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東日本大震災と僧侶の活動(2,3)

東日本大震災と僧侶の活動(2)

 以前、東日本大震災後の被災者の心のケアに挫折した誠実な僧侶についてお話しました。あの人たちは、奈良の有名寺院のエリート僧でした。今回は、被災地そのものの僧侶たちのその後についてご紹介します。

 先日の「NHK特集こころの時代」で、東日本大震災の現地の僧侶3人の、この5年間の活動を放映していました。一人(51歳)は釜石市の高台にある自分の寺から、すさまじい津波の威力を目にしていた人です。流されて助けを求める人たちに何もしてあげられなかった・・・。「遺族に『神も仏もあるものか』と言われて、そのとおりだ思いました」・・・。言いも言ったり、ですね。言霊(ことだま)と言う言葉があります。その一言で、僧侶としての根本がくずれてしまいました。あとで長女にたしなめられていましたが、それで済む話ではありません。残った寺を被災者(多い時には700人)に開放したのは当然でしょう。町は全滅したのですから。蓄えてあった米を提供したのは評価されるでしょう。しかしそれが何十俵もあったとは思えませんが。その後、地域の人の事業の再開の背中を押したり、避難住宅を訪ねて話を聞いたりしていると言っていました。

 もう一人(43歳)は、被災者たちの心のケアになすすべもない自分を知り、「プロとして、宗教家として僧侶として、和尚としていろいろな意味で眼が覚めた」と言っていました。この人も「言いも言ったり」です。その後、1000人を越す地域の死者一人ひとりの経歴や遺族の思い出をまとめた冊子を作る取り組みをしているそうです。評価されることですね。

 もう一人のケースは、福島第一原発の近く、最近ようやく避難解除準備地区に指定された地域にある寺の住職(41歳)です。家族は、事故後3日目に福井県へ避難させ、自身は車で2時間かかる仮住まいから毎日「通勤」しているとか。17もの府県に分かれて避難してしまった檀徒の法事のため、できるだけ訪れており、そのための車の月間走行距離は2000キロにも及ぶと。さらに、最近は、月に2回、「寺の掃除デー」を発案し、バラバラになった檀徒たちが集まって旧交を温める機会を作ったそうです。それはそれで有意義な取り組みでしょう。しかしそれを見ていて、崩壊しそうになっている信者組織をつなぎ留めるための取り組みのような気もしました。

 今度の大震災で津波や火災によって失われた寺も少なくないと言います。それも含めて、檀徒がこんなに広範囲に分散してしまった現在、寺の経済そのものも危機的状況にあると思われます。
葬式など法事からの収入も激減したでしょう。これらの僧侶たちが集まって「被災地仏教会」を立ち上げたそうです。そこでの話を聞いていますと、住民のケアの問題はもちろんですが、自分たちの寺の経営再建問題のようにも聞こえました。それはそれで当然でしょうが。

 それにしても、「神も仏もあるものか」との、僧侶としての資質を疑われるような言葉を吐いた人や、「プロとして、宗教家として僧侶として、今まで何をしてきたのか、気付かされました」とかっこつけて言った人など、今までの僧侶としての活動がまさに「葬式仏教」だけであったことを露呈してしまいました。いま各地で葬儀は家族葬でこぢんまりとやる家が増えています。ネット僧侶派遣事業が増えていることは、檀家制度が急速に滅んで行く一因となるでしょう。

 筆者は以前、日本の仏教は形骸化したとお話しました。こんな状態になってしまった日本仏教に、いざと言う時、人々へ仏教の心を伝えることなど到底できないでしょう。浄土の教えはすばらしいのですが。

