大久保邦彦さんから次のコメントがありました。皆さんにも参考になると思います。
公案に興味があり拝読。本来の面目がわかれば、公案は不要です。曹洞禅をして40年、禅では答えが無く、ヨガ哲学でアートマン(註)を知り納得。私の本来の面目は神である。禅はインド哲学を学ぶ者にとって不親切と感じます。答えの無い問は初学者をただ苦しめませんか?苦しむのが修行でしょうか?
註 ヴェーダ信仰で言う個我のこと。神(ブラフマン)と一体化することを信仰の目的とする。
筆者の感想:とても適切なご意見だと思います。筆者も釈迦の思想よりも、それ以前のヴェーダ信仰の方に共感を覚えます。アートマンとブラフマンとの対比ですね。アートマンは魂と同義で、死後も消えないものとされています。釈迦はそういうものを否定しました。つまり、釈迦仏教はヴェーダ信仰の対立命題として成立したのです。ちなみにアートマンはヴェーダ信仰の概念で、ヨガ哲学とは別のものです。唯識瑜伽(ヨガ)行派はもちろん釈迦仏教の一宗派です。大久保さんは混同なさっているようです。
筆者は、禅で言う悟りの状態とは、「本当の我」と疎通し、それを通じて神と一体化することだと考えています(今までにも書いていますからご参照ください)。その意味でヴェーダ信仰と重なる部分があります。大久保さんは、「禅の答えのない問いは初学者をただ苦しませるだけではないか」とおっしゃっています。たしかに現代の禅宗派では、「それを良し」とし、形式的な(答えのない)問答を修行と考えているようにも見えます。しかし、誤解しないでください。公案にはすべて答えがあるのです。答えが無いように見えるのは、やはり初学者が未熟だからでしょう。過去の優れた禅師たちは、答えを言わずに修行僧に気付かせることに腐心しています。「公案集」に残るような禅師たちとはそういう人たちです。
失礼を承知の上でお尋ねします。大久保さんは、「ヨガ哲学でアートマンを知って納得」されたとき、奇跡が起こりましたか?頭でわかっただけではわかったことにならないのです。全身で理解した時、奇跡が起こります。高野山での厳しい修行(虚空蔵求聞持法。虚空蔵菩薩の真言を100日間で100万回唱える)が完成したかどうかは奇跡が起こったかどうかでわかると言います。奇跡が起こらなかったら初めからやり直さなければいけません。筆者はヨガ行の経験はありませんが、完成させるためには容易なことではないように思われます。禅の修行と同じですね。筆者が「わかった」と思ったのは禅を通じてです。筆者が、ヴェーダ信仰に共感を覚えつつ、禅を学び、修行を続けているのはそのためです。
筆者が展開していますのはヴェーダ信仰と旧来の禅解釈という対立したものを止揚させた新しい考え方です。