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禅の公案の意味について(1‐3)井筒俊彦博士の見解

禅の公案の意味について(1)

 これから数回にわたって、重点的に禅の公案(語録)についてお話していきます。まず、禅では答えを弟子に直接教えることはタブーとされています。あくまで弟子が自得すべきもので、教えてしまったら本人のためにならないのです。筆者も長い間「うつ病」の学生たちのカウンセリングをして来ましたが、言葉で説得することなど不可能だと身に染みてわかりました。他人や国家間との論争がいかに困難かは、よく知られているところです。お互いがますます頑なになるのが落ちでしょう。
 
 公案とは師匠が弟子に「悟り」のキッカケを与えるヒントを、問答の形で残したものです。馬祖(709-788)や臨済(?-867)、趙州(788-897)などがすぐれた禅師と言われるのは、すぐれた公案を残したからです。
 
 坐禅・瞑想は、禅の専売特許ではありません。そもそも、釈迦が悟りを開いたのも、インドに古くからある坐禅・瞑想によってでした。仏教の各宗派にも坐禅・瞑想はあります(浄土系宗派を除いて)。空海が土佐の御厨人窟(みくろど)で開悟したのも坐禅・瞑想によってでした。東大寺は華厳宗のお寺ですが、大仏様は坐禅・瞑想の姿をしています。では、禅独特ものは何か。それが公案です。1000年以上にわたって、僧たちは公案を手掛かりにし、坐禅・瞑想を重ねて、文字通り命懸けで厳しい修行を積んできました。(「なぜ人は悟りを開かなければならないか」という根源的な問いにも答えなければなりませんが、それつについては一まず置きます。)

 禅の世界では、ひたすら坐禅・瞑想を実践する曹洞宗系宗派があり、古来黙照禅と呼びます。一方、禅問答を重視するのは臨済宗系の宗派です。後者を看話(かんな)禅と呼んできました。両者が相互に相手を批判する時代もありましたが、本来、上級者は他宗を批判することなどありません。道元は栄西を尊敬し、その命日には栄西の思想を賛美する講話をしていました。臨済宗でも坐禅・瞑想はもちろん重視していますし、曹洞宗でもしばしば公案を取り上げて弟子を指導しています。なにより、道元の「正法眼蔵」は、僧たちに対する指導書であり、公案を引用した話もたくさん出てきます。いくら「只管打座(ひたすら坐禅せよ)」と言っても、語録(公案)の参究(研究)なくして開悟はありえませんし、逆に坐禅・瞑想をせずに禅をわかろうとしても徒労でしょう。

 小川隆さん(駒澤大学教授)は「文字にとらわれず、自身の参禅体験を拠りどころとして主体的に語録を読みこなすという言いかたがあるが・・・(中略)・・・あらゆる既成概念の拘束を脱して、自由かつ主体的にそれを解しうるとは考え難い」と言っています(「語録の思想史」岩波書店p3-4)。つまり、「参禅体験を拠りどころとして語録を理解することなど考えられない」と言うのです。しかし、それはおかしいと思います。筆者は毎日、坐禅・瞑想を欠かしませんが、それによって語録の解釈も一層進むと期待しています。

 小川さんは「自らの開悟を目指すのなら坐禅と作務(労働)の道を行くべきであろう。しかし歴史上の禅を学問的に研究しようとするならば、禅問答の解読によって、禅というものがそれぞれの時代に、如何に捉えられ、表現されてきたかを考える作業が基礎となるべきである(文字数の制約のため、一部、筆者の責任で簡約しました)」とも言っています。小川さんは禅語録を学問として研究してきた人であり、前記の「語録の思想史」は力作で、以下の筆者の論述にも同著のいくつかの部分を引用させていただきます。ただ、小川さんの言う、「開悟を目指さない禅語録の研究」にどれほどの意味があるのか疑問です。

 禅の公案の意味について(2)井筒俊彦博士の見解(その1)

チンプンカンプンなやり取りを「禅問答のようだ」と、よく言いますね。そこで今回から、禅語録についての井筒俊彦博士(1914-1997東洋思想研究者、神秘主義哲学者、慶應義塾大学名誉教授)の見解を、「意識と本質」(岩波文庫)に基づいて紹介します。井筒博士は、

  ・・・有名な禅師たちの特徴ある行動は常識的観点から見る限り、すべて、ほとんど無意味である(つまり禅師と修行僧たちとの問答《註1》には、答えとしては意味をなさず、問いと答えの間になんの連関もない:筆者)・・・
と言っています(p356)。

註1 例えば洞山守初(宋時代の禅師)の有名な「麻三斤」(「碧巌録」第十二則の公案)

  問い:如何是仏(仏とは何でしょうか)
  答え:麻三斤(三斤の麻だ)

 井筒博士はこの「無意味」の説明として、

 ・・・(言)語は「存在(事物の本質、宇宙原理、端的に神と言っていいでしょう:筆者)」を分節した形で提示する(これを有意味性の言語と言っています:筆者)。世界はバラバラに切り離されて独立に存立する事物の集合体として現れる。暗闇の舞台に無数のスポットライトが照らされ、数限りないものが浮び出る。ハイデッカー的に言うと、「存在」は見失われ、「存在者(事物:筆者)(註2)」のみが顕現する・・・

井筒博士の論述の一部のみ抜書きしたこと、それは専門的(哲学的)表現であることから、このままでは読者にはわかりづらいでしょう。そこで以下に、筆者の責任において簡約します。

 ・・・事物の本質を言葉で表現するには根本的な制約がある。たとえば「山」と言っても、その本質を表わすことは不可能である。しかし、言語を持ってしかそれを表現し、他人に伝えることはできない。ましてや「沈黙」をもってすることもできない(禅ではしばしば「沈黙」が答えになります:筆者)。

註2:言語で表現した事物を仮に「分節I」とし、事物の本質(宇宙原理)を「無分節」とします。

 しかし、何とかして事物の本質を修行僧に伝えなけらばならない。そこで禅では言語の制約を一挙に取り払って事物の本質を示すために、言語を逆用し、瞬時に真理に立ち返えらせる。それが禅語(公案)だ、と言うのです。

井筒博士はこのことを説明するのに青原惟信(宋時代の禅師、生没年不詳)の有名な言葉を引用しています(筆者訳)。すなわち、
 ・・・自分が未だ禅に参じていない時、自分にとって、山は山と見え、水は水(分節I)と見えた。その後、善知識(すぐれた禅師:筆者)に出会って、悟入の契機を得た段階では、山は山でなく、水は水でない、と見えるようになった。それが休歇(けつ、休養:筆者)の処を得た今となってみると、あい変わらず、山はただ山に見え、水はただ水(後述する分節II)に見える(「五燈会元」巻十七」) ・・・
つまり、井筒博士は「禅問答はけっしてチンプンカンプンなやり取りではなく、師匠と弟子の間にはちゃんとした思想の伝達があるのだ」というのです。

