「同行二人」さんへ

「同行二人さん」の筆者の龍樹「中論」批判に対する反論について

 「同行二人(以下同行)」さんから、筆者の龍樹の「中論」思想(およびその思想を受け継ぐ中観派)批判に対して反論(反発?)がありました。もちろん筆者が、現代の大乗仏教の思想的原点と言われる「中論」に異を唱えたのですから、反発は想定内のことです。結論から言いますと、「同行さん」の反発からは別に筆者の考えを修正すべきものはありませんでした。しかしよい機会ですから筆者のブログシリーズの基本姿勢について以下にお話します。

 まず、「同行二人」などというハンドルネームはやめませんか。いやしくも自分の考えを述べるのに匿名を使うのはいかがなものでしょう。ほとんどのHPの作成者が意図的に匿名とし、所属さえも秘密にしているのは、読者の皆さんもよくご存じのことでしょう。「こちらからの一方的発信です」と言う人さえいます。いずれも読者からの無責任で礼を失した批判もあり、だんだん双方が感情的になり、時には「炎上」するからでしょう。本来あるべき、双方が学び合うことから遠く離れ、しこりが残るだけだからです。
 これに対し筆者は、最初から実名と経歴を明示しています。自分の意見に責任を持っていますから当然です。それどころか読者から意見をお聞きするコーナーまで作りました。最近、ある別の読者から、お名前も経歴(臨済宗のある寺の住職)も名乗った上で貴重な御意見をいただいております。それらはすべて別のファイルに移し、充分に参考にさせていただいています。その方が筆者との問答を通して「学びたい」と考えていらっしゃることがよく分かりました。「同行さん」となんという違いでしょう。

「同行さん」の反発の内容について
 要するに「同行さん」の反発の主旨は、筆者が龍樹の「中論」の内容に懐疑的で、それを理論的基盤とする大乗仏教を否定したからでしょう。さらに、龍樹の批判の相手である初期仏教の「切一切有部(以下有部)」の思想、さらには「梵我一如」で有名な、仏教以前のウパニシャッド哲学の思想を尊重していること、つまり大乗仏教批判に対する「同行さん」の「いらだち」でしょう。まず、確認したいのは、これら各思想に対して、筆者はいかなる予断も思い入れもなく学んでいる姿勢です。言うまでもないことです。それらの思想を慎重に比較検討し、筆者の十年にわたる神道での修行体験を総合して考えると、どうしても大乗仏教より、有部の考えやウパニシャッド哲学を「よし」とするのです。純粋な学問的思考としてそう結論付けているのです。筆者は別に仏教を信奉していませんし、貶めてもいません。純粋に一つの思想として論究しているのです。

 いわゆる大乗経典類が釈迦の思想とはかけ離れたものであることは、江戸時代の学者富永仲基によって論証されて以来、現代では定説になっています。法然や親鸞などの「新」宗教の宗祖が延暦寺を飛び出したのは、旧来の大乗の教えが到底当時の大衆の心にそぐわなくなったと感じたからでしょう。かれらは、既存の大乗とは(じつは)何の関係もない「南無阿弥陀仏」や、の教えを創始したのです。これが大乗仏教を否定でなくてなんでしょう。法然が、自ら承知しながらほとんど「屁理屈を付けて」大乗の観無量寿経に依拠する形をとったのは、わが国におけるそれまでの大乗仏教の歴史を考え、ムダな摩擦を避けたかったからでしょう。つまり法然や親鸞は釈迦の思想から逸脱した大乗からさらに飛躍した人なのです。法然の考えをきちんと読めばすぐわかります。その筆者の考えはすでにブログに書きました。

 禅についても同じです。「同行さん」の言う「大乗仏教を否定することは禅を否定することだ」には「またか!」と思います。よく「禅思想の根源は大乗の般若系思想にある」と言われますが、あまりにも勉強不足です。禅は大乗仏教から大きく飛躍して別の思想になったのです。それは禅をきちんと学べばわかります。主に中国唐代のすぐれた禅師たちの命懸けの努力によるものです。禅の解釈に大乗思想を援用することこそ、これまでのわが国の禅家や解説者の病弊だと思っています。

 今、日本仏教が滅びつつあることは明白です。あの東日本大震災のあと、被災者の助けになろうと乗り込んだ有名大乗系寺院のエリート僧たちは、そろって挫折しました。全国に7万以上もあるお寺からどんどん檀家が減り、経営的にも破綻の瀬戸際にあることはよく報道されます。その最大の理由が、日本仏教には魅力がないことでしょう。大乗思想を聞いても心に響くものが何にもないからに違いありません。今こそもう一度大乗思想から飛躍しなければならないのです

 筆者のブログに対する批判やご意見は大いに歓迎します。筆者の一方通行では張り合いがありません。しかし、どうか一つのブログシリーズだけを読んで「カッ」となって反論せずに(それも筆者には楽しいですが)、できればすべてのブログをお読みいただいてからペンを取ることを希望します。でないと、このようにシリーズを中断して説明しなければなりません。それも閑話休題として有意義ですが。

 今回、図らずもこれまでの筆者のブログシリーズの基本的狙いをまとめる形になりました。この記事をできるだけたくさんの人が読んで下さることを願っています。「同行さん」と筆者とどちらの言うことが正しいか、歴史が判定するでしょう。

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