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父母未生以前のこと(5)龐(ほう)居士好雪片々

父母未生以前の本来の面目(5)

 碧巌録第四十二則 龐(ほう)居士好雪片々にある公案です
龐居士、薬山惟儼(いげん745-828)を辞す。山(薬山)、十人の禅客に命じて相送って門首に至らしむ。
居士、空中の雪を指して云く、「好雪、片片別処に落ちず」と。
時に全禅客というものあり。云く、「いずれの処にか落在す」
士、打すること一掌す。全云く、「居士また草々なることを得ざれ」。
士云く、「汝恁麼(いんも)に禅客と称せば、閻未だ汝をゆるさざること在らん」
全云く、「居士そもさん」。
士また打すること一掌す。云く、「眼見て盲の如く、口説いて唖の如し」。

筆者訳:龐居士が薬山のもとを辞去した。 薬山は十人の雲水に命じて山門まで送らせた。龐居士は「きれいな雪だなあ。あの雪は一つも別の処へは落ちていないよ」
その時に全と言う名の禅客が尋ねた。「雪はどこに落ちるのですか」
その声の終わらないうちに居士は全禅客をピシリと打った。
全「居士よ。どうしてそんなことをなされるのですか」
龐居士「貴様はそんなざまで禅坊主だなどと言っていると閻魔さまに舌を抜かれるぞ」。 全「では、あなたなら、どう言いますか」
居士はまた全禅客を1つ打って「お前さんの眼は開いているがまるで盲目のようだし、口はしゃべっているが唖のようだな」

 筆者のコメント:1)「新版 禅学大辞典」には、・・・龐居士が「雪よ、別處に落ちず」と言ったのは、雪に託して万法の帰趣(帰趨:筆者)、自己の落処を指し示したのに、これを文字通り雪の落処の問題ととった一禅客の迂愚を叱責した公案・・・とあります。
2)入矢義高監修/古賀英彦編著「禅語辞典」には、・・・みごとな雪だ。ひとひらひとひらが別の所には落ちない・・・ひとひらひとひらがピタリピタリと、落ちるべき位置に落ちることをいう・・・とあります。どちらもピンと来ませんね。ただ筆者は1)の方が好ましく思います。すなわち、
筆者の解釈:「好雪、片片別処に落ちず」とは、一片の雪を指して「天地、さらには宇宙そのものだ」と言っているのだと思います。「父母未生以前の本来の面目」ですね。
 以前にもお話しましたが、筆者は生命科学の研究者として過ごして来ました。あるとき遺伝子の構造を見ていて、ハッと「生命は神が造られた」と思いました。そして「生命どころかこの宇宙も神が造られた」と思っています。ビッグバンで宇宙が始まったことは、今では疑う人はいません。「何もないところ(!)、時間さえないところで「突然」(!)ビッグバンが「起こった」と言うのです。これらの大矛盾を説明できるのは神しかないと筆者は考えます。

父母未生以前のこと(4)国師三喚

父母未生以前のこと(4)「無門関 第十七則 国師三喚の公案

本則:國師三タビ侍者ヲ喚(よ)ぶ。侍者三タビ應ズ。國師云ク、將(まさ)ニ謂(おも)エリ吾レ汝ニ辜負(こぶ)すと、元來却(かえ)って是れ汝(なんじ)吾れに辜負す。
筆者訳:慧忠(えちゅう)国師(註1)が、 三度待者耽源を呼ぶと、 耽源はそのつど「はい」と答えた。 すると国師は言った。「なんだ、今まで私のせいでお前さんが悟れないものとばかり思っていたが、 もともとお前さんの方が私に背いて悟れなかったのか。

