歴史における偽書について

歴史における偽書について

 前回のブログ「良寛さんに対する疑問?」で、・・・水上勉は、良寛さんの「虚像」に対比させるために、「越佐草民宝鑑」に描かれた同時代の人、弥三郎の生涯について書いています(「蓑笠の人」新日本出版社)。弥三郎は、天明三年の越後大飢饉の時、百姓一揆に加わって佐渡に流され、地獄の水替労働に投げ込まれた人だと言います。しかし、「越佐草民宝鑑」は水上勉が創作した偽書だったのです。自ら創作した偽書に基づいて語るのは水上流の歴史小説作法であり、「拾椎実記」に基づく「城」(文芸春秋読者賞)も、「一休和尚実譜」に基づく「一休」(谷崎潤一郎賞)も、同じ手法で創作しています(「水上勉全集⑧「あとがき」)。たとえば「一休」には、・・・元禄年間の刊行物を原本に、大正時代の戯作者・清太夫なる人物が仮名交じり文に書き直した「一休和尚実譜」・・・この書ほど詳記している本をまだ知らない・・・とか、「越佐草民宝鑑」では、・・・弥三郎が死んだ文化八年頃に良寛はどうしていたであろう・・・と年月の確認までしていますからあきれます。

 筆者はこうした小説作法をトータルに否定するものではありません。40年以上前、辻邦生の「安土往還記」を読んで感動し、「安土城の瓦は緑だったと書かれていますが、私が旧跡で拾って来た瓦は普通の灰色でした」との手紙を書いたところ、親切にも返書をいただき、「『安土往還記』原本は、私が創作した架空の書です」とありました。それゆえ、水上や辻の作品の受け取り方は、それぞれの読者によればよいのでしょう。ただ、後になって「あれは偽書だった」とわかれば作品を読んでも興ざめするのではないでしょうか。正直に偽書と最初から書いたらどうなるでしょう。辻邦生の「安土往還記」も原本が偽書だとわかってからは、筆者は二度と読んでいません。

 一方、司馬遼太郎は講演の中で「歴史というものは存在しない。ある人が、事実の断片を自分の価値観に基づいてまとめたものだ」と言っています。独特の「司馬史観」の原点を表わす言葉として重要ですね。たしかに歴史資料と言っても、かならず著者の考えを通して書かれたものです。「歴史は勝者の立場で書かれており、都合の悪いことは省かれている」とはよく言われる言葉ですね。寺山修司が「歴史はすべて嘘である」と言っているのにも、一定の説得力はあります。水上勉の小説作法も「どうせ歴史的事実なるものもそういった類のものである」との立地点に基づいたものでしょう。しかし、たとえ当時の人によって書かれたものならば、例えば著者の考えを通したものであっても、事実のある側面はとらえているはずです。それゆえ、後世の人間が書いた偽書とは次元がちがいます。はっきりと一線を画すべきでしょう。

 筆者は生命科学の研究者として過ごして来ましたから、「偽書」などとうてい受け入れられません。文献を引用する時も必ず原典に当たり、データが正しいかどうか検証します。当然このブログシリーズを書く時にも同じ姿勢を通しています。

偽経

 禅の公案として有名な「拈華微笑(ねんげみしょう註1)」の原典とされてきた「大梵天王問仏決疑経」は、後世に中国で作られた偽経であることがわかっています。偽経とは、インド人以外の者が書いた経典を指します。そういう例は他にもあります。注意しなければなりません。

註1 ブッダが死を前にして、多くの弟子たちに蓮の花(華)を差し出したところ(拈)、ただ一人迦葉がにっこり笑ったので、迦葉を後継者としたエピソード。迦葉はその場にいなかったことが、初期仏典であるパーリ仏典を漢訳した「大般涅槃経」に書かれていることから、「大梵天王問仏決疑経」は偽経とされています。(「拈華微笑」の筆者の解釈は以前のブログで示してあります)。「大梵天王問仏決疑経」は、後代、中国の禅関係のだれかが重要な「拈華微笑」の公案を権威づけるために書いたとされています。

般若心経

 以前、「ヤフー質問箱」で、「般若心経の作者はだれですか」の質問に対し、ベストアンサーが、「もちろんブッダです」とあったのを見て吹き出しました。もちろんブッダが説いたものではなく、大乗経典の一つです。「般若心経」には、サンスクリット語(古代インド語)で書かれたものもありますが、最も古いものでも東京国立博物館所蔵・法隆寺貝葉本であり、ずっと後の7~8世紀の写本とされています。「般若心経」は、玄奘三蔵が、鳩摩羅什訳「魔訶般若波羅蜜経」などに基づいてまとめたものと言われています。1992年米国のジャン・ナティエ(Jan Nattier)により、玄奘三蔵がそれを逆にサンスクリット訳し、それがインドに伝わったという偽経説が出されました。ナティエの説に対しては反論も出されています。たしかに玄奘三蔵が漢訳したものをわざわざ元のサンスクリット語に訳す必然性はないはずです。反論もその点を難じています。

 筆者がいつも言いますように、龍樹の「空」思想と禅の「空」思想はまったく違います。そして、「般若心経」は、明らかに禅の「空」思想に則っています。達磨大師が禅思想を中国へもたらしたのは5世紀後半です。一方、玄奘三蔵が「般若心経」をまとめたのは7世紀半ばですから200年も後のことです。もちろん当時、禅の「空」思想は中国で確立していました。玄奘三蔵もそれを知っていたでしょう。やはり、通説のように、玄奘三蔵が鳩摩羅什訳「魔訶般若波羅蜜経」などに基づいてまとめたもので、サンスクリット訳は、他の誰かを通じてインドへ逆輸出されたものでしょう。前述の法隆寺貝葉本は、その写本の一つだと思われます。

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