話が放映されていました。筆者は「そんなことは不可能だ」と思います。ベルクソンは「神経活動はオーケストラで言えば指揮者の身振りであり、それを見ることはできるが音楽は聞こえない」と言いました。つまり、「脳神経活動とは記憶を引き出す作用だけだ」と言うのですね。そして「記憶は霊魂にある。霊魂は生まれる前からあり、死後も存続する」とも言いました。以下に「精神のエネルギ-」宇波彰訳(第三文明社レグルス文庫)により、意識や霊魂についてのベルクソンの考えを紹介します。本文は難解なので、和訳の解説という変なことになりますが、()内に示した筆者の解説を合わせてお話します。

 ベルクソンはまず、「自分がそういう考えに至ったのは「常識の直接的で素朴な経験が語る事実そのものに直接に向かう方法に従った」と言っています(要するに実験的方法ではなく、夫が戦死した白日夢を見た妻の経験談を信用する)。ベルクソンはさらに、「経験はわれわれに、魂の生活、あるいは意識の生活が身体の生活と結び付いていて、両者のあいだにつながりがあるということを示している」とも言っています(「意識(魂)は身体の生活とつながっている)。さらに、「脳が心的なものと等価であるとか、脳の中にそれに対応する意識において生ずるすべてを読み取れると主張するのは、この点からはるかにズレる(精神は脳神経活動とは一致しない)」とも言っています。そして、「精神の活動にとっての脳の活動の関係は、交響曲にとってのオ-ケストラの指揮者のタクトの運動の関係だ。脳は意識・感情・思考が現実の生活に向けられているようにし、その結果として、効果的な行動ができるようにしているだけだ(脳神経の活動は指揮者のタクトの動きであり、音楽そのものはそこにはない)と言うのです。そして、「記憶内容は精神の中にあり、意識が死後は消滅すると考えるただ一つの理由は、身体の解体が見られるということであり、この理由は、身体に対しての意識のほとんど全体の独立性が、それもまた確認される一つの事実であるならば、もはや有効ではないからだ(「脳神経活動が精神の基盤である」という説によれば、肉体が死ねば魂も滅びることになるが、魂《意識》は身体から独立しているのだから、身体が滅んでも魂は滅びない)」と言うのですね。

 長々とベルクソンの哲学的表現にお付き合いいただきましたが、ベルクソンの言いたいことはおわかりいただけたのではないでしょうか。

4)霊魂 ベルクソンや小林秀雄のような偉大な思想家が霊魂の存在を肯定したことは世界の思想史にとってとても重要です。ベルクソンは、「私」という意識(記憶)のありかは脳にはなく、「霊魂」にあると考えました。生まれる前からあり、死んでからも失われないと言われるものですね。筆者にはベルクソンが晩年、心霊学に興味をもつようになったのはよくわかります(註8)。
 「霊魂(魂)」とは、生まれる前からあり、死後も無くならない「自分そのもの」と言ってもいいと思います。霊魂の存在は「生まれ変わり現象」によっても支持され、それらの研究は欧米では正当な科学の一分野として認められています。筆者は、「わたしが私である意識」や「こころ」の中には、筆者の言う「本当の我(霊魂ですね)」を通じて神につながる記憶も含まれていると考えます。私達がふだん感じている意識に見え隠れしている記憶のことです。作家の田辺聖子さんは、筆がなかなかすすまず苦しんでい識として現われるようなのです(この問題についてはすでに当ブログシリーズでお話しました)。る時、突然先が見えてくることがあり、「神様が下りて来はった」と表現しています。

 小林秀雄がなぜベルクソンの研究を止めてしまったのかは、誰にもわかりません。前回お話したように、小林は若い時からベルクソンについて強い関心を持ち、雑誌「新潮」に10年にわたって「ベルクソン論」を書いた人です。小林自身はベルクソン研究を止めてしまった理由は「無学だったからだ」と言っています。小林が無学だったなどと思う人はいません。その努力は心血を注いだものだったと、周囲が伝えています。筆者の憶測として、小林さんはベルクソンを知る上で不可欠な霊的体験を持てなかったからではないかと思っています。実体験なくして霊魂について語ることはできません。小林さんの著作を読みますと、「霊的現象のようなもの」を体験したと書かれています。しかし、とても霊的体験とは言えません。小林はベルクソンが紹介した心霊体験のケースや、あの柳田国男が直接体験したの心霊体験を引用しているのみです。そこが残念だったのではないでしょうか(いずれのケースも十分信用できますが、一次資料とするかどうかについては意見が分かれるでしょう。柳田国男の霊的体験については、以前ご紹介しました)。ちなみにベルクソンも「自分には霊的体験はない」と言っています。

 これに対し筆者は、何度も心霊体験をしました。その一つは、ある霊能者が、まったく予備知識を与えていないのに、筆者が見せた家系図の上に家内の先祖が「(後継ぎがいなくなると心配して)わらわらと出ている」との指摘を目の当たりにした体験があります。当時筆者は心霊現象にはまったく興味を持っていませんでしたが、この指摘を信頼し、その後息子の一人を家内の実家の跡継ぎにしました。つまり霊魂の存在をありありと体験して真実だと認め、その結果に則って実践したのです。