 前回お話した「NHK特集こころの時代」で紹介された東日本大震災を経験した僧侶の話は、NHK「こころの時代 苦とともにありて。挑む僧侶- 被災地に希望を」で改めて紹介されました。前回報道された3人の僧のうち、「神も仏もあるものか」と言った僧は、第2回目には省略されていました。さすがにNHKも再録するのを憚られたのでしょう。その代わりに別の僧、Kさんの体験と考えが紹介されていました。Kさんは副住職として父親を助ける一方、近くの市で長く環境対策課の課長だったそうです。そして震災後つぎつぎに仮安置所に運び込まれて来る遺体の付き添いを買って出たとか(最終的に運び込まれたのは1000体近くになりました)。それは僧侶でもあるKさんなら当然の行動でしょう。

 Kさんは後に名取市としての慰霊祭を行うことを進言し、実行されました。「葬儀は亡くなった人のためばかりでなく、残った遺族の心を癒すための意味がある。1回ごとに一皮ずつ苦しみが取り除かれて行く」筆者はそうとは思えません、突然大切な人を失った家族のほんどが「5年過ぎようがが悲しみが消えることはない」と言っています。そのとおりでしょう。ましてや葬式や年忌という儀式にどれだけの力があるのか、きわめて疑問です。もっと驚いたのはKさんの「葬式仏教のどこが悪いのか」の発言です。Kさんは葬式仏教の意味を取り違えているのです。葬式仏教と言う言葉は僧侶にとってまことに耳の痛いものでしょう。だからといってここを先途と手前味噌の発言をしてどうするのでしょうか。人々が日本の仏教を葬式仏教と言って批判するのは、「葬式しかしない仏教」だからです。この番組では、Kさんの言葉がかなり多くの部分を占めていました。筆者のこの感想に、Kさんは「講演もしている」と反論するでしょう。その講演の一部も紹介されていました。しかし、番組や講演全体を通じて筆者の琴線に触れるKさんの言葉は一つもありませんでした。たまたま同じ番組を見ていた友人も、同様の感想でした。

 Kさんは早期退職し、お寺の隣に開設した保育園の園長として専念しているそうです。番組では「大きな被害を受けたふるさとの未来を担う命を大切にして行くため」と言っていました。しかし、筆者はそれを素直には受け取れません。寺が副業として幼稚園を経営するのはよくあることです。筆者の近所にもいくつもあります。けっしてそれを否定しません。しかし、大震災の「苦と共にあったから」ではないでしょう。彼らの生活のためです。
 要するにこの番組は、「震災から立ち上がる僧侶」という「最初から結論ありき」の番組だったと思います。前回お話した、あとの二人の僧侶(誠実そうな人だったですが)の活動も、地域住民の力になるというより、「バラバラになった檀家をいかにつなぎとめるか」だったと思われてなりません。
 

禅の公案(3)

禅の公案(3)

道元は「正法眼蔵・現成公案編」の中で「観て初めて現れる」をわかりやすい例で説明しています。

・・・麻谷山宝徹禅師、あふぎ(扇)をつかふ。ちなみに僧きたりてとふ(問う)、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚扇をつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。僧いはく、いかならんかこれ風性常住無処不周底の道理。ときに師扇をつかうのみなり。僧礼拝す。 仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なれば扇をつかうべからず、つかはぬおりも風をきくべきというは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり・・・

字句通りに訳せば、

 ・・・麻谷山宝徹禅師が扇を使っていた。そこへ僧侶がやってきて尋ねた。「空気はどこにでも存在し、空気の存在しない場所はないというのが空気の性質とされております。しかるにどのような理由から和尚はことさらに扇を使われるのですか」と。禅師が言う「お前はただ空気が何処にでも存在することは知ってはいるが、空気が存在しない場所はないという理論をまだ知らない」。僧は言う「どのようなことが空気の存在しない場所はないという意味ですか」。これに対し禅師は扇を使うばかりであった・・・

