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飯田史彦さんについての読者の質問

 読者のSさんから

「・・・飯田史彦さんを検索していてこちらにたどりついた者です。
私が時々見ているYouTubeの「和yogiチャンネル」では
飯田史彦さんの本の内容などから引用したお話をたくさん載せてます。
私は一つ一つに感動しながら見ているんですが
こちらのホームページで飯田さんについて書かれていることを読んで
よくわからなくなってしまいました。
もしお時間がありましたら和yogiチャンネルをご覧になって
和さんにもアドバイスしていただけたら幸いです。
こちらを見てからいろんな方向からのお話や意見を知りたいと思いました・・・

とのお便りがありました。

 結論からお話します。ご心配いりません。私は飯田史彦さんの考え方に疑問を呈したのです。前世があることまで否定したわけではありません。筆者自身、霊の存在をいやというほど実体験しています(ブログをお読みください)。

 すでにブログでお話したように(2017年4月)、飯田史彦さん(1962‐)は元福島大学経済学部経営学科教授。「生きがいの創造」「同II」「生きがいの本質」(PHP文庫)など著書多数。さらに活発な講演活動もしている人です。とくに、飯田さんの「生きがい・・・」シリーズは全部で200万部以上の大ベストセラーになったということです(「生きがいの創造」での著者紹介から)。それだけこのシリーズで紹介した「人は死んでも魂は不滅」とか、「いつかまた死者に会える」、「生まれ変わってまた家族になれる」などの言葉が、多くの人に死の不安や家族を失った悲しみを癒してくれると受け取られたからでしょう。しかし、筆者はこの飯田さんの発言に強い疑問を持っています。

 「これは怪しい」とすぐに気付いたのは、これらの著書シリーズの随所に「批判に対する予防線」や「自己弁護」が目立つことです。飯田さんのような大学の研究者が、スピリチュアリズムについて話すのには、学内外からの大きな抵抗があったからでしょう。「いったいそんな不確かなことを大学教師が言っていいのか」とか、「それらの発言はあなたの研究とどういう関係があるのか」とか、「沢山の著書を出しているが、大学での研究や講義に差し支えないのか」などの批判だと思います。筆者も研究者でしたからから、それらの批判があることはよくわかります。飯田さんは元経営コンサルタントでもあり、とても話が上手です。それが彼の著書がベストセラーになった大きな原因と筆者は考えています。

 筆者がこれらブログシリーズを書いてから、ある牧師さんから次のようなメッセージをいただきました。・・・信者の中に「飯田さんの『生きがいの創造』シリーズを読んでとても感動した」とおっしゃる方がいます。私(牧師さん)はその考えに疑問を感じていましたが、中野禅塾のブログを読んで納得できました。飯田さんの著書を多数、精密に読んでいただき感謝しています・・・とありました。その後、ご当人からもメールがあり、「うちの牧師さんからのメッセージではありませんか」と言われて、ちょっと困りました・・・。

 「人間には生まれ変わりがあるのではないか」について、もっとも詳細に研究したのは、元アメリカバージニア大学教授イアン・スチーブンスン博士です。博士の研究姿勢は科学的で、筆者も十分納得できます。しかし、博士は、退行催眠による前世の探求には重大な欠陥があることを指摘しています(「前世を語る子供たち」笠原敏夫訳 日本教文社)。すなわち、

・・・薬物を使うにせよ(幻覚剤LSD:筆者)瞑想(による方法もある:筆者)や、催眠(による方法もある:筆者)を利用するにせよ、前世の記憶を意図的に探り出そうとすることにはあえて反対の立場をを取りたいと思う・・・心得違いの催眠ブームを、あるいは前世と思しき時代まで遡る大半の催眠実験の、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を・・・何とか終息させたいと考えている(同書p7、下線筆者)・・・と明言しています(註1)。ちなみに飯田さんが紹介する生まれ変わりの事例はほとんどすべてイアン・スチーブンソンの著書の孫引きです。