 しかし、禅語を聞いて「パッ」とわかるのは、修行を積み、悟りの寸前にある人だけでしょう。言語の制約を一挙に取り払って事物の本質を示すために、言語を逆用し、瞬時に真理に立ち返えらせる。それが禅語(公案)だと言われても「そうかもしれないが・・・」というのが正直な気持ちでしょう。第一、無分節、つまり、事物の本質とはどのようなものか・・・雲をつかむような話でしょう。ことほどさように、井筒博士の言葉は、開悟を目指す者たちにとって参考にはなりませんね。

禅の公案の意味について(2)井筒俊彦博士の見解(その2)

 井筒博士は続いて、
 ・・・しかも、人はさらに翻って目に見える「山」という有意味性の次元に戻らななくてはならない(註3p367)・・・

註3:これを分節IIとします。

 つまり、「分節I→無分節→分節IIとしなければならない」と言うのですね。しかし、なぜ分節IIへと戻らなければいけないか、その理由が明示されていません。井筒博士はこの問題に関して、「無門関」第二十四則「離却語言」にある風穴禅師 (臨済宗の禅師896-973)と弟子との次のやり取りを紹介しています。すなわち、

 ・・・ある僧が風穴延沼禅師に尋ねた「語黙、離微に渉(わた)って如何せば通じて犯さざる」
風穴禅師はこの僧の質問に対して、ただ、次の杜甫の詩(註4)を口ずさむのみであったという。

 長(とこし)なえに憶(おも)う、江南三月のうち
 鷓鴣(しゃこ、キジ科の鳥)啼くところ百花香(かんば)し

註4 風穴禅師がこの杜甫の詩を取り上げたのは、憶(おも)うワレ(人)と、鳥が鳴き、花が咲く江南の春(境、対象)が一体化していることを表わす好例と考えたからです(筆者)下記の臨済の「人境倶不奪」の境地ですね。

井筒博士はこの「語黙、離微に渉(わた)って・・・」の解釈として、

 ・・・語を使えば必然的に「存在(本質:筆者、以下同じ)」は分節され、もの(事物)に固定化され、限定されてしまう。それを避けようとして、全然言葉を使わなければ、沈黙はよく「存在」の非限定面を指示しようが、それでは限定的側面は無視されてしまう。言葉を使っても沈黙のごとく、沈黙していても言葉を使うごとく、「存在」の非限定面を共に生かすにはどうしたらよいか《下線筆者》p368)・・・

と言っています。

 じつは「無門関」第二十四則「離却語言」にある、
 ・・・風穴和尚、因みに僧問う「語黙離微に渉(わた)り、如何にせば通じて不犯なる・・・
の正しい意味は、言葉で表現しても沈黙しても、主客分離(離微)に陥り、真の実在を示すことができません。どうしたらそういう過ちを犯さないことができますか)です。

 ちなみに風穴禅師は、「人天眼目(宋の智昭編の当時の禅宗五門の要義を集めた書、「禅籍データベース」にあります:筆者)」の中にある、臨済の「人境倶不奪(註5)」に関する評言でも同じく杜甫のこの詩を使っているのです。「人境倶不奪」は、明らかに人(ワレ)と境(対象)との関係、つまり認識論です。つまり、「離却語言」と「人境倶不奪」は同じテーマであり、風穴の答えが同じなのは当然です。井筒博士の言うような、言葉や沈黙がものの本質を表現できるかどうかのテーマとは別問題です。井筒博士は何か勘違いされたのでしょう。

註5 「臨済録」にある、「臨済の四料簡(自己と対象との関係を説いたもの、つまり認識論)の第四「自己も対象(もの)もともに否定しない」。

 認識の問題は禅の主要なテーマだと筆者は考えています。それについては後ほど改めてお話します。

釈迦も驚く日本仏教ー地獄極楽思想(1,2)

釈迦も驚く日本仏教‐地獄極楽思想(1)

 日本仏教は地獄極楽思想をイメージするほど密接に関連していますね。しかし、それは釈迦の仏教とは大きくかけ離れたものなのです。

 現在のわが国の仏教徒は8470万人(2013年統計、ブリタニカ国際年鑑では99%が広義の仏教徒とされています) 、約7万5000の寺院があると言われています。つまり日本人のほとんどは仏教徒なのです。ただ、「自分は仏教徒である」という意識は希薄で、おしなべて「無宗教」と考えている特異な国です)。仏教が日本に入って来たのは538年(552年とも)で、たちまちそれを受け入れ、やがて国の政治方針としたのが聖徳太子(574-622)です。聖徳太子の言葉として「世間虚仮唯仏是真」が有名ですね。「この世の世界は空しい仮の世界で、仏の教えこそ真実だ」という意味です。しかし、太子の妃である橘大郎女(おおいらつめ)が、太子を偲んで天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)という刺繍(現在はその一部が残る。国宝)を作ったことから、少し太子の真意が曲解されるようになりました。すなわち天寿国とは、妃が聖徳太子の往生したとされる世界の名ですが、いつのまにかそれを極楽浄土の世界とされるようになったのです。(天寿は无寿《むじゆ》国すなわち無量寿国,極楽浄土の誤記かという説もあります)。

 釈迦の思想
  釈迦の教えには地獄極楽思想はありません。もともとインドには輪廻転生思想が強く信じられていました(現在でも)。人は死んでさまざまな階層の「あの世」に行き、また生まれ変わってこの世で修行を積み、あの世のさらに高い階層へ行くという思想ですね。釈迦の思想はそれまでのインド哲学を乗り越えるものでした(新しい思想は必ずそれまでの思想を否定するところから始まります)から、輪廻転生思想を否定しました。「死後のことなど考えるな(無記)」と言ったと言われています。

 奈良時代から平安初期の日本仏教
 このころの仏教は、天皇や貴族を中心にした「現世利益(この世での繁栄)」を求めるものでした。それが平安後期になると、地獄極楽思想へと大きく変貌したのです。それを推進したのが末法思想です。末法思想とは、
 正法の時代(釈迦の死後1000年):仏教教義が正しく残っており、教(教説)、行(実践)、証(結果)がすべて完備している時代
 像法の時代(そのあとの1000年):教説と実践のみしか残っていない時代
 末法の時代:教説のみしか残っていない時代、
それがさらに進むとすべてが消滅する法滅期に入る、というものです。