ですね。次は著名なN師の解説です。

N師の解説:すなわち、麻谷山宝徹禅師は空気の存在しない場所はないという理論は、扇を使って初めて現実のものになるということを、無言のまま扇を使うという行為によって直接に教示した。仏教的宇宙秩序の体験、正しい伝承による活動の現実は、元来このようなものである。空気には何処にでも存在する性質があるのだから、扇を使うのは不合理であるとか、扇を使わない場合でも風を感ずるべきだとかいうのは、何処にでも存在するということについても理解せず、空気の性質についても理解してないのである。空気は何処にでも存在するという性質であるのと同じく、宇宙秩序も何処にでも存在するものであるから、仏教徒が宇宙秩序(比喩的に風という)を実践することにより・・・

たぶんN師は「仏教の教えは頭で理解するのではなく、実践してこそ意味がある」と理解したのでしょう。次の筆者の解釈と比較してください。

 ・・・釈迦が説き、覚者達によって正しく伝えられてきた仏法とは、この例のように、モノゴトをモノゴトとして体験して初めて真の実在として現れるという教えです。「空気はいつでも何処にでもあるから扇を使わなくてもよい」ではなく、体験して初めて風は現実として現れるのです・・・

 いかがでしょうか。つまり宝徹禅師は修行僧に「空(くう)」の理論を「やって見せている」のです。なんといってもこの一節は「現成公案編」にあるのですから。前にもお話しましたが、「現成公案」とは、「すべてのモノはそれぞれあるべきようにある(公案)。しかし(見て、聞いて、さわって・・・)初めて現れる(現成)」と解釈すべきでしょう。西嶋師の解釈は常識的で、禅の公案としては成り立たないように思われます。

神の存在を信じますか?

「禅の目的は神と通じる本当の我と一体化することだ」とお話しました。筆者がさまざまな角度から禅というものを考えてきた、ごく自然な結論です。神というファクターを入れないと禅のほんとうのところは理解できないと思うのです(神をファクターと申し上げるのは恐れ多いのですが)。しかし、筆者の知る限り、これまでそのことを指摘した禅師はいません。むしろそれが不思議です。

 「神様がいらっしゃるのなら、その証拠を見せてください。見せていただいたら信仰に入ります」・・・と言う人は仏教やキリスト教に限らず、よくいます。暁烏敏師(1877-1954)は「『神(如来)の存在を証明してくれたら信仰に入ります』と言う人が多い」と嘆いていました。暁烏師は他力本願思想である浄土真宗の幹部だった人です。

 暁烏師の師匠、清沢満之師(1863-1903)は浄土真宗大谷派のエリートで、明治の浄土真宗の危機を立て直す期待を背負って、東京大学に派遣された人です。著書「我が信念」の中で、
 ・・・私の信念とはどんなことであるか、如来(=神:筆者)を信ずることである。私の云う所の如来とはどんなものであるか、私の信ずる所の本体である・・・
と言っています。論理になっていませんね。たいていの人は戸惑うでしょうが、筆者にはよくわかります。「絶対他力」を旨とする宗派ですから、清沢の信念は当然でしょう。

 「神様がいらっしゃる証拠を見せてくれたら信仰に入ります」と言うくらいなら信仰など考えない方がマシです。筆者も「神の証拠を見せてください」と言われたことがあります。「別にあなたに信仰を勧めてはいません」・・・とは言いませんでしたが・・・。また「神様とはどういう存在か」と問うのも止めた方がいいでしょう。「神とはいかなる定義付けもできない存在だ」と言う人がいます。そのとおりだと思います。キリスト教には「叩けよ。さらば開かれん」という有名な言葉があります。逆説的な表現ですが筆者にはよくわかります。

 筆者はもちろん、神がいらっしゃることを信じています。40年にわたり、生命科学の研究者として生きてきました。あるときフト、「生命は神によって造られたのだ」と気が付きました。たとえば、生命の本体と言ってもいいDNAは、わずか4つの塩基の組み合わせで出来ています。きわめてシンプルな要素だけで、無限とも言うべき生命ができているのです。よく言われる「生命は偶然の結果生じた」などとはとうてい思えません。
よく、霊の存在などの神秘現象について「科学的に証明されていないことは信じない」と言う人がいますね。微苦笑を禁じ得ません。科学の研究に携わってきた筆者は、科学的に証明されていない真実などいくらでもあることを知っているからです。

