陶芸と禅


陶芸と禅

 これまで茶の湯と禅、能楽と禅についてお話しました。それならば絵画や焼き物や生け花と禅についても触れないわけにはいけません。まずお断りして置かねばならないことは、筆者は学術的にこれらについてお話しするだけの素養がないことです。単なる個人的な印象とお考え下さい。

 まず、絵画には禅画というものがあります。たとえば仙厓和尚の、裸の太ったお坊さんが天を指さして、「を月さん幾つ。十三七つ」と言っている絵とか、墨で太ぶとと達磨大師が描いてあるものなどです。禅画とは、そのまま禅の教えを表わしているもので、芸術とは言い難いものですから、今回のお話の対象からは外します。ここでお話しする絵画としては、雪舟(1420‐1506?)の「秋冬山水図」や「天の橋立図」が有名です。平安時代後期の「源氏物語絵詞」や、「信貴山縁起絵巻」、さらには各種の合戦絵詞、あるいは江戸時代後期の浮世絵などとはずいぶん趣が違います。雪舟の絵はほとんど墨一色で描かれています。中国の山水画の影響を受けているとは言え、雪舟の画風はやはり日本絵画史上特異な位置にありますね。

 焼き物については、志野茶碗や織部などは、後代の染付け、古九谷や色鍋島、さらには柿右衛門とはかけ離れています。筆者は染付や鍋島の作品群も好きですが、やはり心に染みるのは志野や織部です。以前のブログで、昨年織部茶碗と皿を作ったとお話しましたが、もちろん素人の手すさびです。ただ、実際に作ってみますと織部の心の一端を垣間見ることができたように思います。わが国の染付は中国明代や清代の染付の影響を受けていると思いますが、あの鮮やかさに感動します。一方、志野や織部はこれらとはまったく異なる日本独自のものですね。能楽の観阿弥は道元の死から80年後に生まれた人(1333‐1384)、志野茶碗「卯花墻」は1570-1600年頃、本阿弥光悦(1568‐1637)の「不二山」とほとんど同時代に作られました。筆者は三井記念館所蔵の志野茶碗「卯花墻」を実見し、感動しました。やはり日本陶磁器史上特別なものですね。

 京都五山  鎌倉幕府の五代時頼が禅宗を信仰し、道元を招いて教えを聞いたことはよく知られています。室町時代になると、尊氏、義満、義政なども禅を重んじたため、足利幕府の宗教的側面となりました。そのため夢想疎石が中心になって、天龍寺や相国寺などの京都五山が特別視されるようになりました。つまり、室町時代は禅宗が盛んになったのです。茶の湯、能楽、生け花などが禅の影響を受けたのも時代の流れでしょう。その最後の輝きが志野や織部などの陶芸と言っていいのかもしれません。

 事情は江戸時代に入るとガラリと変わりました。初期から中期にかけて古伊万里色絵磁器などがオランダ東インド会社を通じて盛んにヨーロッパへ渡り、今でも豪壮な貴族の館には、日本にあれば国宝・重文級の名品が並んでいます。ただ、それらは中国の染付のように華やかなものばかりで、日本人の感性にはやや違和感があります。

 なぜ日本人の感性がこのような歴史的な変遷をたどったのかはとても興味ある問題ですね。単純に言えば、気持ちが外に向かった時に華やかなものが好まれ、内に向かった時、禅と関連した芸術が好まれたのでしょう。現代世界の各地で起こっている紛争や、明らかな資本主義の行き詰りの時代、各国の人びとの心が禅へと向いているのは当然でしょう。

補記:焼き物と言えば、先年、テレビ東京の「開運なんでも鑑定団」で、中島誠之助氏が「これこそ新発見の第四番目の窯変天目茶碗です」と鑑定したのを、親子二代にわたって窯変天目を作り続けていらっしゃる長江惣吉さんが疑問を呈されて話題になりました。その後中島氏は一切口をつぐみ、テレビ東京側は「これは私たち独自の鑑定です」と言い、まだ決着していないようですね。筆者はあの時のテレビ放映を見ていましたが、一目見て「こんなものは窯変天目ではない」と確信しました。模様もはっきりせず、器の肌も濁った、「似ても似つかぬものだ」と思います。「遠くから見てもわかります」が中島氏の口癖ですが、一体どうしたのでしょう。 

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