禅の心を生きた人‐良寛さん(1 – 4)

禅の心を生きた人‐良寛さん(1)

 良寛さん(1758-1831)は、子供たちと手まりを突き、草相撲をして春の一日を遊んだ人として親しまれています。しかし、じつはあの道元以来の禅の達人と、筆者は考えています(註1)。18歳のとき越後の庄屋の地位を捨て、備中(岡山県)玉島の圓通寺へ入って10年にわたる厳しい修行をしました。その結果印可(免許状)を受け、将来どこかの寺の住職になることが約束されたのですが、なぜかそれも投げ捨てて、長い修行の旅に出ました。そして39歳のとき越後にもどって、あの子供たちと遊ぶ日々を送ったのです。
 良寛さんのことは、筆者が前著でくわしく紹介しましたので、このブログシリーズではあえて割愛させていただいていました。しかし最近、前著からの読者で、ブログも熱心に読んで頂いている人から「五合庵(新潟県燕市)へ行ってきた」とのお知らせをいただきました。筆者も9年前に行きましたが、「庵の前に『 焚くほどは風がもてくる落ち葉かな』の句碑があったことを覚えています。良寛さんの悟境をもっとも端的に表した句だと、碑を作った人が考えたのでしょう。

 じつはあの小林一茶(1763-1828)の句に「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」と、ほとんど同じものがあります。びっくりしますが、じつはよく知られた話です。その人からのメールには、
 ・・・両者の句の違いに頭を痛めています。一茶のほうが先に詠んだようで、良寛さんはわざわざ解かってこの句を詠んだのはどのような意味があるのかとても面白い問題です。ネットで一茶の方は「自己を主にした自然への計らい」、良寛さんの方は「自然は自然で恩恵にあずかるのはこちらからである。それを感謝するのもこちらの心からである」と解説しているが今一よくわからない・・・
とありました。たしかにその人が言う通り、良寛さんの心境を考える上で重要な課題ですね。以下に筆者の考えを述べますが、その前に、もう一つの漢詩をご紹介します。
                    筆者訳
 生涯、身を立つるに懶(ものう)く 立身出世など考えたこと
                  はない
 謄々(とうとう)、天眞に任す   ただ、天命に従うまで
 嚢中(のうちゅう)、三升の米   頭陀袋には托鉢でいただ
                  いた米が三升
 爐邊(ろへん)、一束の薪(しん) 炉端には薪一束
 誰か問わん、迷悟の跡       悟りとか迷いなどどうで
                  もいい
 何ぞ知らん、名利の塵       名誉とかお金など興味は
                  ない
 夜雨、草庵の裡(うち)      草庵の外の雨の音を聞き
                  ながら
 雙脚(そうきゃく)、等閑に伸ばす 足を長々と延ばしてい
                  る。他に何が要ろうか

 良寛さんの清貧の生活をよく表したもので、筆者を含めたファンたちの大好きな詩でしょう。ただ、良寛さんの気負いが感じられ、漢詩としての情感もいまいちですね。

 「焚くほどの」の句にもどります。この良寛さんの句は、一茶の「焚くほどは」の句より断然すぐれていますね。それは、前述のように良寛さんの禅の心が表わされているからです。

(註1 道元以来、一休、白隠などのすぐれた禅師がいたと言われているのですが、著書がほとんどなく、思想がよくわからないのです。これに対し良寛さんの悟境は、たくさんの漢詩や短歌、俳句から知れます。じつは、それらの資料さえ良寛さんはありあわせの紙に書き散らしていたのですが、死後、愛弟子の貞心尼が整理して残してくれました。ありがたいことです。)

禅の心を生きた人‐良寛さん(2)

 良寛さんの「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」の句は、小林一茶の「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」の後で作ったと言われています。ほとんど同時代の人で、一茶の句は当時からよく知られていたそうです。なにせ一茶は、俳諧の世界の一方の雄でしたから。筆者は一茶の終の棲家、長野県柏原も訪ねたことがあります。火事で母屋が焼けたため、移り住んだ土蔵改造の建物でした。