 飯田史彦さんに対する疑問については、ブログをお読みください(2017年4月)。その後飯田さん退職しました。その理由はわかりません。現在は京都で「飯田史彦スピリチュアル・ケア研究所『光の学校』校長」をしており、「音楽療法」なるパフォーマンスをして、自らもギター演奏をしています。

 ちなみに筆者はSさんのお申し出に従って、「和yogiチャンネル」も視聴しました。和(かず)さんは正統なヨギで、おっしゃることは、いわゆるスピリチュアリズム(心霊学、神智学)です。その多くは筆者も共感できますが、とくに目新しいところはありませんでした。ただ、飯田史彦さんの著書内容を多数引用しているのは頂けません。ある人が日本の前世療法医のところで診てもらったところ、「20万円も取られ、私の前世の調査もかなりいい加減だった」と言っています。まさしく 金儲けの対象にしてい たのですね。結局その医院は「前世療法」を止めました。

 Sさんご自身がおっしゃるように、スピリチュアリズムだけでなく、禅など仏教全般についても勉強してください。

註1イアン・スチーブンスンは決して前世があることを全否定しているわけではありません。当然ですが。・・・結果については懐疑的ではあるが、全てを無意味だとして切り捨てているわけではない(p78)・・・ と言っています。

禅と神(仏)(3)

 筆者が「禅を正しく理解するには仏(神)の視点から見ることが大切だ」と言いましたら、読者のお一人から「納得できない」とのコメントがありました。筆者は「あらゆる宗教は根底に神(仏)を置いている」と思っています。そこで今回は、もう一つの例証を述べます。

  宮沢賢治が法華経に強く惹かれ、その作品にも法華経の精神が滲み出ていることはよく知られています。臨終(37歳)に当たって父親から「何か言い残すことはないか」とき聞かれると賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください。『私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますように』ということを書いておいてください」と遺言しました (「兄のトランク」宮沢清六 筑摩書房刊 1991)。

 「法華経・常不軽菩薩品第二十」に常不軽(じょうふきょう)菩薩の話が出ています。常不軽菩薩は、出会った誰に対しても、

・・・私はあなたを心から尊敬し、決して軽蔑しません。あなた方は菩薩道を行じさえすれば、やがて必ず仏となることのできる尊い御身であります」と言って礼拝しました。短気の者は馬鹿にされたと思って罵り、また中には杖で打ちかかる人、石や瓦を投げつける人もありました。しかし、この菩薩は決して腹を立てず、怒らず逆らわず、遠く離れて拝み続けたおかげで、遂に六根清浄を得て成仏し、広く法華経を説いて迫害した人々まで全て成仏せしめた・・・ 

「あらゆる人は仏になれる」と言っているのですね。言うまでもなく法華経の根底には仏(神)があるのです。当然でしょう。

 賢治は「雨ニモマケズ」の中で、

・・・ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノトキハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ ・・・

と歌っています。「デクノボー」こそ、賢治が理想とする常不軽菩薩なのです。

 筆者のブログを熱心に読んでいただいている読者のお一人は、「神や仏、霊魂の存在を信じろと言われても・・・」と。そのとおりでしょう。新宗教や新々宗教の中には、ずいぶん怪しげな「神」もありますから、それを信じろと言われたら躊躇するのが当然です。

 作家の志賀直哉は、とある山道に並んだ石仏を蹴倒したとか。その後、子供を次々に亡くし、自身も電車にはねられ大ケガをしました。心配した夫人が「石仏に謝り、供養したら」と言ったところ、志賀は「そんなことをして悪いことが止まったら、それを信じることになるから」と拒否したとか・・・。

 筆者は誰がどう思うと、どんなことをしようと関知しません。逆に、「生命は神によって造られた」と直感した筆者は幸せだと思っています。

デフォルトモードネットワーク(3)

