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ガンになった緩和ケア医

 (NHKハートネットTV「ガンになった緩和ケア医-親子の日々」から)

 関本剛(ごう)さん(44)は神戸にある関本クリニックの医師。同じ医師のお母さんの雅子さん(71)と共に、末期ガン患者の心や体の苦痛を和らげる仕事をしています。患者の最後を看取ることも少なくない。とくに雅子さんは緩和ケアの日本の草分け的存在として、これまで3000人の患者を看取ったという。剛さんは2019年10月、咳が止まらないことことから「なんの気なしに」CT検査(X線断層)をしたところ重症の肺ガンが見つかった。一瞬、頭が真っ白になった。「すぐ精密検査をしてくれるところへ行かないと」。MRI(核磁気共鳴)で調べたところ、脳幹や小脳にも転移していることが分かった。「脳幹は生命の根幹にかかわる場所で、もう絶望しかなかった」「あと2年の命です」と主治医の言葉。

 2020年10月からNHKテレビの取材が入り、丸1年間剛さんの心とからだの変化を追った。雅子さんは、たくさんの同じような患者を診てきているので、「そのような患者が置かれている厳しい現実が剛さん自身と重なった」と言う。それからの剛さんの生きる姿勢が尊い。趣味のスキーや楽器演奏を楽しみ、「最後まで良い人生だったと言って生きて行きたい。そうしないと負けた人生になったような気がする」。雅子さん「亡くなるのは仕方がないけど、最後まで彼らしく生きて行ってくれたら」。雅子さんの心配は、ガン患者には最後に人格が破壊されてしまう人もいること。中にはせん妄状態になって、他人を激しくののしったり、あらぬことを口走ったりする人もいる。剛さんが子供のことを分からなくなったり、「今まですてきなお父さんだったのに、全然そうではなくなってしまったら・・・・」。剛さん「(テレビの取材が入って)自分がそれにふさわしい人間かどうか、恥じる気持ちはあるけど、一人でもポジテイブな気分になってくれたら」と、今までと変わらず患者ときっちり向き合ってきた。雅子さん「自分が患者であるからこそ、患者の気持ちに入って行けるのでしょう。緩和ケア医として立派だと思います」。運動を司る小脳にも転移がある剛さんは、趣味のトランペット演奏もママならなくなっていった・・・・。本人は「長生きするばかりが人生ではない・・・・」。剛さん「あと1~2ヶ月で、自分の古くからの患者を、ちゃんと次の医者に受け継いでもらえる体制を作ります」・・・・。

筆者のコメント:率直に言って、筆者にはここまでは「きれいごと過ぎる」ような気がしました。これでは実際の末期ガンの人たちが「お手本」にすることは難しいと思うからです。しかし、最後に雅子さんの「『世の中のためになるような生き方をしなさい』と育ててきたのに・・・・と何日も号泣しました」・・・・・。このように正直に言っていただいた方がむしろ他の人の励みになるのではないでしょうか。

 取材は2021年10月25日で終わっています。「?」と思いネットで調べてみますと、剛さんはその半年後、2022年4月に亡くなっていました。もちろん剛さんの生き方は末期ガン患者として立派でした。多くの同じような患者の参考になるでしょう。それにしても、現代のマスコミはここまでリアルに重症患者の生き方を追うようになったのか!残酷過ぎるのではないでしょうか。

自利か利他か1,2)

 自未得度先度他
 意味:自分は彼岸にいかなくても他の人をまず彼岸に渡してあげなさい

1)大乗仏教の基本的な考え方ですね。そもそも大乗仏教が起こったのは、それまでの部派仏教の修行者たちが、あまりにも自分たちの悟り(自利)に一所懸命だったことへの反発からだったのですから当然でしょう。自未得度先度他(他利)は、もとは涅槃経にある言葉ですが、無量寿経の精神も全く同じです。いずれも代表的な大乗経典で、有名な弥陀の四十八願がそれです。たとえばその第十八願は、

・・・わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません(以下略)・・・・です。

 道元も「正法眼蔵・発菩提心巻」でも取り上げています。その第三節で、

・・・・発心とは、はじめて自未得度先度侘(他)の心を起こすなり。これを初発菩提心と言ふ。この心を起すより後、さらにそこばくの諸仏に逢ひ奉まつり、供養し奉まつるに、見仏聞法し、さらに菩提心を起業す、雪上加霜なり。衆生を利益すと言うは、衆生をして自未得度先度侘の心を起こさしむるなり。自未得度先度侘(他)の心を起せる力によりて、われ仏にならんと思ふべからず。たとひ仏になるべき功徳熟して、円満すべしと言ふとも、なほ廻らして衆生の成仏得道に回向するなり。この心われにあらず、侘(他)にあらず、きたるにあらずといへども、この発心よりのち、大地を挙すればみな黄金となり、大海を掻けばたちまち甘露となる。