解釈について、試しにネットで調べてみますと、
・・・國師さまが、最初に呼んだときの小僧の「ハアイ」という返事は、自分がここに客観的な存在として居りますという意味を持っています。つまり「ここに居ますよ」という返事です。次に呼んだ時の「ハアイ」という返事は、主観的な存在として、呼びに呼応して何か行動に移る姿勢にあるという意味を持っています、つまり「何をしましょうか」という返事のはずです。次の三回目の呼びかけに対する返事は、もう意味がないのです。自分の中には主観的な自分と、客観的な自分の合計二人しかいないからです・・・

とあります。これでは何のことかわからないでしょう。

筆者の解説:遅くとも三度目には耽源は国師の真意を汲み取らなければならなかったのです。「ハイ」と答えたのは肉体の耽源だけではなく「本当の我(真我)」なのです。国師は耽源に父母未生以前の本来の面目を気付かせようと、こんな問いかけをしたのです。悟りとは、神につながる「本当の我(真我)」と疎通・一体化することなのですから。
 では耽源は何と答えたら良かったのでしょう。たとえば筆者なら「私は耽源ではありません」と答えます。

 「無門関」の評者無門慧開は、「国師はしゃべり過ぎだ。あまりに親切だからかえって耽源はわからないのだ」と言っています。その通りかもしれません。禅では答えを教えることは禁じられています。あくまで修行者が自分で気づかなくてはなりません。いかにして上手なヒントを出すかが、師匠の力量なのです。このことがわからなければ禅はわかりません。よく、とんちんかんなやり取りを「禅問答のようだ」と言いますね。しかし、わかる人にはわかるのです。「無門関」「碧巌録」「従容録」などの公案集は、禅史上のすぐれた禅師たちの巧みなヒントを集めたものです。一つの公案についてもさまざまな回答がありうると思います。しかしその多くは誤った解釈なのです。以前お話した村上光照師は「ある時を境にして公案集が全部理解できるようになった」とおっしゃっています。その通りでしょう。

註1南陽慧忠(675‐775)。六祖慧能の法嗣(後継者)。唐の粛宗、代宗各皇帝の参禅の師となり、国師(国の師)と称せられた。

それでもブログを書き続けます

それでもブログを書き続けます

 筆者が禅についてのブログを書いていますのは、1)これまでの近代的モノゴトの見かたとはまったく異なる東洋独自の思想を知りたいこと、2)災害や事故で大切な家族を失った人に少しでも役立ちたいから、の二つの理由からです。

 筆者には1‐2ケ月に1回、飲んで談笑する二人の友人がいます。Bさんは古くからの友人で、それぞれの定年後付き合いを再開しました。Aさんは彼の友人で、数年前から親しくしている人です。しかし、先日の集まりでBさんから「もうここでは仏教の話をしないでくれ。仏教が人を救えるのか」と言われました。一方のAさんは筆者のブログを熱心に読んで下さっている人で、その会合でもつい禅の話になってしまったのです。Bさんにとってはそれが我慢できなかったのでしょう。「仏教の話は二人で別のところでコーヒーでも飲みながらやってくれ」とも。Bさんは大切な友人ですから、もうこの会合で仏教の話はできません。宗教嫌いな人の前で宗教の話をしてはいけないのは当然です。うかつでした。

 「仏教が人を救えるのか」は、たしかに重要な問題です。先年の東日本大震災の時、勢い込んで現地に乗り込んだ、わが国の有名寺院のエリート僧たちの行動がことごとく挫折したことは記憶に新しい事実です。仮設住宅の入り口に「傾聴(僧侶やカウンセラーが悲しみにくれる人たちの心の支えになりたいと訪問して話を聞くこと)お断り」の張り紙もされたところもあります。