 デフォルト・モード・ネットワーク(Default Mode Network 以下DMN)という概念が注目されています。NHKサイエンスZERO”ぼんやり”に潜む謎の脳活動(2014)でも取り上げられました。 DMNとは、ワシントン大学のマーカス・レイクル教授が命名した脳の働きのことで、ぼんやりした状態の脳が行なっている神経活動のことです。これまで、私たちの脳は、話をする、本を読む、といった意識的な仕事を行っているときだけ活動し、何もせずぼんやりしているときは脳もまた休んでいると考えられてきました。しかしレイクル博士は、この脳のアイドリング状態に費やされているエネルギーは、意識的な反応に使われる脳エネルギーの20倍にも達することを発見しました。活発な神経活動が行われているのですね。しかも、この脳の「基底状態」では、複数の離れた脳領域がネットワークでつながり、同期・協調して働き、過去の整理をしたり、未来の予測をすることができると言うのです。

 この考えはさらに発展し、DMNが活発になると創造力が高まり、いろいろなアイデアが浮かんで来やすくなると言われるようになりました。禅に興味がある人が、瞑想や悟りに達する道と考えたのは自然の成り行きでしょう。それが読者のAさんの言う「DMNは空です」となり、Huさんが反論した「DMNは色即是空です」に発展していきました。

 一方、これとは逆に、取り止めもなく過去の苦しかったこと、悲しかったこと、無念だったことを思いだしたり、未来のことを心配したりするのが過剰になると、不安に捉われてうつ状態になるという考えもあります。そこで、うつ状態から抜け出るため、DMN状態にある自分に気づき、瞑想によって治すという考えに至りました。これがマインドフルネス瞑想です。

 しかし、筆者は、これら一連の動きに「何かおかしい」と感じてきました。考えた結果の、その理由が以下の通りです。

 これらの考えには、多くの人の誤解と混乱があるのです。まず、DMNはたしかに瞑想状態に似ています。その時良いアイデアが浮かぶこともあると思います。筆者も研究結果にの意味を一心に考察している時には良い考えが浮かばず、集中を離れた時「パッ」と良いアイデアが生まれたことがあります(現在では、朝、目が覚める前、うつつの状態時に良い考えが浮かぶことが何度もあります。先日には、夜中の1時過ぎに一度目が開いた時、とても良い考えが浮かび、「このまま起きてブログ書きをしようか」と思いました。さすがにそれは止めましたが・・・。もちろん、翌朝になってもその考えは記憶していました。よく、「枕元に紙と鉛筆を置いておけ」と言われるのはこのことだと思います)。

 しかし、DMNは「空」でも「空即是色」でもありません。それはすでにブログに書きました。どうも「何かよくわからない状態」とか「瞑想状態」を「空」と結び付けたがるる人がいるようです。

 さらに、DMNをマインドフルネス瞑想と結び付けるのは誤りです。DMNで脳は「あれこれ考えてはいない」状態であり、脳の暴走とは対極にあるのです。つまり、両者はまったく違うのです。もちろん、マインドフル瞑想によって脳の暴走を治すことはまちがっていません。それとこれとは別のことなのです。

(1)多賀谷亮、最高の脳の休息法、ダイアモンド社(2017)

禅は難しくない(2-3)

 ただ、わかったかわからないかの世界です

 2)筆者のブログを熱心に読んでいただいている方から、「難しいので初級、中級、上級用と分けてください」とのメールがありました。恐縮しています。筆者はもともと「初級者の方にもわかりやすく」を目指して書いていますが・・・。

 「禅はむつかしい」。たしかに「正法眼蔵」は日本で最も難解な古典だと言われていますし、「無門関」、「従容録」などの、さまざまな禅の公案集は、まさに「禅問答」と言われる、一見わけのわからないものが多いです。しかし、これらの書物を懸命になって読み砕いて、最後に残ったエッセンスを味わってみますと、じつはそんなに難しいことではないことがわかります。「スッタニパータ」などの原始仏典には、お釈迦様の言葉が色濃く残されていると思われますが、それらは、どれもだれにでも理解できるやさしいものばかりです。当然でしょう。晦渋な理論にしたのは、すべて後世のインドの仏教学者たちなのです。そこで筆者が学んだエッセンスについてお話します。

