日本仏教のいい加減さ(2-1,2)

日本仏教のいい加減さ(2-1)

 前回、日本仏教のスクラップビルドの必要性について述べました。今回はその理由の一つをお話します。

 以前、NHKテレビ「歴史ヒストリア」で日本人の信仰のアバウトさについて放映していました。以前、筆者も「釈迦も驚く神仏習合」と題するブログを書きました。今回はその続編です。結論から言いますと、筆者は日本人の信仰に対するあまりのいい加減さに唖然としました。

 神仏習合思想がなぜ生まれたかについて、「歴史ヒストリア」では、百済から538年(552年とも)に仏教が伝来されると、それまで神を部族の守り神としてきた豪族たちが、「我らも仏教を」と取り入れたと言います。その部族の宗教は、政治との絡みでとても重要だからです(次回くわしくお話します)。番組では、神道と新興の仏教とを結び付けた「屁理屈」は、聖武天皇が完成した大仏に塗る金を手に入れるため、中国へ使者を派遣する途中、宇佐八幡宮(大分)の巫女に神が乗り移り、「我は仏教に帰依したい」と言ったからだとか。

 本地垂迹説とは、仏・菩薩(本地:筆者。註1次回末尾)が、衆生を救済するため、神の姿をとって現れた、とする考えです。もともと仏教がインドから中国→朝鮮→日本へと伝わるに際して、元からあった土着の神(失礼な言い方ですが)と折り合いをつけるのは自然のなりゆきでしょう。しかし、水と油を一緒にするようなものですから、どうしても何らかの合理化する理屈が必要でしょう。日本では現在までに、1)神社の中にお寺が付属する形(伏見稲荷大社、熊野三山など)2)神社と寺が一体(鎌倉鶴岡八幡宮寺、東大寺と手向山八幡宮など)、3)寺の中に神社がある(成田山新勝寺、川崎大師、薬師寺の守り神は休ケ丘八幡宮。御神体は僧形八幡神など)等々、さまざまな折衷案が実践されました。なかでも奇異なのは、滋賀県日吉大社の社殿の床下に薬師如来を祀る下殿があり、かって仏教的な儀式が行われていたこと。熊野三山はそれぞれ極楽浄土であるとされること、その神宮寺青岸渡寺の副住職は山伏(神道)という奇妙さ。一方、春日大社の本地は興福寺南円堂に鎮座する不空検索観音であり、現在でも毎朝僧侶たちが南円堂に行って礼拝し、くるりと後ろを向いて春日大社に向かって柏手を打つ習慣があることなどです。さらに春日大社本殿の裏回廊では、四六時中僧侶が読経していたと言い、いまでもその施設が残っています。さらに現在でも、比叡山の天台座主が日吉神社を参拝する儀式があります。またぞろ神仏習合は復活し始めているのでしょうか。

 密教では大日如来を最高の仏(概念としては宇宙の最高神)としていますし、筆者が以前お話したように、道元が「正法眼蔵」で「仏」と呼んでいるのは最高神を表わしています。しかし、神仏習合思想はこれらとはまったく異質の、「木に竹を継いだような」思想です。他人の信仰に対して口を挟む気はありませんが、話もここまで来ますと、いくらなんでも日本人の信仰のいい加減さに、実際にテレビを視聴していて気分が悪くなりました。アナウンサーの井上あさひさんも苦笑していました。

 明治維新政府が成立早々、神仏分離令を出した理由は、天皇を現人神とする国家神道(前述のように、政治と宗教は不可分の関係にあります)を打ち立てるためだったことはよく知られています。しかし筆者はそれだけではないような気もするのです。すなわち、明治維新を断行した若者たちの純粋さが、このような「いいかげんさ」を嫌ったのではないでしょうか。言うまでもなく、信仰とは限りなく純粋であるべきです。

日本仏教のいい加減さ(2-2)

 古来、宗教は政治と不可分の関係にありました。前回、古代日本の豪族たちが新しく入って来た仏教とどう折り合いをつけるか(取り込むか)は重要な問題であり、その一つの形態が神仏習合だったとお話しました。私たちが日本歴史を学んだ時、聖武天皇が巨大な大仏を造営し、全国に国分寺を作ったこと、唐から鑑真和上を招き、なんども難船しながら日本に至り、聖武天皇から僧侶まで多数の人に菩薩戒を授けた・・・。などという歴史上の出来事が感動を以て伝えられていますね。 

 しかし、これらの「感動的物語」には裏があることも忘れてはいけません。それらにはすべて天皇の重大な政治的配慮があったのです。まず、仏教が伝来した時、欽明天皇らがそれを受け入れたのは、当時無視することができないほど強大化していた豪族の力を削ぐためなのです。すなわち、豪族が守り神としていた「神」よりもっとすごい信仰対象があることを示したかったからです。人びとの思いがそちらへ向いて豪族支配に疑問を感じるようになったのは自然のなりゆきでしょう。さらに、わざわざ唐から鑑真和上を招いたのは、当時、強大な勢力を持ち、政治にまで口を出すようになっていた奈良仏教七大寺の力を削ぐため、「お前たちが受けてきた菩薩戒など無効だ。鑑真和上の菩薩戒を受けなければ僧侶として認めない」と言いたかったのです。南都七大寺側があわてたのは当然でしょう。しかし、鑑真和上が亡くなったあと、その弟子たちの勢力が急速に衰えました。旧勢力の巻き返しにあったからです。さらに、桓武天皇が都を奈良から京都に移したのも、奈良仏教の力を「チャラ」にしたかったのです。ことほどさように、大仏開眼や鑑真の渡来など、裏を返せばそれほど感動的なできごとではないのです。

 江戸時代には「寺受け制度」のもと、すべての人びとはいずれかの仏教寺院の信徒となることが義務付けられました。寺が幕府の権力機構に組み入れられたのです。寺は経済的に保証され、権力さえ持つようになりました。明治維新政府はその政策上、天皇を中心とする国家神道を復活しました・・・。これでお判りでしょう。日本の宗教は常に政治の道具に過ぎず、人々の心の支えとはほど遠い存在だったのです。

 東日本大震災のとき、被災の人々にとって日本仏教が無力であることを露呈しました。今、筆者がお話した理由から当然でしょう。今、私たちは仏教のほんとうの価値を知らなければなりません。そのためにはまず、これまでの日本仏教の「洗濯」が必要だと筆者は考えます。

註1 如来と菩薩 如来には阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、薬師如来があり、菩薩には弥勒菩薩とか地蔵菩薩などがよく知られています。それぞれ立派な仏像が作られ、日本各地の寺院の本尊として祀られています。私たちもお寺へ行って、ごく素直に礼拝しますね。しかし、釈迦の教えにはそんなものはないのです。第一、釈迦は自分の姿さえ像とすることを禁じたのです。ましてや弟子たちの偶像を作り、礼拝の対象とすることなど許すはずがありません。これらはすべて後期仏教、ことに大乗仏教で創作されたのです。ちなみに如来とは大宇宙の真理を悟った、菩薩とは悟りを求めるのことです。つまり、本来の意味ですら、尊敬すべき人たちであり、偶像とは関係がなかったのです。これらのことからも仏教のいい加減さがわかりますね。釈迦が説いたのは、あくまでも人間としての正しい生き方なのです。仏像を拝んでご利益を得たいという現代日本人の信仰を知れば嘆かれるでしょう。

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