 すでにインドで成立した中期大乗経典の「大集経(大方等大集経)」(「大正新脩大蔵経」 大蔵出版)に見られます。注意しなければならないのは、末法思想とは本来、「このままでは釈迦の法は廃れるぞ」という、専門の僧侶たち相互の戒めだったのです。それがいつの間にか「世界が滅びる」という思想に拡大されてしまったことです(註1)。
註1このように、仏教ではさまざまな思想が次々に整理・拡大されてきました(増広と言います)。そのため、どこまでが釈迦の教えなのかはもうはっきりとはわからなくなっているのです。それが仏教を解釈する上での大きな問題点であることは、すでにこのブログシリーズでお話しました。キリスト教が、新約と旧約など、変更はごくわずかだったことと大きな違いです。
 そして釈迦入滅後2000年目が日本では永承7年(1051)とされ、当時大火や自然災害、疫病や飢饉がくりかえし起こっていたという社会情勢から、末法思想が現実のものとして受け止められるようになったのです。そのため、この世での幸せより、死後の世界での幸せを願う心が庶民にまで広がったのです。
 その要望に応えたのが源信(942-1017)でした。源信は天台宗の高い地位まで登った人ですが、その地位を放棄し、984年に43歳で横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に隠遁し、天台浄土教の原典ともいうべき「往生要集」(985)を完成しました。
 源信は、この「往生要集」において、浄土思想の観点に立ち、多くの仏教の経典や論書から極楽往生に関する重要な文章を集めました。まず、地獄の様子を、等活地獄から阿鼻地獄にいたる8段階の恐ろしい世界として鬼気迫る迫力をもって描きました。そして極楽の様子も描写し、極楽浄土に往生するための方法を詳細に説いたのです。すなわち、「極楽や仏たちのありさまを強くイメージせよ」と言っています。

 釈迦も驚く日本仏教‐地獄極楽思想(2)

  前回、「釈迦は輪廻思想を否定した」とお話しました。つまり、それまでのインド哲学が、インド独特の身分制度(カースト制)の理論的根拠になっているとして否定したのです。そのため、釈迦仏教の思想は「下層社会」の人々から熱烈な支持を得たのでしょう(註1)。ご承知のように、その後インドでは仏教が排斥されてしまいました。その理由は、バラモンやクシャトリアなど「上層階級」の人々による巻き返しにあったためです。
 しかし、その後、仏教でも輪廻転生思想が受け入れるようになりました。と言うより、それを利用しました。当時のインドの人々の根強い感覚を無視できなかったからでしょう。ただ、重要なことは、仏教では、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天とは、死後に行く世界(空間)ではなく、心の状態のことを指すことです。たとえば、天道界に行けば、心の状態が天のような状態であり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態だ、ということです。

 それをそういう世界(空間)があると考えたのは、源信の驚くべき独創なのです。しかも、地獄を生前に犯した罪悪に従って八つに分け、そのありさまを見てきたように描いたのです。たしかにその思想は当時の人々に強烈な印象を与え、極楽往生を切実に願うようになりました。そして死ぬ間際には、その人を極楽浄土へ導くために迎えに来た阿弥陀如来の姿を描かせ(聖衆来迎図)、その手から導かれた五色の糸を握って死んでいったのです。今も残るそれらの絵には、阿弥陀如来の手の部分に二つの小さな穴が残っているものものがります。五色の糸を通して死にゆく人と結ばせた跡ですね。
 この思想はその後1000年後の今日まで、日本人の精神に強いインパクトを与え、数多くの地獄極楽図や閻魔像が作られました。その意味では源信の大きな功績でしょう。
 「仏教はそれぞれの時代や国の事情に合わせて大きく変貌して行った」と、なんどもお話しました。地獄極楽思想はわが国におけるその例証の一つですね。

註1 釈迦が六道輪廻を説いたかどうか、諸説もありますが、インドの政治家で思想家、ネルー内閣の法務大臣でインド憲法の草案を作った、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(1891-1956)という人がいます。アンベードカルは、インド社会のカースト制度に強く反発し、独特のパーリ仏典(初期仏教経典)を研究した結果、「釈迦は輪廻転生を否定した」という見解を得ました。この アンベードカルの考えが、「釈迦は輪廻転生を否定した」との説として現在有名です(「ブッダとそのダンマ」山崎素男訳 光文社)。筆者もこの説に賛成です。そうでなければ、古代インドのウパニシャッド哲学に対し、釈迦仏教が名乗りを上げる理由がありませんから(それについては、改めてお話します)。

わが国の華厳思想と禅(1-3)

華厳思想と禅(1)

 華厳経(正式には大方広仏華厳経)は紀元400年頃、西域(中央アジア、コータンなど)でまとめられた大乗経典の一つです。ただ、その中心思想「十字品」「入法界品」はそれぞれ独立した経典としてそれ以前から伝わっていました。それらを核にしてまとめたものが華厳経でしょう。西域は、インドの東北部とつながっており、仏教の拡大とともに、その思想が濃密に流れ込んできたことはよく知られていますね。その後中国、朝鮮を経て736年に日本へ伝えられ、東大寺などにおける根本経典として重視されています。華厳経を信じる人達は今でも「ブッダが悟りの後、最初に説かれた重要な教えである」としています。これは法華経が「ブッダが亡くなられる前の最後に説かれたもっとも大切な教えである」とする説と同じように、歴史を無視した牽強付会であることは明らかです。これが現代のわが国の大乗仏教の大きな問題点でしょう。

 華厳経のエッセンスは「宇宙の、人間を含むすべてのものは相互に関連し合い、影響を及ぼし合っている」という、「一即多・多即一」「重々無尽」「事事無碍(じじむげ)」の思想です。「インドラの網」と名付けられた仮定した大きな網の目の一つ一つに宝石が吊るされており、それぞれの石の中に他の宝石のすべての輝きが反射されているように、すべての人やモノはつながっていると言うのです。しかしこの思想は、華厳経が成立した300年前に、インドの龍樹によって大成された「空」の思想そのものです。以前お話したように、そもそも「空」の思想は龍樹より100年前から、多くの無名のインド哲学者によって盛んに唱えられてきました。以前のブログでもお話したように、「空」の思想は、釈迦の「因果の法」が発展した「縁起の法」が変質したものです。それがさらに変化して華厳思想になったのですね。このように、釈迦の思想が次々に拡大されていったのが仏教の大きな特徴です。

 華厳経のもう一つの重要な思想は、「存在するものは、すべて心の表われである」という考えです。しかしそれも、いわゆる「唯識思想」(前述)として、はるか以前から知られていたものです。現にあの龍樹(やはり唯識思想の大成者で、「唯識思想」を大成した無着、世親の200年も前の人。華厳経は無着・世親の時代よりさらに100年後に成立しました)も「十字経」という唯識思想の注釈書「十住毘婆沙論」を書いているのです。つまり、「十字経」は龍樹の時代の前から知られていたのです。そしてそれは後に華厳経に取り入れられ、「十字品」となったのです。
 
