禅語 庭前柏樹子‐小川隆博士の解釈
今回は小川隆博士(1961-、駒澤大学教授)の提唱しているこの公案の解釈について、他の仏教家や、筆者の考えと対比してみます。小川博士は「語録の思想史‐中国禅の研究」(岩波書店)の中で、「入矢義高博士(1910-1998京都大学名誉教授、元禅文化研究所長)の『当時の文化や関連項目と共に考えつつ、禅語録を解釈する』を尊重する」と言っています。すなわち、
庭前柏樹子(趙州從諗《じょうしゅうじゅうしん、778-897》の公案、「趙州録」)について、
僧、趙州に問う「如何なるか是れ祖師西来意」
趙州曰く「庭前の柏樹子」
小川博士は「別の類例を探すと(これが入矢博士流のやりかた)、
(恐らく初心者の)質問:如何なるかこれ学人の自己(私の自己とはなんでしょうか)に対し、
趙州の答え:はた庭前の柏樹子をみるか(庭前の柏樹が見えるか。庭前の柏樹が見えている自分に気付け)
を引用し、「趙州は『それを見ている者は何者か。見ている己自身はどこにあるか』と答えているのであろう」と言っています。小川博士の他の公案「祖師西来意」、「麻三斤」などについての解釈も合わせて考えますと、「仏とは人間の心の問題だ」が、小川博士の禅についての基本的見解だと思われます(小川博士による別の禅語「祖師西来意」や、「麻三斤」も重要な公案ですから、別の機会にお話します)。
この庭前柏樹子の公案は「無門関」では、
僧、趙州に問う「如何なるかな是れ祖師西来意」
州曰く、「庭前の柏樹子」
までですが、原典の「趙州録」では、
僧、趙州に問う「如何なるかな是れ祖師西来意」
州曰く、「庭前の柏樹子」
僧曰く、「境をもって人に示すことなかれ」
州曰く、「吾、境をもって人に示さず」
僧曰く、「如何なるかな是れ祖師西来意」
州曰く、「庭前の柏樹子」
となっています。そこを斟酌しつつ別の人の解釈を紹介しますと、
1)Aさん:この僧は未熟にも「心と境(対象:筆者)」を対立関係に見てるから、心境一如を体現している趙州和尚の答を理解できなかったのだろう。内外に広がる自然をどの様に表現しても真意は同じで、「庭前の柏樹子だ、天地一枚の柏樹子だ、祖師西来意だ、禅だ、仏だ、悟りだ」などの言葉は、無心ゆえに、自他一如となっている趙州和尚は、迷わされ、惑わされることなく、相手の潜在意識にある課題に対して「ズバッ」と応えている・・・つまり、趙州和尚はほんの数秒間で『己と大宇宙は同根』を知って、『無心の心』を体現して生死していることをを未熟な僧に示し、その遣り取りを通じて我々に『無心の心』の「あり様」を直指人心しているのである、としています。
2)臨済宗黄檗宗公式サイト(山田無文師の解釈)では、
・・・この僧は心と境とを対立的に見ての問いです。趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師の心には境など存在しないのです。庭前の柏樹子、ただただ、庭前の柏樹子です。天地ヒタ一枚の柏樹子です。祖師西来意だの、禅だの、仏だの、悟りだのという小理屈は捨て切って、天地一パイの柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです・・・
つまり、1)と2)の解釈は同じで、小川博士のは明らかに違いますね。ことほどさように禅の解釈はさまざまなのです。
次に筆者の解釈を示しますと、祖師が西来された目的は、「空」の正しい意味(註1)、つまり、「新しいモノゴトの観かた」を伝えるためです。したがって、修行僧に禅の本質は」と聞かれて、趙州が答えた「庭前柏樹子」の意味は、「あの庭の柏樹だ」と言われて思わず見た僧の体験です。つまり、筆者が繰り返している「空」理論を示したのです。
いかがでしょうか。どの解釈が正しいのか、読者の判断にお任せします。
(註1 以前のブログでお話したように、禅の「空」の意味は、龍樹の「空」の意味とは違います)。
中野さん。質問に丁寧にお答え下さいまして、本当にありがとうございます。
『禅を正しく、わかりやすく』の第2巻は少々高価で手が出かねております。(笑い)
切羽詰まって質問しても、答えていただけないこともある禅界において、誠実にお答えいただき、ああ、この人は本物なんだなあ(失礼をお許し下さい)と思いました。今後ともよろしくお願い申し上げます。
ご回答はじっくりと学ばせていただきます。
ありがとうございました。
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中野さんの私の質問に対するご回答を精読させていただき、誤解していたところを訂正させられ、中野さんのおっしゃられていることは正しいのではと、今は思っております。ありがとうございました。
また一つ質問がございます。それは悟った禅僧は普段日常的にはどうあるのか、ということです。或る人が、「人間の行動は初一念の連続であり、時々(タマに)、利害得失の智恵が入ってきているというのが本当のところです。」と書いておられました。これからすると、
質問① 凡夫と、未熟な禅僧と、悟った禅僧とは紙一重なのではありませんか。人は本来仏であることを気づいているかどうかの差でしかないのではないでしょうか。
質問② 石ころも仏(仏性、仏性の開花、仏の顕現)ではないでしょうか。
質問③ 中野さんは、「悟りに至った禅僧はいつでも「無我」の状態になれる」「「見たモノと観たモノを一如とする」ために必要だからです。すぐれた禅僧はそれらを自在に一如にすることが出来ます。」「禅僧が人生を掛けて修行するのは、「本当の我(私)」を引き出し、その眼でモノゴトを観るためです。」とおっしゃられております処からしますと、悟った禅僧は四六時中(24時間365日)「本当の我(私)」ではなく、普段は凡夫と変りはなく、ただ凡夫と違って、必要に応じて、いつでもどこでも、そのつど「本当の我(私)」になれる、ということでしょうか。それとも、いつもはほぼ「本当の我(私)」でときどき(タマに)凡夫になる、ということでしょうか。
以上三問、恐縮ですが、御教授賜りますれば幸甚に存じます。
「庭前の栢樹子」はその眼から世界が見えている自己(実体はなく縁起によりあるもの)から修行が始まるのだということを言っていると思います。
玄沙師備も石に躓いて痛いと感じ、その眼から世界が見え、叩かれると痛いこの自己に気づき、「尽十方世界、是一顆明珠」と言ったのだと思います。
メール嬉しく拝読しました。「モノゴトは縁起によって生じているのだから実体はない」という解釈は誤りです。現代の仏教解説者や僧侶の宿痾でしょう。
その理由を筆者のブログシリーズで何度もお話しています。
早速のご返事ありが等ございました。「実体はなく縁起によりある」を「本質はなく実存だけがある」と書き換えます。「是什麼物恁麼来」の什麼物と一緒です。
早速のご返事ありが等ございました。「実体はなく縁起によりある」を「本質はなく実存だけがある」と書き換えます。「是什麼物恁麼来」の什麼物と一緒です。
内山様
「什麼物」はよい表現だと思います。ただ、「本質はある」と思います。だからこそ「空即是色」なのです。やはり「色即是空・空即是色」と認識することが禅の要諦でしょう。