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禅の正しい修行-ルークルークさんへの回答


 (1)禅寺での修行

 読者のお一人ルークルークさんから「悟りへ至るまでの修行法を教えて下さい」とのご質問がありました。しかし、筆者は回答しませんでした。「答えを教えてください」と同じだからです。自分でさまざまな本を読み、いろいろ試して、判断しなければどうしようもないからです。ただ、お気持ちはわかりますので少し言い方を変えてお話します。

 まず、釈迦も道元も「僧侶になりなさい」と言っています。つまり、家庭を捨て、友人達とも別れ、仕事も辞め、修行だけの生活に入りなさいと言うのですね。その伝統は、現代にまで続き、永平寺(曹洞宗)、美濃加茂市正眼僧堂(臨済宗)、高野山金剛峰寺(真言宗)などで昔ながらの厳しい修行生活が行われています。また村上光照さんは、寺を持たず、「呼ばれた場所で(一所不在)」数人の弟子たちと共に修行三昧の日々を送っています(あの良寛さんが修行した、永平寺より厳しいと言われた岡山県倉敷市円通寺は、今は観光寺院になっています)。たとえば正眼僧堂では、朝3時起床から夜9時の就寝まで、日常生活のすべてが修行で、食べ物は托鉢と、近隣住民からの喜捨で賄われています。座禅や師家と弟子の問答はもちろん、作務(労働)、読経(声を出して唱える)、看経(黙読)から食事から托鉢に至るまで、事細かに作法が決められています。作家の中野孝次さんはそれらをトリビアリズム(瑣末主義)と呼びましたが、的を外れた表現で、別のちゃんとした理由があるのです。そういう生活を一生続けている禅師はたくさんいらっしゃいます。それほど厳しい修行生活が必要だと言うのでしょう。

 驚嘆すべきことですね。正眼僧堂の師家山川宗玄さんと弟子たちの修行の様子はNHKテレビでもくわしく紹介されました。しかし、筆者はもちろん、ルークルークさんがやりたくてもやれないことでしょう。

 ただ、筆者はそれらの修行にやや疑問を感じるところもあります。一生家庭を持たないで過ごす、映画は見ない、小説も読まず、趣味も持たない生活・・・テレビも見たことはないようです。筆者の疑問は、そういった一生を過ごせば、人間としての幅が極めて狭められると思うことです。それでは「自分とは何か」の、禅の最大の課題を究めるのに、あまりにもチャンネルが少なすぎるのではないでしょうか。・・・・・いかがでしょうか。さらに、筆者は、永平寺での禅問答をテレビで視聴したことがありますが、かなり形式に堕しているようでした。

 じつは筆者は、在家のままでも悟りに至ることはできると考えています(在家仏教-僧侶の資格を取り、自宅で修行-という言葉は好きではありませんが)・・・真摯に自分の義務を果たし、モノゴトにこだわらず、苦境に耐え、清貧を良しとし(ただ足るを知る:吾唯知足)、他人のことを自分のことのように考える一生を送った人はたくさんいます。すばらしい人たちでした。彼らは禅にも仏教にも興味を示しませんでしたが、そういう人たちと、厳しい修行で一生を送った人たちと、境地にどれだけの差があるのでしょうか。前述の、山川宗玄さんのお話を半年間にわてって聴きましたが、筆者にはどうもピンと来ませんでした。筆者が見聞きした知人たちの言動には感動するところが多かったのです。少なくとも、厳しい修行で一生を送った人より、周囲を明るくしたと思います。

 (次回に続きます) 

神仏の存在を信じない人は僧侶になるべきではない

岩村宗康さんとの対話-結語

 読者のお一人岩村宗康さんと筆者の2回にわたる対話をお読みいただいたと思います。岩村さんばかりを槍玉に挙げるのは本意ではありませんが、おそらく現代の僧侶の平均的考えでしょうから、取り上げさせて下さい。ちなみに、ここでは仏=神(宇宙の最高神)としてお話します。

 岩村さんは、筆者がブログで「生命は神(仏)によって造られた」言ったのに対し、

 ・・・確かに、自然現象は神秘的です。特に生命現象は本当に神秘的です。だからと言って、その神秘性を「神」で済まそうとするのは性急過ぎると思います。先生のお仲間の生命科学者達やその後継者達が必ず解明してくれると思っています。今は兎に角「神秘で不思議なコト」は「神秘で不思議なあるがまま」にして置きませんか・・・。

 結論からお話しします。仏(神)の存在を信じない人は僧侶などやるべきではありません。東日本大震災で、高台から津波に巻き込まれる人々を見て「神も仏もあるものか」と叫んだ浄土真宗の住職のことはすでにお話しました。異常な事態での発言でしょうが、本音だと思います。ちなみに、生命科学がいくら進歩しても神が生命を作られたことなど永遠にわかりません。ただ、直感で知るのみです。

 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教・・・どれをとっても「神」を信仰の根底にしています。いえ、いかなる宗教もその思想の根底に神を置くべきです。宗教とはそういうものなのです。どうして禅宗だけが例外であっていいでしょう。