 木村清孝博士(東京大学名誉教授)は、
 ・・・華厳経には、人類の知的遺産として誇るべきもの、高度文明を実現した現代社会を生きる私たちが謙虚に学ぶことが望まれるものが、いくつも含まれています。それゆえ華厳経は今日に至るまで、さまざまな思想的・文化的・芸術的成果を生み出し、多くの人を感動させ、あるいは正しく生きる道へと誘ってきました。今後も、本経箱のような意義と役割を持ち続けることを、私は確信しています・・・
と述べています。
 一方、木村博士は、華厳経には二つの弱点がある、と率直に言っています。すなわち、まず第一に、人間性の洞察が不足していること、そして社会性の認識の希薄さだと言います(下記の2)の部分)。つまり、華厳経の精神の格調高さはよくわかるが、実際の人間は所詮凡夫であり、我欲の塊であり、お金に対する欲、社会秩序の不公平さに対する憤りなどで苦しんでいると言うのです。木村博士は華厳経のこの弱点の理由として、
 1)出家者に説いたものであり、一般大衆向けのものではない
 2)華厳経に対する強い信頼が前面に押し出されており、弱い大衆向けのものではない
 3)本経の成立に携わった大乗仏教者が、当時の、唐の即天武后などの支配階級の手厚い保護を受けているためだろう
と述べています。

華厳思想と禅(2)

 華厳思想とは

 前回、「華厳経のエッセンスは唯識思想と、『宇宙の、人間を含むすべてのものは相互に関連し合い、影響を及ぼし合っている』という、『一即多・多即一』『重々無尽』『事事無碍(じじむげ)」の思想だとお話しました。唯識思想については、別のブログでお話しました。後者について木村清孝博士(東京大学名誉教授)の言葉では、
 ・・・具体的な事物や事象に関しても、時間に関しても、個々のものを決して孤立した実体的な存在とは捉えず、あらゆる存在が他のすべて、ないし全体と限りなくかかわりあい、通じあい、はたらきあい、含みあっているとされます。詩的に表現すれば、一滴の雫(しずく)が大宇宙を宿し、一瞬の星のまたたきに永遠の時間が凝縮されている・・・
となります。
 たしかに重要な思想で、あの米国でのリーマンショックが起きると、ただちにわが国の(もちろん世界各国の経済にも)ほとんどの中小の企業に深刻な影響を及ぼしました。筆者の学生時代、ケネデイ大統領暗殺事件が起きましたが、通っていた英会話塾が休講になりました。講師がアメリカ領事館の人だったからです。そして「今更ながら世界はつながっていることがわかったね」と同級生たちと笑いあったことを覚えています。

 あのオリオン座の左上にある赤い星はベテルギウスと呼びます。地球から642光年も離れている、まさに彼方の星ですが。じつは天文学者たちは重大な関心を持っています。と言いますのは、いつ超新星爆発を起こしてもおかしくないからです。いや、すでに起こしているかもしれません。まだそのようすを示す光が届いてないまも知れないからです。天文学者の関心は超新星爆発を間近に見られるだけではないのです。超新星爆発の衝撃波自体の影響は考えられません。あまりにも遠いからです。しかし、同時に起こるガンマ線バーストが地球に向けて放射されれば、生物は全滅するかもしれないからです。ガンマ線バースト放射は、ベテルギウスの回転軸の周り数度が危険と言われています。天文学者たちの懸命な観測と計算により、幸いにも地球はその範囲の外にあることがわかりました。ことほどさように、はるかかなたの天空の現象であっても、私たちに重大な影響を持つ可能性があるのです。

また、古典文学や名画、クラシック音楽の名曲、そして日本の仏像や名建築の美しさは、数百年の時を超えて現代の私たちの心に響きます。作者たちの心が直接私たちの心に訴えかけているのですね。私たち人間は時間や場所を飛び越えて結びついているのです。

 これらの例を通して、私たちは「宇宙の、人間を含むすべてのものは相互に関連し合い、影響を及ぼし合っている」という華厳思想がよくわかります。

 ただ、木村博士が言う(筆者簡約)、
 ・・・すべての事物・事象の統一性と相互関連性を説く華厳経の教えは、現代物理学や哲学に大きな啓示となっている(たとえばフリチョフ・カプラの「タオ自然学」)・・・
とのコメントには、かなり我田引水的なところがあると筆者は考えます。

華厳思想と禅(3)

 華厳思想の問題点

 東京大学名誉教授で、40年にわたって華厳経を研究してきた木村清孝博士(1940-)は、華厳経には二つの弱点がある、と率直に言っています。すなわち、まず第一に、人間性の洞察が不足していること、そして社会性の認識の希薄さだ言っています。
 じつは、もっと重大な問題があると筆者は考えています。それは、前回お話したように、華厳経の思想は、釈迦以来の大乗経の基本思想の一つである「縁起思想」、龍樹の「空」の理論、そして「唯識思想」がまとめられたものとみなされてもやむを得ないからです。このように、華厳思想も唯識思想も、それまでの仏教を継承し、拡大して(江戸時代の学者富永仲基の言葉でいえば「加上」されて)成立したものにすぎない、と筆者は考えています。木村博士は、華厳経を一貫して研究対象として来た人です。それゆえ、本経典を賛美するのは当然でしょう。しかし、前記の理由から筆者には、華厳経はそれまでのさまざまな思想をまとめたものにすぎず、特に新しい思想は込められてはいないように思えます。それゆえ筆者は、木村博士が「さとりへの道(NHK出版)」で言っている、
 ・・・人類の知的遺産として誇るべきもの、高度文明を実現した現代社会を生きる私たちが謙虚に学ぶことが望まれるもの・・・
とはとても思えないのです。

 華厳思想はあの東大寺が根本経典としています。しかし、前述のように経典としての独自性に欠け、おそらくそのために、その後華厳宗そのものが衰退していきました。さらに当時、浄土系諸宗の進出が顕著でした(註1)。華厳宗はその流れを阻止するために苦慮していたのです。
 そこで華厳思想にテコ入れをしたのが、鎌倉時代の明恵(1173-1232)です。明恵は華厳宗中興の人としてよく知られていますが、なんと華厳思想に密教思想や禅思想を取り入れ、改革しました(註2)。その系譜が今日にまで続いているのです。

註1 明恵は「華厳経」で高唱される菩提心(悟りと衆生救済を強く願う心)を重視し、もっぱら念仏を唱えることによって救われるとする法然の教説(専修念仏)を激しく非難しています。
註2 明恵は若い時から禅に強い関心を持ち、あの栄西とも親しく接しています。京都高山寺に残る有名な明恵像は、坐禅・瞑想をする姿です。それにしても、密教思想や禅の考え方を大きく取り入れたら華厳思想とは言えなくなります。

 しかし、木村清孝博士とは異なり、現代では衰退してしまっていると筆者には思われます。東大寺は法相宗の法隆寺・薬師寺・興福寺とともに、今では仏法を伝搬する場所でも、衆生済度の場でもなくなっており、周知のように観光スポットとして有名ですね。