註1 宇宙自体が神の創造物だとしか考えられないのです。「ある時、ある場所でビッグバンが起こった」と言われていますね。しかし、考えてみてください。そこには時間も場所もなかったのです。「時も、場所もないところであることが起きる」なんて考えられないのです。いかなる宇宙物理学者もその理由を言っていません。ビッグバン以降のことなら今ではかなり詳しく明らかにされていますが。

臨済録(1,2)

臨済録(1)
 臨済義玄(?-867唐、臨済宗の宗祖)の言葉を集めたものです。その第3番目が、

上堂。云く、赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に僧あり、出て問う、如何なるか是れ無位の真人。師禅床を下がって把住して云く、道(い)え道え。その僧擬議す。師托開して、無位の真人是れ什麼(なん)の乾屎ケツ(かんしけつ)ぞ、と云って便(すなわ)ち方丈に帰る。

試しにネットで検索してみますと、
1)赤肉団はお互いの肉体のことだ。切れば血の出る、このクソ袋のことだ。朝から晩までブラ下げておるこのクソ袋の中に、一無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。一人ずつおるのじゃ(中略)。修行したこともなければ、修行する必要もない真人がおる(中略)。社長でもなければ社員でもない。男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。金持ちでもなければ貧乏でもない(中略)世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。主人公というものがある。仏性というものがある。正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある(中略)金持ちの家に生まれたのもおれば貧乏な家に生まれたのもおる。学校を出たとか出んとか、この肉体の中にそういうことを一切離れた、無修無証、修行することもいらんが、悟りを開くこともいらん、生まれたまま、そのままで結構じゃという 立派な主体性があるのじゃ(臨黄ネット《臨済宗黄檗宗公式ホームページ:山田無文「臨済録」(禅文化研究所)を引用》)。

2)臨済禅師の教えも、その生きた人間とは何であるかをはっきり自覚し、そこから世の中を正しく見ていこうという点から出発しています。人間は自分を見つめるとき、初めは実体的な自己の存在に何の疑いも持ちません。しかし、さまざまな問題に悩み、壁にぶつかって、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。そこで、本当の自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました。
「無位」とは、一切の立場や名誉・位をすっかり取り払い.何ものにもとらわれないということです。「真人」とは、疑いもない真実の自己、すなわち真実の人間性のことで、誰でもが持っているものである。この真人は、単に肉体に宿るだけでなく、人間の五官を通して自由自在に出入りしています。未だこの「一無位の真人」を自覚していない者は、ハッキリと見つけなさい(名古屋市白林寺HP)。

3) 「師は上堂して言った、『心臓(本当は脳)には一無位の真人がいて、常にお前たちの面門(感覚器官)より出入している。未だこれを見届けていない者は、サア見よ!見よ!』。その時に1人の僧が進み出て質問した、『その無位の真人とはいったい何者ですか?』師は席を降りて僧の胸倉を捉まえ『さあ言え!言え!』と迫った。その僧は戸惑ってすぐに答えることができなかった。師は僧を突き放して『お前さんの無位の真人はなんと働きのないカチカチの糞の棒のようなものだな。』と云って方丈に帰った。」 ・・・・・このように考えると臨済の言う「無位の真人」とはいきいきと働く脳を指していることが分かる。「常に汝等諸人の面門より出入す。」ということは 身体と諸感覚器官(目、耳、鼻、舌、皮膚、脳)より出入する脳情報と運動を直感的に表わしていると言えるだろう。

 いかがでしょうか。「臨済録」のハイライトと考えられるこの部分について、こんなにさまざまな説があるのです。

臨済録(2)本当の我

 前回お話した「臨済録」(1)のつづきです。臨済義玄(?-867唐、臨済宗の宗祖)の語録ですね。「臨済録」のエッセンスは、
上堂。云く、赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に僧あり、出て問う、如何なるか是れ無位の真人。師禅床を下がって把住して云く、道(い)え道え。
と言っていいと思います。「臨済録」(1)では、ネットで調べた3つの解釈をご紹介しました。