 筆者は禅だけでなく、初期仏教、大乗仏教、キリスト教、筆者が経験した神道の修行経験からスピリチュアリズムまで、できるだけ多方面から人間の精神世界についてお話しています。筆者の言葉が、できるだけ多くの人の心の琴線のどこかに触れるのではないかと期待するからです。筆者も宗教がそのまま大衆の心に響くものとは思っていません。Bさんのように拒否する人や無関心の人までいるのも当然でしょう。
 ただ、仏教に対する関心があって、熱心に学んでいけば、きっといくつかの言葉が心のひだの奥底のどこかに刻み込まれ、いつか、何かの時(苦しい時)に「ハッ」と思い当たることもあると思います。たとえば、「神の慰めの書」の訳者相原信作さんは、「エックハルトの言葉『神は私よりも私の近くにいます(註1)』が何十年にもわたって心の支えになっている」と言っています。筆者にもそういう心を慰め、勇気付けてくれる言葉があります。

 禅に対する強い想いを持ち、厳しい修行に明け暮れ、食べ物は托鉢で手に入れて生きる人たちがいます。しかし、食べ物が十分に得られず餓死した修行僧たちもいるのです。昔のことではありません、わずか百年前の、わが国であった事実なのです。しかし現在でも清貧そのものの生活をしながら禅の修行に励む人たちもいるのです。禅には、そうしてまでも追及したい魅力があるのです。

 筆者はブログを書き続けます。

(このブログは以前「なぜ禅を学ぶのか」と題してアップしました。筆者の他の友人が読めばすぐBさんが特定できてしまうので、いったん削除しました。しかしやはり大切な思いなので少し内容を変えて再録しました)

山岡鉄舟と禅(その2)

山岡鉄舟と禅(その2)

山岡鉄舟が天龍寺の滴水から与えられた公案(註1)は、

両刃交鋒不須避
好手還同火裏蓮
宛然自有衝天気
(りょうばほこをまじえ避くるをもちいず。好手還《かえ》りて火裏の蓮に同じ。宛然おのずから衝天の気あり)
でした。
言葉どおりに訳せば、
・・・両刃の鉾を切り結んでいる武人は、相手をかわしたりすることはない。このような鉾の使い手は、燃えさかっている炎の蔭で涼しげに咲いている蓮の花のようで、まるで天に突き入るほどの氣を備えている・・・

です。山岡は「余この句すこぶる興味あるを感じ、紳(おび:帯)に書いて考察し続けた」と書いています。三年間考えあぐねていたある日某商人(平沼専蔵:のちに平沼銀行を創設)が揮毫を頼みに来た時(山岡は書の達人でした)、

・・・自分は元来赤貧の家に生まれたが、今日図らずも巨万の富を手にすることができた・・・しかし、以前、金が四・五百円(現在の四・五千万円)できた時商品を仕入れたが、物価が下落の気味だとの世評から、早く売りたいと思った。しかし同業者がなんとなく弱みに付け込んで、踏み落とそうとするので動揺した。そのためほんとの世間の相場がわからなくなってしまった。そこで断念して、構わずに放って置いた。それから日数を経て、再び商人どもが来て、元値の一割高く買うと言った。今度は自分の方で前とは打って変わり、一割の利では売らないと言った。そうしたところ、また妙に五分突き上げてきた。そこで売っておけばよかったのに、自分が欲に目が眩んで、高く売ろうと思ううちに、結局、二割以上の損をして売った・・・もし、踏み込んで大商をなそうと思えば、すべて勝敗利損にびくびくしては商法にならないものだと思った。爾後は何事を企てるにも、まず心が明らかな時に、死かと思いをきめておき、そして仕事に着手すれば、けっして是非に執着せず、ずんずんやることにした。その後は大略損得に関わらず、本当の商人になって今日に至った(以上、山岡の原文は文語)・・・

山岡はハッとして「この談話は前の滴水の『両刃・・・』の語句と相対照するものではないか」と考え、「翌日より剣法に試み、夜はまた沈思精考すること五日、釈然として天地物なきの心境に座せる感あるを覚えた」と言っています。悟りに至ったのですね。