なぜ「空」思想が大切か(1-5)

なぜ「空」の観かたが大切か(1)

 いよいよ「空」理論の本題に入ります。今回は、筆者がお話してきたことの簡約です。

 禅を理解するのに一番大切な言葉は「空」ですね。これまで高名な禅師でも、正しく理解した人は、筆者の知るかぎりほとんどいません。

 このブログシリーズでくわしく検証してきましたように、たとえば「空とは実体のないこと」と解釈した人たちがします。澤木興道師の弟子・松原泰道師などです。これらの人たちは、お釈迦様の教えの一つである縁起(因果)の法則を誤って理解し、援用しているのです。「縁起(因果)の法則」とはふつう「あらゆるモノゴトには原因がある。原因がなければ結果としてのモノゴトはない」と解釈されています。しかし、お釈迦様がおっしゃっているのは、「あらゆるできごとには原因がある」であり、現象を指し、モノまでは含んでいないのです。つまり、「あなたの今の苦しみや悩みには必ず原因があるので、それを突き止め、取り除くかこだわりをすてなさい」と言う意味なのです。筆者がよく、そういう解釈をする人の目を覚まさせるには「ポカンとたたいてやりなさい」とはそのことです。「痛い」と怒るでしょう。それが肉体という実体があることの証拠ですね。

 「空」理論を初めて体系化したのは龍樹(ナーガールジュナ)だと言われています。龍樹も縁起の法則に基づいて「空理論」を完成したと言われています。しかし、前にお話したように、般若心経で言う「色即是空」の「空」は、龍樹の「空理論」とはちがうのです。

 松原師などが言うもう一つの根拠は、「空」を、あらゆるモノは変化するから実体はないと解釈するものです。筆者が30年前、初めて禅に関する本(松原師の著作!)を読んで違和感を感じたのはこの点なのです。無常も釈迦の教えの基本だとされています。しかし、「空」の解釈に「無常の概念」を援用するのも間違いなのです。たしかにモノは常に変化しています。私たちの体の成分も常に合成と分解を繰り返していることはよく知られています。しかし、だからと言って実体がないのではありません。まぎれもなく実体はあるのです。「固定的な実体がない」ということを、「実体そのものがない」と概念を広げてしまうから間違えるのです。

 もう一つの誤った解釈の例は、西嶋和夫師のものです。東京大学卒で、長く一流会社の役職についていた人ですが、やはり澤木興道師の影響を受けて、専門の僧になった人です。「正法眼蔵提唱」という大著もあります。西嶋師は「空とは、無でもない、有でもない絶対無」と解釈しました。さすがに空を無とは言えなかったからでしょう。しかし、「絶対無」とはどういうことでしょう。ますますわからなくなってしまいますね。
 
鈴木大拙博士
日本語で書かれた「色即是空」についての鈴木博士の解説はありませんので、英文そのままを示しますと、
 ・・・form is here emptiness, emptiness is form; form is no other than emptiness, emptiness is no other than form・・・
筆者訳:形あるものは空っぽである。空っぽなものは形あるものである。形あるものは空っぽ以外の何ものでもない。空っぽなものは形あるものである以外の何ものでもない。

いかがでしょうか。筆者には意味がよくわかりません。

なぜ「空」思想が大切か(2)‐而今(いま、ここに)(i)

 筆者はこのブログシリーズで、「空とは私がモノゴトを見る(聞く、さわる、嗅ぐ、味わう)その瞬間の体験だ」と繰り返しお話してきました。このことを念頭に入れて以下をお読みください。
 「空」のモノゴトの観かたがなぜ大切かを理解するには、まず禅の重要な概念である而今(いま、ここに)の意味を知らねばなりません。この言葉は、作家の中野孝次さんが座右の銘にしていました。

よく、而今の意味を誤って解釈している人がいます。よくあるのは、

・・・ 過去を悔やむな、 まだ来ていない未来に不安を抱くな、事態は何も変わらない。「今、この瞬間」に心を向けて懸命に取り組むことが大切だ・・・

というものです。中野孝次さんもそのように解釈していたのではないかと思います。

 道元は「正法眼蔵・巻十四山水経」の中で、

 ・・・而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽(ぐうじん)の功徳を成せり。空劫巳前の消息なるがゆえに。而今の活計なり。朕兆未崩の自己なるがゆえに、現成の透脱なり・・・

と言っています。「今ここに見えている山や川は、仏法そのものの現われだ」という意味です。この一節の後半の部分について、曹洞宗 東海管区強化センターHPの解釈は、

 ・・・ その「而今」とは、単にいわゆる「今」ではなく、「正法眼蔵・有時(うじ)」の巻で問題とされた「而今」であります。つまり無限の過去から現在に到る今であり、永遠の未来をひっくるめた今であります。時間空間をあげて「而今」の他に何もない、それは無限の過去を経過してきた存在であり、同時に無限の未来を将来する存在でもあります。時間は空間をはなれては存在しない。また、空間のなき時間も有り得ないのであります。それで時間といっても、空間といっても、自己といっても全く同一物であり、これを「而今」という言葉で言い表しているのであります。眼前の山水も「而今なる山水」として真理の現成であり、仏さまやお祖師さまの仏法の現成であります。山も水もあるがままにあるべきようにあって、さまざまな姿を現しているのであります。このことが「古仏の道現成なり、ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり」であり、山は山、水は水で究尽の功徳を成しており、山は三世十法尽くしており、水は全宇宙を尽くしているのであります。悟りの姿であります。本来の自己、悟りの相であります。それはこの世界の成立以前の消息であって、それが今も生きてはたらいているのであります。万物の兆しもない、いにしえからのことであり、その現成は古今を貫くものであります。而今であります(一部筆者の責任で省略) ・・・

となっております。これではなんのことかわからず、さらに解説が必要でしょう。下手な同時通訳と同じで、「言っている言葉は平易だが意味がわからない」でしょう。

 道元が「有時(うじ)巻」で言っているのはとても大切なことですから、次回改めてお話します。肝心なところだけ言いますと、

 ・・・人間が生きているのは今この一瞬だけだ。そのときの生きいきとした体験こそが真実だ・・・

です。なんらの価値判断も加えない、純粋な体験そのものこそ、モノゴトの正しい認識なのです。これが「空」のモノゴトの観かたなのです。以前、生きているということをイメージで次のようにお話しました。

 ・・・人間の一生とは、きわめて大きな円の円周を歩いているようなものです。真中に生命の根源=神がおられ、そこから生命の光ビームが一人ひとりの人間を照らしている。生命のビームによって照らされている時だけ真に生きている。その一瞬一瞬の連続が人生だ・・・

というものです。過去とはもうその生命のビームが消えてしまった時、未来とは未だその光によって照らされていないときなのです。
 いかがでしょうか。而今(いま、ここ)とはこういう大切な時と場所なのです。この大切な いま、ここでの体験こそ、正しいモノゴトの観かたなのです。