 まず、その3)にあるような「生きいきと働いている脳」ではないと思います。

その1)の内山興正師は、あの澤木興道師のお弟子さんです。内山師は、
 ・・・ 社長でもなければ社員でもない。男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。金持ちでもなければ貧乏でもない(中略)世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。主人公というものがある。仏性というものがある。正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある(中略)修行することもいらんが、悟りを開くこともいらん、生まれたまま、そのままで結構じゃという立派な主体性があるのじゃ・・・
いろいろ書かれていてちょっとわかりにくいですが、要するに人間には霊性とか仏性という性質があると言っておられるのでしょう。

その2)では、
 ・・・さまざまな問題に悩み、壁にぶつかって、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。そこで、本当の自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました・・・
とあります。つまり「あるべき人間の姿」という抽象概念を指していると思われます。

 これに対し、筆者は無位の真人とは肉体の中にある、神につながる本当の我だと解釈しています。筆者が本当の我の存在に気が付いたのは長い研究生活の過程でです。いろいろ考えていますと、ある時「フッ」と良いアイデアが浮かぶことがあります。あとで考えて「どうしてあの時あんな考えが浮かんだのだろう」と不思議に思うほどです。後で考えますと、あのとき筆者の意識が本当の我と通じたのだと思います。作家の田辺聖子さんは、小説を考えて行き詰っている時、とつぜん「フッ」と良い考えが浮かぶことがあり、「神さんが降りて来はった」と表現しています。筆者とおなじ感想なのでしょう。

 一方、神智学によれば、人間の身体は肉体に加えてエーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体・ブッディ体・アートマ体・モナド体のだんだん高次になっていく七層から成っている。そしてブッディ体、アートマ体、モナド体は人間の真我(魂)を形成する質料であり、肉体の内部に眠っている状態で存在すると言われています。筆者にはこの説を知った時、スッと腑に落ちました。筆者の考えていた本当の我と同じものだと受け取れたのです。
 前にもお話しましたように、禅を突き詰めて考えて行くと、必然的に神に行き着くと思います。すなわち、瞑想が深まっていくと、顕在意識と本当の我とのバリアーが無くなって行き、ついには神と通じると思うのです。悟りとはそういうことだと思っています。なぜか同じ考えの人には巡り合ってはいませんが。

常不軽菩薩
 法華経・常不軽菩薩品には常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)が出てきます。だれに対しても手を合わせて「あなたを尊敬します」と言う仏です。「なんだあついは」と気味悪がられ、ときには攻撃されても「あなたを尊敬します」と言うのです。筆者は、この菩薩は、どの人にも内在する本当の我に手を合わせているのだと思っています。そう解釈すると、法華経のこの奇妙な仏のこともスッキリとわかるのです。

臨床宗教師について(1,2)

臨床宗教師について
 今、ニート(引きこもり)、いじめ、登校困難児童が大きな社会問題になっています。さらに自死者は年に3万人にも上っています。これらの現象、つまり心の問題は今後ますます深刻になって行くはずです。その大きな原因が社会の競争化が急速に進んでいるためであることはまちがいないでしょう。競争に付いて行けない人たちが心を病むのですね。その人の価値は別にあるのですが。この意味でも、まさに21世紀は「心の時代」なのです。筆者のこのホームページ・ブログはそのために開設しました。

 あの東北大震災で親子、兄弟を亡くした人たちの心のケアがクローズアップされました。あのとき、わが国のたくさんの僧たちが、現地に行き、遺族たちの傾聴を行いました。しかし、そのほとんどは挫折したのです。NHKテレビで、それまで年に200回以上も講演をしていた有名寺院のエリート僧が、東北での活動に失敗し、自分の無力さを涙ながらに語っていたのが印象的でした。その僧たちの「色即是空」の解釈も間違えていました。結局、「般若心経」の写経会をしたり、お墓参りくらいしかすることがなかったそうです。
 現在日本仏教の先端で活躍している別の僧が、日本の仏教は形骸化し、刷新しなければならないことを、「日本にはたくさんの心の病院、つまり寺があるはずなのに(76,000もあります:筆者)、大衆も寺側もそれらが機能していないことを問題にしていない」と表現していました。筆者も同感です。上で述べたエリート僧の失敗体験は、少しも不思議なことではないのです。