 あの道元でさえ、

・・・(人の生き死にについては)ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行なはれて、これに従ひもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死をはなれ、仏となる(正法眼蔵・生死巻・・・

と言っています。「最後は仏様におまかせしよう」と言うのですね。

 一方、法然の浄土思想は、まさに仏(阿弥陀如来)に対する絶対的信頼の上で成り立っています。ただ、法然の言う阿弥陀如来は、最高神(仏)というより、もう少し下位の仏でしょう(神界にも階層があると言われています)。それにしても、法然の思想は、釈迦仏教の中でいかに革新的だったかおわかりいただけるでしょう。ブッダ以前のヴェーダ信仰と同じですね。岩村さんが「ヴェーダ信仰は虚論(けろん)である」と言ってるのは、あまりにもインド思想史を知らなさすぎます。岩村さんは仏教の古典をよく勉強していらっしゃますが・・・。なお、密教思想では大日如来を宇宙の最高神と考えていますが、いささか観念的的であるように思われます。

 多くの禅師は、「空」の正しい意味も知らずに法話をし、瞑想の危険性を知らずに座禅会をしているのではないかと思います。警策で「バシッ」と叩くのを単なる眠気覚ましと思っているのでは?あの役はかなり修行を積んだ禅僧にしかできないのです(いずれくわしくお話します)。

尊厳死?嘱託殺人?(3)

  昨年11月、重度のALS(筋萎縮性側索硬化症)の林優里さん(51)がSNSで知り合った二人の医師によって安楽死を遂げた。この問題について、スイスで合法的に安楽死を遂げた小島ミーナさんのケースと合わせて、2回にわたってこのブログで筆者の意見を述べました。最近、NHKでさらに2回にわたって特別番組が放映されました。林さんのブログを初め、同じALS患者、他の神経難病患者の考えに加え、生命倫理の専門家や一般女性の意見も述べられていました。きわめて大切な問題ですから再度筆者の意見を述べます。

 それを視聴して印象的だったのは、まず林さんの「言葉も話せなくなり、死にたいと思っても自分ではどうしようもなくなった時の恐怖」と「その前に安楽死も選べるんだとわかったとき、とても安心した」という言葉です。その他の人たちのコメントは、いつもどこかに論旨のすり替えがあったことです。以下、それらの言葉と筆者の感想です。

 生命倫理の専門家:あの状態を安楽死と呼べるのか。

 筆者の感想:小島ミーナさんは、自ら致死量の麻酔薬チューブを開けました。死に至る数分間、苦痛が取れたでしょう。そして「これで終われる」と安堵したはずです。林さんも麻酔薬によって亡くなりました。

 ALS患者(Oさん-1:安楽死の問題が議論されることが、私たちに圧力になってしまうことを知ってほしい。生死の問題は当人と家族だけが発言する権利があると思います。

筆者の感想:そのとおりですね。十分な配慮を持って議論されなければなりません。しかし、9年間も介護作業をしてきた女性が、「私の腕に爪を立てて『死なせてほしい』と何人の患者から頼まれたかわかりません」と言っているのをどう思いますか。その人たちのために議論しているのです。「当人と家族だけが発言する権利がある」と言っても、法の整備が行われない限り、安楽死を望む人の希望に応えることができません。そのためにも、十分な議論が必要なのです。第一、「これ以上誇りを捨ててまでして生きたくない」といているのはご本人なのです。

ALS患者(Oさん-2:自殺は人間だけの誇り高い特権だと言うのですか。自殺が可能なことで人間の尊厳が守られるということでしょうか。もし体が動かないことが尊厳を失うことなら、私は尊厳を失った人間です。

 筆者の感想:そんなことは誰も言っていません。あなたは生きたいと思っているのですから、それも尊いことです。国や周囲の最大限の援助を受けて生きてください。しかし、あなたは人間の尊厳という言葉をすり替えています。「安楽死により人間の尊厳を保ちたい」と言っている人は、「排泄さえも他人の世話にならなければならない生を送ることで人間としての尊厳を保てるのか」と考えているのです。そういう人たちが安楽死できる法を作ってあげるべきだと思うのです。小島ミーナさんは進行した同じ病気の患者が呼吸も、食事も排泄もできず、意思も伝達できずに生きているのを見て、安楽死を決断したのです。

・・・・

 難病の息子を持つ女性の言葉:安楽死が認められているオランダの医師(自らも法案の通過に協力した)は、「安楽死の対象疾患が広がってしまってとても後悔している。後から続く国々はこの轍を踏まないでほしい」

 筆者の感想:そのとおりですね。判断は慎重の上にも慎重になされなくてはなりません。スイスでの判断は複数の医師の合議によってなされます。さらに、最後の申し出があってからさらに「今からでも気持ちを変えられますよ」と、さらに2日間の猶予をあたえました。