なぜ「空」思想が大切か(3)-而今(にこん、いま、ここに)(ii)

 「空」を理解するには「而今(にこん)」を知ることが大切だとお話しました。その理解の手助けになるのが、「正法眼蔵・有時(うじ)」の巻です。前回、曹洞宗東海管区教化センターHPの解釈を紹介し、「これでは解説の解説が必要だ」とのべました。道元が「有時」で言っていますのは、

 ・・・いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり・・・

です。ここで「有」と言っているのは、曹洞宗東海管区教化センターの解釈では「空間」としています。空間という抽象的な概念は道元の時代にはなかったと思います。「存在(モノ)」ということでしょう。そして、「有時とは、時間は空間を離れては存在しない。空間のない時間はありえない」という意味だとしています。つづいて「時間と言っても空間と言っても自己と言っても同一物でありそれを而今と言う言葉で言い表している」としています。これでは何のことかわからないでしょう(註1)。筆者の解釈は以下のとおりです。

 まず、「有」とは存在(モノ)ではなく、「モノゴト」と考えるとわかりやすいです。「できごと」ですね。「できごと」かならず初めと終わりがありますから、時間の経過があります。とすれば、「時間なくしてモノゴトはない」のは当然です。

註1:現代物理学の知識から言えば、時間がなければモノはありません。原子を構成する電子や核内の素粒子は運動しているからです。運動するということは時間があるということです。しかし、もちろん道元の時代にはそんな知識はありませんから、なぜ道元が「時間がなければモノはない」と着想したのかわかりません。瞑想によるインスピレーションかもしれません。

 つぎに、「モノと自己は同一である」。これもよくわかります。なぜなら筆者が言う「空、すなわちモノゴトの体験」にあっては、モノと自己は同一(一如)だからです。

 つづいて道元は、

 ・・・尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり・・・

と言っています。重要な概念で、ここでも「有」をモノゴトと理解するとよくわかります、すなわち、「この世のすべてのモノゴトは一瞬の(体験の)連続だ」と言う意味です。あらゆるモノゴトは、生じては滅し、滅しては生じていく。その連続であり、その連続が時間だと言うのですね。逆転の発想で、驚くべき慧眼だと思います。西田幾多郎はこれを「不連続の連続」だと言いました。

 つまり、過去はありましたし、未来もあるのです。しかし、私が生きているのは「いま、ここだけ」なのです。今ここにいる私は神につながる「生きた人間」です。その「生きた目(耳、鼻・・・)で認識している一瞬の体験こそが真の実在なのだ」という意味です。よくテレビで画面に「Live」と出てくることがありますね。「この映像は過去に撮ったモノではなく、現在撮影しているものだ」という意味ですね。「Live」と断らなければ、過去の映像か、今の様子かはわかりません。しかし現在の映像であることはとても大切ですね。
 一瞬の体験にあっては、どんな判断も感想もありません。思慮分別は一切無いのです。禅で「鳴らぬ前の鐘を聞け」と言います。けっしてわけのわからない禅問答なのではなく、真実を表わした言葉なのです。これが禅のモノゴトの観かたなのです。

なぜ「空」の観かたが大切か(4)-而今(にこん)(iii)

 「空」の思想を理解するには、禅語の而今(にこん)を理解することが大切だとお話しました。今回は、「空」のモノゴトの観かたがなぜそんなに重要かについてお話します。

今日一日を生ききる

 ホスピス研究所岡崎代表金田亜可根さんは、8年前から自宅を開放してガン患者のお話を聞く会を開いています。余命〇〇ヶ月と宣告された人、すでに何度も手術をした人、そして遺族の人たちに食事を提供し、いっしょに食べながら真心こめて患者たちの胸の内を聞くのです。テレビ報道を視聴して印象的でしたのは、金田さんは「癒しの場とか、安らぎの場を提供するのではない。それは上から目線になってしまうからだ」と言っています。医療・介護をする上でとても大切な気持ちだと思いました。
 さらに強く心に残ったのは、そこに集ってお話をする患者さんたちが、とても明るいのです。でもその理由は筆者が感じたのとは違いました。金田さんは言います「あの人たちは、いつガンが再発するのか、いつ容体が悪化するのかはわからない。だからこそ、今、ここで生きていることをとても大切にしていらっしゃるのです」と。いかがでしょうか。味わい深いお話ですね。ガン患者さんたちは、文字通り命懸けでこの真理を体得されたのでしょう。

つぎもこの真理をギリギリの状況の中でつかんだ舞台美術家の妹尾カッパさんの言葉です。(「少年H」講談社文庫)。前著「禅を生活に生かす」でも紹介しましたように、

妹尾さんは、神戸大空襲で実家が焼け落ち、街はつぎつぎに飛来するB29の大編隊が投下する焼夷弾で火の海になった。その中を逃げ惑い、やっと開けた野原にたどりつき命拾いしたと言います。その時、クリスチャンだったお母さんが口にした言葉が「感謝やね」だったのに驚き、「自分の家が焼け、こんな目にあってもか!」と怒鳴ったと言う。するとお母さんは「怪我もしないで今こうして生きているじゃないの」と言われ、参ったと書いている。「今生きている。その言葉が妹尾さんのその後の人生の一番大事な言葉になりました。「明日は分からないが今生きている。今、今、今が重なって明日になり、明後日になる」。「明日生きて友達に合えるかどうか分からない」生きるか死ぬかの瀬戸際になっても神を信頼できるお母さんの信仰の力の凄さでしょう。そして、妹尾さんが体得した「明日はわからないが、今生きている、そのことに感謝する」との思いは、ギリギリの状況であっただけに本物でしょう。これは「空」の思想、「ものごとの体験は今のみ、過去も未来もない」と共通し、禅で言う而今(今ここ)の禅の考えそのものですね。

真実は今ここの一瞬に現れる

  日本画家の田淵俊夫さん(1941-)は現在再建中の薬師寺食堂を飾る阿弥陀三蔵像を描いた人です。田淵さんは言います「植物にしろ動物にしろ、対象は十分に観察します。それらのものはつねに変化していますが、そのうち、その本質が一瞬に現われる線として見えます。それをとらえるのです」。何十年と自然の姿を見てきた人の究極の境地だと思います。まさに筆者の言う「空」の思想ですね。
 筆者も長年携わって来た生命科学の研究生活で、同じようなことを考えていました。勉強もしますし、真剣に考えねばなりません。しかし、いま振り返ると、研究のアイデアや進め方は、すべて一瞬に決まりました。