 2012年、東北大学実践宗教学寄付講座として、臨床宗教師研修講座が開設されました。仏教を中心にしていますが、キリスト教や神道とも連携を取りながら、多角的に心のケアをする専門職を養成しようとするものです。それは翌年の東北大震災もあって注目され、龍谷大学や高野山大学、鶴見大学の大学院研究科にも次々に同様の講座が開設されました。心のケアには大震災などの遺族だけでなく、寿命の限られた人達に対する終末期施療も含まれています。限られた範囲ですが、現にそれを実践するビハーラ僧もいらっしゃいます。筆者も臨床宗教師研修制度の動きに注目していますが、不安もあるのです。
 第一は、現在の日本仏教にその力があるかどうかです。その現状は今お話した通りです。上記のさまざまな大学の臨床宗教師研修課程のカリキュラムも見てみましたが、「これで本当に力のある専門職が育てられるのか」と思わざるを得ませんでした。言うまでもなく、仏教を伝えるということは知識の受け売りではありません。仏教の心を伝えるようになるには、懸命に学んでも10年はかかるでしょう。学ぶには修行も不可欠なのです(行学と言います)。修行の大切さは、筆者の経験からもよくわかります。
 第二に、養成された臨床宗教師に対する経済的保障の問題があります。つまり、職業として成り立つのかどうかです。一体だれが金銭的補償をするのでしょう。わが国の病院でビハーラ僧を正式な職員として採用しているところは、あそかビハーラ病院《京都》、長岡西病院などごくわずかです。
 キリスト教には古くからチャプレン制度があります。グリーフケア、すなわち耐え難い苦しみに遭っている人達の心のケアを専門にする人達です。上智大学にはグリーフケア研究所があり、専門職養成講座も開設されています。ただ、キリスト教には伝統的にそういう活動に対するサポートシステムが発達しているのです。キリスト教精神ですね。そこが仏教とはまったく違うのです。つまり、日本で臨床宗教師をどんどん養成しても、職業としての保証がなければどうしようもないのです。

臨床宗教師について(2)その不安

 筆者は、ときどき「臨床宗教師になりたいと思います。研修はどんなものか教えてください」というメールをいただきます。先日、ご返事したものをご紹介しますと、

 ・・・メール拝読しました。臨床宗教師研修は、東北大学、龍谷大学、高野山大学、大谷大学などで開催されています。東北大学だけが年に何回か、いわゆる短期研修の形で行われています。あとの大学では大学院の課程として行われていますので、入学しなければなりません。あなたのご希望によれば東北大学のコースが適当と思われます。全国臨床宗教師協会事務局(連絡先:)へお問い合わせください。そのほかにキリスト教系のグリーフケア(悲嘆)アドバイザー研修制度、および上智大学グリーフケア人材養成講座があります。これらも大学院のコースではありませんので、あなたのご希望に沿うと思われます(連絡先:)
 
 臨床宗教師とは、終末期の患者さんの死の恐怖を軽くするためのカウンセリングです。キリスト教ではチャンプレン、仏教ではビハーラ僧とも呼びます。とても重要な役目で、筆者もますます発展していただきたいと思っています。ただ、筆者には、次の点でまだまだ大きな不安があります。