 2人の医師は、嘱託殺人事件犯人として起訴されました。安楽死が認められていない日本ではそれ以外の方法はなかったのです。筆者には彼らは犯罪者とは思えません。

誇り高い人生、誇り高い死

 先日、筆者の集合住宅の上の階のお年寄りAさん(89歳)が亡くなられました。40年来、家族ぐるみで親しくお付き合いさせていただいた人です。20年ほど前に奥様を亡くされてから、近所に住む息子さんが同じマンションに別の部屋を購入したにもかかわらず、「住み慣れたところが良いから」と、一人暮らしをしてこられました。

 長く公務員をしていた人で、おだやかで良識ある紳士でした。文字通り隣人ですし、筆者の家内は地区委員をしていますので、ことに注意を払ってきました。地区委員の業務には厳しい規制があり、相手の方の部屋に入ることはできません。しかし、たとえば先日の「給付金の手続きの仕方がわからない」時など、部屋に入らざるを得ません。そのためいつも筆者が同行し、ご近所として、お手伝いをしてきました。そんなときにも「1時間○○円の契約で」とおっしゃるのです。「ゴミくらい一緒に出しますから」と言ってもあくまでご自分で出しに行かれました。「誰か、一日○○円で手伝ってくれる人はいないだろうか」などなど。このように人の厚意に甘えるということが一切ない、誇り高い人でした。

 毎週2回ケアマネージャーさんが、来られ、看護師の方も見回りに来ていました。さらに、土曜日にはデイサービスに行き、一日楽しく過ごすなど、日常生活には一応支障はなかったようです。もちろんそれらは有料です。ただ、何分高齢のため、身体的にも衰えが目立ち、ことに、先日お話した時には「朝と、夕方の区別がつかないことがあった」とか、「エアコンの操作の仕方がわからない」など、認知症の症状も出始めたと自覚していらっしゃいました。

 先日のその日は、突然ケアマネージャーさんが我が家の「ピンポーン」をされました。「Aさんの呼び鈴を鳴らしても応答がない」と。家内と相談の上、息子さんに連絡してドアを開けてみたところ・・・。1日前に看護師さんが来て「どこにも異常はない」との報告でしたから、まさに大往生と言うべきでしょう。何しろ入院さえしたことはなかった人ですから。

 このように、Aさんはまことに爽やかに、人の情けにすがることなく、自分の人生を生き切った人だと思います。家内とも話しましたが、「あの誇り高い生き方が、あのすばらしい死に方につながった」と思います。どんな死に方になるかは天命に従うしかありませんが、どんな生き方をするかは私たちも見習うことができますね。

禅と神(仏)筆者の基本的考え(2)

 岩村宗康さんの考えに対する筆者の回答(2)
 前回から続きます。「岩村さんご自身が、
諸法実相
の意味をわかっていない」と筆者が言いました。諸法実相とは、「すべてのものが仏の姿の表れてである」という意味です。つまり、岩村さんはそれに気づかずに、この言葉を使っているのです。
 道元や臨済がそれぞれの思想の根底に仏(神)を置いていることの例証はすでに述べました。
岩村さんは次のようにも言っています。
・・・現成公案底が「既成の事実」だからこそ「水空を行く魚鳥は、水を究めず空を究めざれども、処を得て行履(あんり)自ずから現成公案し、道を得て行履自ずから現成公案である」と言い得ると思います。「体験して初めて現成する」と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう。その挙げ句が「眼横鼻直」だと思います。殆どの人は、魚や鳥と同じように処と道に迷ったことがないから「既成の事実」に気付かず「眼横鼻直」も知らないと思います・・・。
 すなわち岩村さんは、現成公案が「既成の事実」であることの根拠として、「魚、水をゆくに、行けども水のきはなく、鳥、空を飛ぶに、飛ぶと言へども空のきはなし。しかあれども、魚・鳥いまだ昔より水・空をはなれず。只(ただ)用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭(ずず)に邊際(へんざい)を尽くさずといふ事なく、處處(しょしょ)に踏翻(とうほん)せずと言ふことなしと言へども、鳥もし空を出づればたちまちに死す。魚もし水を出づればたちまちに死す」を挙げています。(これも正法眼蔵現成公案編にあります:筆者)。

 しかし、この一節もやはり「体験が重要である」と言っているのです。「鳥が空という体験の外へ出れば、魚が水という体験の世界を出てしまえば死ぬ」と。人間も体験の世界を出れば真に生きることにならないのです。「体験」とは「空(くう)」です。
 改めて道元のこの文章を読んでみますと新鮮な感動を憶えます。道元は、じつに巧みに答えそのものを書かず、ヒントを挙げているのです。わかる人にしかわからないように表現しているのです。岩村さんは、まさにそれに引っかかっています。「『体験して初めて現成する』と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう」と言うのには唖然とします。すべての人間にとって大切なことだからです。

 公安集を読めば、唐や宋師代の師と修行僧たちの未知のための真摯でひたむきな姿勢がよくわかります。「香厳撃竹」の故事を読んでください。
岩村さん、「神になってしまった塾長に逆らった愚かな人間の間違いがハッキリしました
」などと感情的になってどうするのですか。

追記:Huさんなら、筆者と岩村さんとのこの一連のやり取りの内容を理解して下さるでしょう。