そして、それまで剣の師浅利又七郎の剣先がちらつき、壁のように立ちはだかってどうしようもなかった幻身が突然消えた。そこで浅利師を招いて対峙したところ、一合も交えずに浅利が「よくやった」と言って、伊藤一刀斎の無相の剣の奥義を伝えたと言います。まさに剣禅は一如なのでしょう。

山岡は惜しくも53歳で亡くなりましたが、門弟の中には、追い腹を切ったり、それを止められると「山岡先生のいない人生など考えられない」と放浪の旅に出た者がいるなど、素晴らしい人格の人だったようです。

註1 織田軍に敗れて逃げ込んた武田の残党の引き渡しを拒否して焼き殺された恵林寺の快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」と同じ意味で、公案集「碧巌録」第四十三則の本則の評唱(解説)にあります。「いかなる困難な状況にあっても動揺することはない」という意味でしょう。曹洞宗開祖、洞山良价禅師の言葉です。公案とも言えないような簡単な言葉ですが、実際に実践するのはよほどの胆力が必要でしょう。

父母未生以前のこと(3)‐山岡鉄舟(その1)

父母未生以前のこと(2‐その2)山岡鉄舟と禅

 慶応4年(1868年)3月14日、西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁・勝海舟の会談が、芝・田町の薩摩藩邸で行われた結果、江戸総攻撃が回避されたとされています。しかし、じつはその5日前に 山岡鉄舟(鉄太郎1836‐1888 註1)が、駿府に居た西郷のもとを訪れ、勝から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願したことの方がはるかに重要だったのです。西郷・勝会談は絵にもなって有名なのですが。山岡は維新後、勝や大久保利通などに請われて明治天皇の侍従(最終位は宮内少輔)という目立たない職に就きましたので、それほど有名ではないのでしょう。
 一方、「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬという始末に困る人ですが、あんな始末に困るような人ならでは、お互いに腹を開いて、ともに天下の大事を誓うわけにはいかない」は、西郷の人間像を表わす有名な言葉として知られていますね。しかし、じつはこれは、西郷が勝に言った山岡鉄舟を評した言葉だったのです。歴史の「話」というものはそういったものなのでしょう。
 山岡(33歳)が西郷に会うために駿府へ乗り込んだときは、文字通り命懸けだったでしょう。心配する勝(44歳)に「殺されるかもしれない。しかし、静かに両刀を解いて差し出し、いかようにも先方に任せて快く処置を受けよう。いかに敵だとて、かりにも人一人を殺すのに一言も言わせず切り殺すようなことはしないだろう(筆者簡約)」と言い、勝は感服したと言っています(註2)。

 山岡鉄舟と禅(その1)
  山岡は十三歳のとき生死の問題に直面し、生死克服の道について父に尋ねたところ、「わが先祖は剣法を修め、禅の蘊奥をきわめて東照公(家康)に仕え、しばしば戦功をあらわす、今、汝心を練らんと欲せば、禅学を修むるにしくはなし」と言われ、生涯を通じて剣、禅共に修行を続けたと書いています。禅に対する誠心誠意は、一・六の休日ごとに、前日夕食を済ますと江戸から徒歩で三十余里先の伊豆・三島にあった竜沢寺の星定のもとへ12時間近くかけて赴き、3年間修行に励んだことから伺われます(註3)。山岡は明治十三年(46歳)に透過大悟したと言っていますが、すでに23歳のとき「宇宙と人間」(模式図:筆者)を書き、

 ・・・我の思わくは、人の心は宇宙と同じからざるべからず。心すでに宇宙と等しからば、天地万物、山川河海もまた我が身と等しかるべし・・・

の境地に至っています。つまり、禅の要諦父母未生以前のこととは、「人間を含む天地万物は宇宙(=神)と一体だ」と言っているのです。

註1父・小野朝右衛門は600石の旗本で飛騨(米で言えば10万石)支配の代官でした。
註2「鉄舟随想録」安倍正人編・勝海舟評論(国書刊行会)
註3 大変な健脚だったと弟子が記しています。