 一茶の句は、「風が私に葉をくれた」。良寛さんの句は「風が吹いて葉が私のところへ飛んで来た(だけ)」ですね。前者が、風(自然)と私(一茶)を対立的にとらえているのに対し、良寛さんの句には風(自然)から私(良寛さん)への働きかけなどありません。「なるようになっているだけ」なのです。ここが重要なのです。

 筆者はこのブログシリーズで、
 ・・・空(くう)とは、私が対象物を見た(聞いた、さわった・・・)体験そのものが真実だというモノゴトのみかたである・・・
と、お話してきました。そこには私と対象の区別はありません。「両者は一体」(というより、禅では「一如」)です。禅の達人である良寛さんはとうぜんその考えを体得していたはず。そのため一茶の句を知って「私はちがう」と言わざるを得なかったのでしょう。他人の、しかも有名な句を勝手に変更したのは、やや穏当ではないようですが、良寛さんのひたむきさがそうさせたのでしょう。

 「焚くほどは、風が持て来る落ち葉かな」の句は、まさに自然と人間が一体化した世界を表わしているのですね。なぜこの禅のモノゴトの見かたが画期的であるかは、おいおいこのブログシリーズで、さまざまな方向からお話していきます。

 でも一茶を良寛さんと比較しては気の毒だと思います。なにしろ良寛さんは「永平寺より厳しい修行の場」と言われた備中玉島の圓通寺で10年にわたる厳しい修行を積み、印可を受けた人です。それに対し、一茶は、すぐれた句をたくさん残した人ですが、なんと言っても農民出身なのですから。一茶が継母や義弟と熾烈な遺産相続争いをしたことはよく知られています。「嚢中に三升の米と、炉辺に一束の薪があれば十分だ」と読んだ良寛さんの心境とはおのずと次元がちがいますね。

禅の心を生きた人 良寛さん(3)-芭蕉と山頭火

 友人であり、このブログシリーズを読んでいただいている人たちと一夜、歓談しました。筆者が良寛さんについて熱っぽく語りますと、そのうちのお一人が、「良寛さんが家庭も持たず、子供も残さなかったのは、生物の一員としての天の摂理に反するのではないか」と指摘されました。理屈はわかりますが、それでは子供さんができなかったご夫婦に失礼だと思います。まあ、酒の上でのことと許容されます。また、筆者が「良寛さんが一生、物乞いして生きたのは大変なことだ」と言いますと、「でも晩年はどうしたろう」と疑問が出されました。

 まず第1の疑問について:
 「もう少し広い視野で見てあげてください。禅の世界では、家庭を作ろうと子供ができようとできまいと、是非の判断は一切無いのです。地位がどうとか、財産や教育の有無についても同じことです。家庭を持ち子供を作れば喜びはもちろんですが、それなりの悩みもあります。高い(?)地位に付けば組織をまとめて発展させて行く苦労も付いて来るのは当然です。
 良寛さんはたぶん、禅の心を一生掛けて体現したいと決心し、それをやり遂げるには幸せな家庭を築くことは無理だと考えたのでしょう。「社会人としてちゃんと生き、幸せな家庭を築きながら禅の道を体現することができる」というのは、「言うは易く・・・」でしょう。良寛さんは自分の将来の限界をはっきりと見通したのでしょう。

 良寛さんは、備中玉島の禅寺で、10年にわたる厳しい修行を積み、印可を受けた人です。いずれ、しかるべき寺の住職になり、生活は安定し、弟子たちからも尊敬される一生を送ることもできたはずです。しかし、あえてその道を放擲したのです。自由が縛られると思ったのでしょう。