 まず禅の要諦は、こだわらないことです。筆者は、さまざまな禅の語録を読みました。初めは難解ですが、だんだん読み解いていきますと、「こだわらないこと」の教えが禅の心の要諦として浮かび上がってくるのです。概念の固定の否定ですね。過去のつらかったこと、腹立たしかったこと、悲しかったことはよく思い出すものですが、思い出しそうになったら「アッいけない」と止めるのです。それを繰り返していますといつか忘れます。大切な知恵ですね。

 第二に、今日を生きることです。過去はもうない。未来はまだわからい。今日だけを真摯に生きる。これが禅の要諦「空」の実践なのです。

第三に、質素な生活。良寛さんはまことに質素な生活で一生を送りましたが、だれよりもこころ豊かな人生を送った人です。

 第四に、他人のことを自分のことのように。キリスト教では「汝を愛するように他人を愛せよ」と言う言葉があります。「他人のことを自分のことのように」考える人は筆者の同級生に何人もいます。彼らは社会的にはあまり目立たない人たちばかりです。一方、筆者の知人にも社長や上級の国家公務員になった人もいます。しかし、定年後すべての肩書が取れて、素の人間にもどってみると、むしろ目立たなかった人たちの方が人間的に立派でした。それは筆者が定年後彼らと再会して発見した大きな驚きでした。

 第四に、生かされていることの感謝でしょう。父母の愛は言うまでもありません。師の愛、衣食住すべてを得て生きて行けるのは、たくさんの人々のおかげであること常に自覚し、あらためて感謝の日々を送ることです。筆者は、命は神によって造られたと確信していますが、ピンと来ない人も多いでしょう。それはごく個人的な体験ですから、一先ず「そういうことか」と思っていただいて結構です。臨済宗の宗祖臨済は、はっきりと人間には肉体の他に神に通じる本当の我があると言っています。それについては、以前のブログ「禅と神(仏)」「赤肉団上一無位の真人あり」をお読みください。

 次は宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩です。賢治は熱心な法華信者でしたが、この詩は今お話した禅の心にぴったりですので、一部をご紹介します。

 〔雨ニモマケズ〕
・・・慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ(清貧ですね:筆者、以下同じ)
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
・・・・
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ(奉仕の精神ですね)

3) 平常心是道(びょうどうしんぜどう)

 以前のブログ「無門関・第十九則 平常是道」で紹介しましたが、今回のシリーズ「禅はむつかしくない」の良い例と思いますので、もう一度ご紹介します。

 「平常心」・・・誰にとっても大切な言葉ですね。じつはこれは禅の要諦を表す有名な言葉です。趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778 – 897)は、中国の唐代の禅僧。

如何是道(いかなるかこれどう)


 趙州和尚(註1)が師の南泉禅師に「如何是道」(道-人間のあるべき姿-とはどんなものでしょうか)とたずねた。
 南泉:平常心是道(ふだんの心こそが道である)。
 趙州:その心はどのようにしてつかむことができるのでしょうか
 南泉:つかもうとすれども、つかむことができない
 趙州:つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないでしょうか
 南泉:道は考えてわかるようなものではない、しかし、わからないといってしまうこともできない。考えてわかるというものであれば妄想になってしまう・・・(以下略)

筆者のコメント:趙州はその答えを聞いて悟ったということです。でも、まさに禅問答ですね。これでは何のことかわかりません。この話には続きがあります。

 この公案をわが国の義介禅師(註2)が説き示されると、弟子の瑩山禅師は「日常あるがままの心が仏道そのものである」。瑩山はたちまち心が開け、「我れ会せり(わかりました)」と思わず叫んだと言います。

筆者のコメント:日常あるがままの心・・・じつは簡単な「心」ではありません。深い意味があります。「論語」に「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。 」とありますし、前回お話した、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」

の心でしょう。

・・・慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
・・・・
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ・・・