なぜ「空」思想が大切か(5)
 過去はあった‐正しい禅
 
これまで「而今(にこん、今ここ)」と言う禅の重要な言葉についてお話してきました。「而今」の解釈としてよく「過去はない。未来はまだ来ない。あるのは現在だけだ」と言われています。たとえばある人は、「アーナンダ賢善一喜経」(「原始仏典 中部経典4」(第7巻)中村元監修 春秋社)にある「およそ過ぎ去ったものは捨てられたものなり」を引用して「而今」の意味を解説しています。しかし、本当に過去は捨てられたものでしょうか。あの東日本大震災や熊本大地震で大切な人を亡くした人、交通事故でかけがえのない子供を亡くし人たちが「過去はありません」と言われて救われるはずはありませんね。到底納得できない教えを説かれても心は癒されないでしょう。

 じつはこういういう解釈は誤りなのです。「あらゆるものは変化する」は、仏教の基本的な教えとされています。禅でなくても科学的事実として、あらゆるものが変化するのはまぎれもない事実です。しかし「過去はない」のではありません。「変化はしているがモノゴトはある」のです。まぎれもなく過去はあったのです。それらをゴッチャにするから「釈然としない」のです。

 道元は「正法眼蔵」「現成公案編」で、
・・・たき木(薪)、はい(灰)となる、さらにかへりて(返りて)たき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちあり、さき(先)あり。かのたき木、はいとなりぬるのち、さらにたき木とならざるがごとく、人のし(死)ぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるとい(言)はざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆえに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆえに不滅といふ。生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるとい(言)はぬなり・・・
と言っています。まさに「而今」の思想ですね。
 ・・・薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり・・・灰は灰の法位にありて、のちあり、さきあり・・・ 生の死になるとい(言)はざるは、仏法のさだまれるならひなり・・・
「生が死になるのではない、生は生、死は死だ。前後は切れている」と言うのです。味わうべき言葉ですね。

禅の心を生きた人‐良寛さん(1 – 4)

禅の心を生きた人‐良寛さん(1)

 良寛さん(1758-1831)は、子供たちと手まりを突き、草相撲をして春の一日を遊んだ人として親しまれています。しかし、じつはあの道元以来の禅の達人と、筆者は考えています(註1)。18歳のとき越後の庄屋の地位を捨て、備中(岡山県)玉島の圓通寺へ入って10年にわたる厳しい修行をしました。その結果印可(免許状)を受け、将来どこかの寺の住職になることが約束されたのですが、なぜかそれも投げ捨てて、長い修行の旅に出ました。そして39歳のとき越後にもどって、あの子供たちと遊ぶ日々を送ったのです。
 良寛さんのことは、筆者が前著でくわしく紹介しましたので、このブログシリーズではあえて割愛させていただいていました。しかし最近、前著からの読者で、ブログも熱心に読んで頂いている人から「五合庵(新潟県燕市)へ行ってきた」とのお知らせをいただきました。筆者も9年前に行きましたが、「庵の前に『 焚くほどは風がもてくる落ち葉かな』の句碑があったことを覚えています。良寛さんの悟境をもっとも端的に表した句だと、碑を作った人が考えたのでしょう。

 じつはあの小林一茶(1763-1828)の句に「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」と、ほとんど同じものがあります。びっくりしますが、じつはよく知られた話です。その人からのメールには、
 ・・・両者の句の違いに頭を痛めています。一茶のほうが先に詠んだようで、良寛さんはわざわざ解かってこの句を詠んだのはどのような意味があるのかとても面白い問題です。ネットで一茶の方は「自己を主にした自然への計らい」、良寛さんの方は「自然は自然で恩恵にあずかるのはこちらからである。それを感謝するのもこちらの心からである」と解説しているが今一よくわからない・・・
とありました。たしかにその人が言う通り、良寛さんの心境を考える上で重要な課題ですね。以下に筆者の考えを述べますが、その前に、もう一つの漢詩をご紹介します。
                    筆者訳
 生涯、身を立つるに懶(ものう)く 立身出世など考えたこと
                  はない
 謄々(とうとう)、天眞に任す   ただ、天命に従うまで
 嚢中(のうちゅう)、三升の米   頭陀袋には托鉢でいただ
                  いた米が三升
 爐邊(ろへん)、一束の薪(しん) 炉端には薪一束
 誰か問わん、迷悟の跡       悟りとか迷いなどどうで
                  もいい
 何ぞ知らん、名利の塵       名誉とかお金など興味は
                  ない
 夜雨、草庵の裡(うち)      草庵の外の雨の音を聞き
                  ながら
 雙脚(そうきゃく)、等閑に伸ばす 足を長々と延ばしてい
                  る。他に何が要ろうか

 良寛さんの清貧の生活をよく表したもので、筆者を含めたファンたちの大好きな詩でしょう。ただ、良寛さんの気負いが感じられ、漢詩としての情感もいまいちですね。

 「焚くほどの」の句にもどります。この良寛さんの句は、一茶の「焚くほどは」の句より断然すぐれていますね。それは、前述のように良寛さんの禅の心が表わされているからです。

(註1 道元以来、一休、白隠などのすぐれた禅師がいたと言われているのですが、著書がほとんどなく、思想がよくわからないのです。これに対し良寛さんの悟境は、たくさんの漢詩や短歌、俳句から知れます。じつは、それらの資料さえ良寛さんはありあわせの紙に書き散らしていたのですが、死後、愛弟子の貞心尼が整理して残してくれました。ありがたいことです。)

禅の心を生きた人‐良寛さん(2)

 良寛さんの「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」の句は、小林一茶の「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」の後で作ったと言われています。ほとんど同時代の人で、一茶の句は当時からよく知られていたそうです。なにせ一茶は、俳諧の世界の一方の雄でしたから。筆者は一茶の終の棲家、長野県柏原も訪ねたことがあります。火事で母屋が焼けたため、移り住んだ土蔵改造の建物でした。

 一茶の句は、「風が私に葉をくれた」。良寛さんの句は「風が吹いて葉が私のところへ飛んで来た(だけ)」ですね。前者が、風(自然)と私(一茶)を対立的にとらえているのに対し、良寛さんの句には風(自然)から私(良寛さん)への働きかけなどありません。「なるようになっているだけ」なのです。ここが重要なのです。

 筆者はこのブログシリーズで、
 ・・・空(くう)とは、私が対象物を見た(聞いた、さわった・・・)体験そのものが真実だというモノゴトのみかたである・・・
と、お話してきました。そこには私と対象の区別はありません。「両者は一体」(というより、禅では「一如」)です。禅の達人である良寛さんはとうぜんその考えを体得していたはず。そのため一茶の句を知って「私はちがう」と言わざるを得なかったのでしょう。他人の、しかも有名な句を勝手に変更したのは、やや穏当ではないようですが、良寛さんのひたむきさがそうさせたのでしょう。

 「焚くほどは、風が持て来る落ち葉かな」の句は、まさに自然と人間が一体化した世界を表わしているのですね。なぜこの禅のモノゴトの見かたが画期的であるかは、おいおいこのブログシリーズで、さまざまな方向からお話していきます。