 あの松尾芭蕉や、自由律俳句の種田山頭火も自然と一体化し、自由に生きた人です。芭蕉の「静かさや・・・」や「古池や・・・」、「荒海や・・・」の句はそのまま禅の心を表わしたものかもしれません。山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」や「うしろすがたのしぐれてゆくか」の句も同様でしょう。しかし、それぞれ日本各地に信奉者がおり、そこを訪れて句の添削をすれば当然謝礼もいただけたでしょう。「奥の細道紀行」など、彼らの経済的支援があったからこそ成し遂げられたと思います。筆者も山頭火は尾崎放哉と並んで好きですが、二人共大酒のみで、どれほど支援者に迷惑を掛けたかわからないのです。
 山頭火も芭蕉も、それぞれ立派な句集を残しました。一方良寛さんは、詩集「草堂集貫華(そうどう しゅうかんげ)」と歌集「布留散東(ふるさと)」を残しました(いずれも現代の複製があります)が、あとは散らした歌や詩を弟子の貞心尼たちがまとめてくれたおかげで、今日私たちが味わうことができるのです。つまり、芭蕉や山頭火などの「句の宗匠」とはまったくちがうのです。

 第2の疑問「晩年も物乞いをしたか」について:

 晩年は、越後の大庄屋で文化人であった阿部定珍(さだよし)や、解良栄重(よししげ)などに良寛さんの学識や歌が自然に認められ、肩の凝らない交友が始まり、援助と言うより「気軽なお土産」として、いろいろなものをいただいたようです。

  ちんばそに酒にワサビにたまはるは春を淋しくあらせじとなり
(ほんだわらや酒やワサビをいただいたのは、私の春が淋しくないようにとのお心づかいからでしょう)

良寛さんと語り暮れて帰ろうとする友人に、

 つきよみの光を待ちて帰りませ、山路は栗のいがの多きに
(月が出てからお帰り下さい。山道は栗のイガも多いでしょうから)
と詠んだのも二人の温かい交情がよく出ていますね。

 またある秋の夕暮れ、良寛さんが一人の老農夫に呼び止められ、とうもろこしやどぶろくをご馳走になり、「こんなものでよかったらいつでもお寄りください」と言われたとの歌が残っています。

ことほどさように、筆者のような良寛さんファンには、つぎつぎにその歌やエピソードが出てくるのです。

禅の心を生きた人(4)良寛さんの悟境-道元以来の人

 ただ、良寛さんはけっしてすべてを受け入れ許容した人ではなかったと筆者は考えます。そんな人だったらとても敬愛できないでしょう。孤独な生活や、冬の寒さを、「淋しい、さみしい」とか、「寒さが腹にしみとおる」と正直に、なんども詠っています。それだけに春が来て子供たちと遊ぶのが心から楽しかったのです。
 
 きわめて純粋な人であったことは、堕落した同僚の修行僧たちに対する、若い時の厳しい批判の詩からわかります。とほうもない寛容の人だと考えては、良寛さんの禅の心はわかりません。「ぐっと我慢して表面は笑顔で」では、自由な心とは言えませんね。いやなものと付き合うより、避けることで自由さを保ったのだと思います。失火したと無実の罪から殴られても、されるままにしました。「経もあげずに子供たちと遊んでばかりいて」と非難されても、「私はただこういう人間です」とつぶやくだけだったのです。いずれについても詩を残しています。
 
 会って心地よい人達とだけ付き合い、好きなことだけをして自由気ままに過ごす。そのためには家庭や社会的地位、生きる糧を得るための社会的手段をすべて放棄したのです。新潟県北部の国上山にある五合庵に行くと、托鉢や、寒さ防ぎがどれほど大変だったかよくわかります。厳冬期など、明日の米も心配しなければならなかったでしょう。それでも、社会と関わって生活の糧を得るより、自由を選んだのです。自分の心にあくまでも忠実でありたいと思ったのでしょう。良寛さんはそれをやって見せてくれた人なのです。禅の心とは、なによりも自由な心なのですね。

 良寛さんの悟境は、道元以来だったと思います。なるほど道元以降、一休禅師や沢庵和尚、白隠など有名な禅師たちはいます。しかし、みんな基本的な生活は保障されていた人たちなのです。組織を作り、組織に入ればそれなりに自由が奪われるでしょう。「三升の米と一束の薪さえあれば十分だ」と歌った良寛さんの心境とは比べモノにならないのです。

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