でしょう。

義介と蛍山の対話は続きます。

 義介:さらにその意を述べよ。

 蛍山:茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては、飯を喫す

筆者のコメント:「こだわることなかれ」ですね。筆者も日常で「アッこだわっているな」と気が付きますと、この言葉を思い出します。

註1 この公案は「無門関第十九則 平常是道」にあります。

註2 鎌倉時代の曹洞宗禅僧。総持寺派の祖(1268-1325)。

禅の正しい修行-ルークルークさんへの回答


 (1)禅寺での修行

 読者のお一人ルークルークさんから「悟りへ至るまでの修行法を教えて下さい」とのご質問がありました。しかし、筆者は回答しませんでした。「答えを教えてください」と同じだからです。自分でさまざまな本を読み、いろいろ試して、判断しなければどうしようもないからです。ただ、お気持ちはわかりますので少し言い方を変えてお話します。

 まず、釈迦も道元も「僧侶になりなさい」と言っています。つまり、家庭を捨て、友人達とも別れ、仕事も辞め、修行だけの生活に入りなさいと言うのですね。その伝統は、現代にまで続き、永平寺(曹洞宗)、美濃加茂市正眼僧堂(臨済宗)、高野山金剛峰寺(真言宗)などで昔ながらの厳しい修行生活が行われています。また村上光照さんは、寺を持たず、「呼ばれた場所で(一所不在)」数人の弟子たちと共に修行三昧の日々を送っています(あの良寛さんが修行した、永平寺より厳しいと言われた岡山県倉敷市円通寺は、今は観光寺院になっています)。たとえば正眼僧堂では、朝3時起床から夜9時の就寝まで、日常生活のすべてが修行で、食べ物は托鉢と、近隣住民からの喜捨で賄われています。座禅や師家と弟子の問答はもちろん、作務(労働)、読経(声を出して唱える)、看経(黙読)から食事から托鉢に至るまで、事細かに作法が決められています。作家の中野孝次さんはそれらをトリビアリズム(瑣末主義)と呼びましたが、的を外れた表現で、別のちゃんとした理由があるのです。そういう生活を一生続けている禅師はたくさんいらっしゃいます。それほど厳しい修行生活が必要だと言うのでしょう。

 驚嘆すべきことですね。正眼僧堂の師家山川宗玄さんと弟子たちの修行の様子はNHKテレビでもくわしく紹介されました。しかし、筆者はもちろん、ルークルークさんがやりたくてもやれないことでしょう。

 ただ、筆者はそれらの修行にやや疑問を感じるところもあります。一生家庭を持たないで過ごす、映画は見ない、小説も読まず、趣味も持たない生活・・・テレビも見たことはないようです。筆者の疑問は、そういった一生を過ごせば、人間としての幅が極めて狭められると思うことです。それでは「自分とは何か」の、禅の最大の課題を究めるのに、あまりにもチャンネルが少なすぎるのではないでしょうか。・・・・・いかがでしょうか。さらに、筆者は、永平寺での禅問答をテレビで視聴したことがありますが、かなり形式に堕しているようでした。

 じつは筆者は、在家のままでも悟りに至ることはできると考えています(在家仏教-僧侶の資格を取り、自宅で修行-という言葉は好きではありませんが)・・・真摯に自分の義務を果たし、モノゴトにこだわらず、苦境に耐え、清貧を良しとし(ただ足るを知る:吾唯知足)、他人のことを自分のことのように考える一生を送った人はたくさんいます。すばらしい人たちでした。彼らは禅にも仏教にも興味を示しませんでしたが、そういう人たちと、厳しい修行で一生を送った人たちと、境地にどれだけの差があるのでしょうか。前述の、山川宗玄さんのお話を半年間にわてって聴きましたが、筆者にはどうもピンと来ませんでした。筆者が見聞きした知人たちの言動には感動するところが多かったのです。少なくとも、厳しい修行で一生を送った人より、周囲を明るくしたと思います。

 (次回に続きます)