 筆者は当時、生命科学の研究をしておりました。言うまでもなく、その研究方法は唯物論的手法です。しかし、一方で霊魂の存在を実感したのです。そしてその後、「生命は神によって造られた」と確信しました。筆者が行って来た生命科学についての研究は、あくまで「唯物科学の範囲内で」行って来たものです。生命科学と霊魂の世界とは、筆者にとってなんら矛盾しません。それを体験した今は、もう少し深く生命について考えられるように思います。最先端の科学者が敬虔なキリスト教の信者であることはごく普通です。「神の恩寵に応えるため研究をしている」と明言する人も多いのです。

註8 ベルクソンは後年ロンドン心霊学会で招待講演をしました。当会には、イギリス首相、ノーベル物理学賞や生理学賞などの受賞者やコナンドイルなどの小説家や哲学者など、そうそうたる知識人が参加していました。人間思想の新しいパラダイムだと考えたのです。ただベルクソン自身には霊的体験はないと告白しています。これはベルクソンの心霊科学研究にとって重大な問題点でしょう。

 ちなみに清水誠の「ベルクソンの霊魂論」には霊魂のことは書いてありません。清水は「まえがき」の中で、・・・本書に「霊魂論」という挑発的な題名を付けた理由は、近代科学の基礎である哲学的意識概念について、全体にかかわる洗い直しが必要であると信じるからである・・・と言っています。

5)筆者の感想 しかし、ベルクソンや小林秀雄の思想の基本である「記憶は脳にはない」は少し修正されなければなりません。現代では少なくとも記憶の一部は脳の海馬に保存されていることがわかってきたからです。なわち、長期増強という現象です。たとえば、円形の水槽に濁った水を入れ、ねずみを泳がせます。じつは水面下の一か所に台が隠れており、ねずみは何度も泳がされている間に学習し、だんだん短い時間でその台に達して休むようになります。そして、その学習効果は長く保持されます。さらにこのねずみの脳の海馬組織を取り出して、ある場所に弱い電流を通して、別の個所で測定します。すると学習したラットの海馬では、電流の流れが大きくなっていました。つまり、神経伝達効率が増大していたのです。人間の記憶は、その人の成長過程で学習した内容が、該当する神経系の伝達効率の増強という形で脳に蓄えられて行ったと考えられます。

 記憶の本体については、長い研究史があり、新しい核酸が合成されるという仮説も出されました。しかし、結局は特定の神経系の伝達効率が増強されるというこの長期増強説が重視されるようになったのです。この知見はもちろんベルクソンの時代よりずっと後に得られたものです。筆者は神経科学の研究に携わっていましたから、現役時代、この輝かしい長期増強の研究が進められるのを興味を持ってながめていました。それゆえ、ベルクソンの思想を読んでいてすぐに「?」と思ったのです。
 つまり、脳科学の新しい研究成果「脳は少なくとも記憶の一部を蓄えることができる」により、ベルクソンの思想の重要なテーマ「イマージュ(知覚)」や「私が私であるという意識」の基盤である記憶現象の考え方を修正する必要があると思えます。もちろん、これらの研究成果によって、ベルクソンのもう一つの課題である、生まれる前からあり、たしかに死後も続くと考えられている「魂」の問題まで否定されてしまったわけではありません。

 近年、ベルクソン生誕150年の催しがパリでありました。現代でもベルクソンの考えにいうて解説する人はたくさんいます(たとえば弁護士の野口幹夫さんは10年にわたってベルクソン哲学を現代の脳科学の知見を参照しつつ、紹介していらっしゃいます。ネットで拝見できますが、とても真摯な勉強家との印象を受けます:筆者)。

筆者の考え:
  意識の一部は霊魂の中に保存されていると思います。「前世の記憶」がその好例です。そして優れた研究者や芸術家の「ひらめき」は、「本当の我(霊魂)」を通じて顕在意識に現れた神の真理だと思っています。それらについてはすでに以前のブログでお話しました。もしさまざまな精神疾患の原因として前世でのトラウマがあるとすれば、それを突き止める以外には治療法はないはずです。とくにアメリカではそれらの問題は真面目な心理学の一分野として承認されています。筆者は数々の心霊体験から、霊魂の存在を信じています。一方、「科学的に証明されていないことは信じない」と言う人がよくあります。しかし、それは科学というものをよく知らない人の批判です。科学者はもっと柔軟な考えを持っており、事実を何よりも尊びます。生命科学の研究を40年続けた筆者がそう思うのです。

 以前、よくテレビ番組で超常現象容認派と否定派の論争番組がありました。反対派に早稲田大学元教授と、某俳優(お二人ともお名前は忘れました)が常連だった印象があります。それらの番組はまったく実りのない議論に終始していました。筆者は反対派の人たちと議論する気はありません。さらに、「霊魂は存在する」と声高にアッピールする気もありません。淡々と実体験をお話しているだけです。ベルクソンや小林秀雄もきっと批判など相手にしなかったでしょう。いつも「私はこう思います。参考にできるところがありましたら参考にして下さい」と言っていました。そのとおりでしょう。
このホームページは「禅塾」ですが、禅を語るのに霊魂の問題は決して避けては通れないと思ってさまざまに論述しています。
次回はまた禅のお話に戻ります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です