 でも一茶を良寛さんと比較しては気の毒だと思います。なにしろ良寛さんは「永平寺より厳しい修行の場」と言われた備中玉島の圓通寺で10年にわたる厳しい修行を積み、印可を受けた人です。それに対し、一茶は、すぐれた句をたくさん残した人ですが、なんと言っても農民出身なのですから。一茶が継母や義弟と熾烈な遺産相続争いをしたことはよく知られています。「嚢中に三升の米と、炉辺に一束の薪があれば十分だ」と読んだ良寛さんの心境とはおのずと次元がちがいますね。

禅の心を生きた人 良寛さん(3)-芭蕉と山頭火

 友人であり、このブログシリーズを読んでいただいている人たちと一夜、歓談しました。筆者が良寛さんについて熱っぽく語りますと、そのうちのお一人が、「良寛さんが家庭も持たず、子供も残さなかったのは、生物の一員としての天の摂理に反するのではないか」と指摘されました。理屈はわかりますが、それでは子供さんができなかったご夫婦に失礼だと思います。まあ、酒の上でのことと許容されます。また、筆者が「良寛さんが一生、物乞いして生きたのは大変なことだ」と言いますと、「でも晩年はどうしたろう」と疑問が出されました。

 まず第1の疑問について:
 「もう少し広い視野で見てあげてください。禅の世界では、家庭を作ろうと子供ができようとできまいと、是非の判断は一切無いのです。地位がどうとか、財産や教育の有無についても同じことです。家庭を持ち子供を作れば喜びはもちろんですが、それなりの悩みもあります。高い(?)地位に付けば組織をまとめて発展させて行く苦労も付いて来るのは当然です。
 良寛さんはたぶん、禅の心を一生掛けて体現したいと決心し、それをやり遂げるには幸せな家庭を築くことは無理だと考えたのでしょう。「社会人としてちゃんと生き、幸せな家庭を築きながら禅の道を体現することができる」というのは、「言うは易く・・・」でしょう。良寛さんは自分の将来の限界をはっきりと見通したのでしょう。

 良寛さんは、備中玉島の禅寺で、10年にわたる厳しい修行を積み、印可を受けた人です。いずれ、しかるべき寺の住職になり、生活は安定し、弟子たちからも尊敬される一生を送ることもできたはずです。しかし、あえてその道を放擲したのです。自由が縛られると思ったのでしょう。

 あの松尾芭蕉や、自由律俳句の種田山頭火も自然と一体化し、自由に生きた人です。芭蕉の「静かさや・・・」や「古池や・・・」、「荒海や・・・」の句はそのまま禅の心を表わしたものかもしれません。山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」や「うしろすがたのしぐれてゆくか」の句も同様でしょう。しかし、それぞれ日本各地に信奉者がおり、そこを訪れて句の添削をすれば当然謝礼もいただけたでしょう。「奥の細道紀行」など、彼らの経済的支援があったからこそ成し遂げられたと思います。筆者も山頭火は尾崎放哉と並んで好きですが、二人共大酒のみで、どれほど支援者に迷惑を掛けたかわからないのです。
 山頭火も芭蕉も、それぞれ立派な句集を残しました。一方良寛さんは、詩集「草堂集貫華(そうどう しゅうかんげ)」と歌集「布留散東(ふるさと)」を残しました(いずれも現代の複製があります)が、あとは散らした歌や詩を弟子の貞心尼たちがまとめてくれたおかげで、今日私たちが味わうことができるのです。つまり、芭蕉や山頭火などの「句の宗匠」とはまったくちがうのです。

 第2の疑問「晩年も物乞いをしたか」について:

 晩年は、越後の大庄屋で文化人であった阿部定珍(さだよし)や、解良栄重(よししげ)などに良寛さんの学識や歌が自然に認められ、肩の凝らない交友が始まり、援助と言うより「気軽なお土産」として、いろいろなものをいただいたようです。

  ちんばそに酒にワサビにたまはるは春を淋しくあらせじとなり
(ほんだわらや酒やワサビをいただいたのは、私の春が淋しくないようにとのお心づかいからでしょう)

良寛さんと語り暮れて帰ろうとする友人に、

 つきよみの光を待ちて帰りませ、山路は栗のいがの多きに
(月が出てからお帰り下さい。山道は栗のイガも多いでしょうから)
と詠んだのも二人の温かい交情がよく出ていますね。

 またある秋の夕暮れ、良寛さんが一人の老農夫に呼び止められ、とうもろこしやどぶろくをご馳走になり、「こんなものでよかったらいつでもお寄りください」と言われたとの歌が残っています。

ことほどさように、筆者のような良寛さんファンには、つぎつぎにその歌やエピソードが出てくるのです。

禅の心を生きた人(4)良寛さんの悟境-道元以来の人

 ただ、良寛さんはけっしてすべてを受け入れ許容した人ではなかったと筆者は考えます。そんな人だったらとても敬愛できないでしょう。孤独な生活や、冬の寒さを、「淋しい、さみしい」とか、「寒さが腹にしみとおる」と正直に、なんども詠っています。それだけに春が来て子供たちと遊ぶのが心から楽しかったのです。
 
 きわめて純粋な人であったことは、堕落した同僚の修行僧たちに対する、若い時の厳しい批判の詩からわかります。とほうもない寛容の人だと考えては、良寛さんの禅の心はわかりません。「ぐっと我慢して表面は笑顔で」では、自由な心とは言えませんね。いやなものと付き合うより、避けることで自由さを保ったのだと思います。失火したと無実の罪から殴られても、されるままにしました。「経もあげずに子供たちと遊んでばかりいて」と非難されても、「私はただこういう人間です」とつぶやくだけだったのです。いずれについても詩を残しています。
 
 会って心地よい人達とだけ付き合い、好きなことだけをして自由気ままに過ごす。そのためには家庭や社会的地位、生きる糧を得るための社会的手段をすべて放棄したのです。新潟県北部の国上山にある五合庵に行くと、托鉢や、寒さ防ぎがどれほど大変だったかよくわかります。厳冬期など、明日の米も心配しなければならなかったでしょう。それでも、社会と関わって生活の糧を得るより、自由を選んだのです。自分の心にあくまでも忠実でありたいと思ったのでしょう。良寛さんはそれをやって見せてくれた人なのです。禅の心とは、なによりも自由な心なのですね。

 良寛さんの悟境は、道元以来だったと思います。なるほど道元以降、一休禅師や沢庵和尚、白隠など有名な禅師たちはいます。しかし、みんな基本的な生活は保障されていた人たちなのです。組織を作り、組織に入ればそれなりに自由が奪われるでしょう。「三升の米と一束の薪さえあれば十分だ」と歌った良寛さんの心境とは比べモノにならないのです。