 第一に「お金はだれが出すか」です。上記のメールの方は現在介護士として働いておられるそうで、臨床宗教師になっても、当然生活が保障されなければならないでしょう。キリスト教系の団体では、古くから信者の金銭的奉仕の精神が広く行き渡っていますから、それによる援助の可能性は高いでしょう。一方、仏教系ではどうでしょうか。筆者の知るかぎり、ビハーラ僧を制度として雇い、給料を出している病院はただ一つです。上記の東北大学の臨床宗教師研修制度の修了生は2016年までに約140名ですが、担当の先生に直接聞いたところ、大部分の人は給料をいただけるような組織には属していないとのことです。つまり、すでにどこかの寺院の住職として生活の保障をされている人以外は、活動するとすればボランテイアとしてなのです。筆者が知っている数少ない終末カウンセリングの成功例は、僧侶として生活の基盤を持っている人と、キリスト教系大学の先生です。
 そもそも、心という重要な問題について、原理的に短期研修では無理ではないでしょうか。たしかに研修が終わった後も何回かフォローアップ研修が行われていますが、それでも、どうしても付け焼刃になってしまうような気がします。

 一方、介護士制度は、ご存知のように、国民が一定額の介護保険料を出し、それに基づく国の正式な制度です。現在、私たちは医療保険とともに介護保険料を払っています。とくに後期高齢者保険料は高額です。関係機関では、将来、臨床宗教師が国の正式な資格となることを目指しているいるとのことです。しかし、それが認められたとしても、国民が「終末期カウンセリング保険」制度まで受け入れるかどうかです。そもそも介護活動は、食事を作ったりや買い物など、一日も欠かすことのできない実務です。それゆえ、国民のだれもが納得しやすいでしょう。一方、終末期カウンセリングは、さまざまな人の心の問題だけなのです。そういういわばソフトのサービスに対して国民は保険料を払わおうとするでしょうか。つまり、はたして制度として納得するかどうかです。 いわんや個人的に謝礼を払える人などごくわずかでしょう

 第二に、講師の側、つまり、今のわが国の仏教僧たちには終末期カウンセリングの実務経験はほとんどないはずです。当ブログシリーズで何度も取り上げてきましたように、その宗教的素養についても不安があります。東日本大震災のあと、わが国の代表的仏教宗派から多くの僧侶が現地に派遣され、遺族の声に耳を傾けよう(傾聴)としました。しかし、「全く無力だった」と涙ながらに挫折を告白していた、見るからに誠実そうな僧侶もいたことを知らねばなりません。仮設住宅の扉に「傾聴お断り」の張り紙をされたところもありました。「ビハーラ僧は病院へ来るな」という声もあるのです。たしかに、葬式のイメージのある僧衣を着て、死の予感におびえる人たちの病棟を歩き回られたら、たまったものではないでしょう。研修を受けて終末期の患者さんのところへ何度か行っても、結局最後まで宗教的なことは何も話せず、ただ、よもやま話だけをして終わった僧侶もいます。

 日本人の大部分は仏教徒ですが、事実上は無宗教であることはよく言われていますね。いったい、いままで無宗教だった人に、はたしてカウンセリングができるのかどうか危ぶまれるのです。上記の東北大学の研修では、仏教の僧侶のみならずキリスト教の神父(牧師)さんや神道の宮司さんも講師となっています。形の上でも仏教徒であった人、キリスト教徒、無宗教の人たちも対象になることを想定しているからでしょう。しかし、多様な終末期患者に対して掛け持ちで(そうしない金銭的な保証が得られない)カウンセリングなどできるのでしょうか。ある終末期の患者さんが「今まで宗教など信じていなかったのに、この期に及んで宗教的カウンセリングを受けるのは・・・」と正直に言っていました。

 もちろん筆者は、これからの臨床宗教師やチャプレンの活躍を心から願っています。そして上で紹介した「臨床宗教師になりたい」と言う人たちに「情報提供などについて、できる限りお役に立ちたい」と返事しました。しかし、ブログを読んでいただいたことが臨床宗教師になりたいとのきっかけになったとすれば、筆者にも責任が生じます。上記の筆者の感想をお考えの上、すでにこれらの研修を修了した人たちの意見も聞いてから参加を決断されることをお勧めします。