筆者簡訳:発心(菩提心を起こす)とは、初めて自未得度先度他(自らが悟りの彼岸へ渡る前に、先ず他を渡す)の心を起こすことだ。この心を起こしてから、さらに多くの仏たちにお会いしておもてなしし、法を聞いて利他の心を堅固にするのだ。(しかし)他人を先に彼岸へ渡すことを、自分が仏になる手段としてはいけない。たとえもう少しで仏になれるところまで行ったとしても、なお他人を助けるべきだ。こういう尊い心は自分のものでも他人のものでもない・・・・。

筆者のコメント:筆者はこの文章を初めて読んだとき、道元の思想とはあまりにもかけ離れていることに驚きました。上記のように、道元ははっきりと「自利より利他を優先すべきだ」と言っているのですから。私たちがイメージする道元の修行に対する心構えは、「出家をして修行に専心しなければならない」と言うほど厳しいものだったはずです。あの冬の寒さには格別なものがある、福井県永平寺を修行の場としたのもその姿勢からでしょう。つまり、まず自分が悟ることを第一にしてきた(自利)はずです。それがここでは一転して、「自分よりまず他人を(利他)」と言うのですから。この問題は多くの曹洞宗の仏教家も悩ませたようで、現代の曹洞宗派の内部でも、激しい論争がありました。袴田憲昭、角田泰隆、石井清純、星俊道さんなどによるもので、概要は、「道元禅師における『自未得度先度他』について」 印度仏教学研究第48巻1号p107(平成11年12月)に書かれています。「道元の思想が変わったかどうか」に関わる重要な問題だからでしょう。

2)

 じつは自利を優先するか、その前に利他をすべきかは、大乗仏教が始まった当初からの課題でした。上記のように、大乗仏教は、それまでの部派仏教徒が、あまりにも自分が悟ることを目指していることへの反発から起こりました。しかし、「自分が悟っていないのに他人を悟らせることができるか」という原理的な問題があるのは当然です。そこで、「自利と利他のバランスを取る」という折衷案も生まれたのです。初期大乗経典類の般若経典類の一つ「八千顛(はっせんじゅ)般若経」がそれです。

 こういう歴史があったので、道元がこの問題を取り上げたのはむしろ当然でしょう。前記のように道元は「あくまでも利他は重要だ」としています。しかし、筆者には道元の言葉とは思えません。なによりも道元の宗派は一切、衆生済度の活動などしていませんから(鎌倉幕府の北条氏に招かれて講演したのは、とても衆生済度とは言えないでしょう)。真意は別にあると思います。

 それにしても、駒沢大学の人たちはもちろん、それ以前の、インドの大乗仏教の研究者たちは、この問題をあくまでも過去の経典類を基に解決しようとしました。じつはそれこそが大問題なのです。ちなみにこれら大乗経典類にはどれにも「釈尊がこう言われた」とありますが、もちろんその後にインドの哲学者の創作です。つまり、こういう問題は、頭で考えてはいけないことなのです。

 筆者はもちろん自未得度先度他を知っていました。しかし、最近この言葉の本当の意味がわかったようです。先日、急な予定が入り、いつもの40~50分間の座禅・瞑想の時間に食い込みそうになったのです。その後のボランテイア活動もしなければなりません。「座禅の時間を減らそうか」と考えた時、「パッ」と「座禅もボランテイア活動も同じ修行だ」という考えが浮かんだのです。筆者が、これまでの仏教研究者とは異なり、実際の修行を通して得たことが重要だと思います。道元も実体験から導き出したのだと思います。いかがでしょうか。

悟ると奇跡が起きる

 筆者はこれまでに、「禅の要諦は、1)こだわりを捨てる。2)概念の固定化を避ける。3)価値判断をしない。・・・・」と言って来ました。筆者の畏友で熱心にブログを読んでいただいている人が「もっとやさしく」とくり返すものですからそう言ったのです。最近、「4)諦観もその一つ」と言いましたら、「本当に悟りに至った人など現代にもいるのか」と疑問を呈せられました。しっかり心に留めておいていただきたいのは、それらはあくまでもエッセンスであって、「悟り」とは別です。

 現代の、ある名の知られた仏教学者が「・・・・私にとって早朝座禅は、ほとんど雑念妄想と遊びたわむれる時間になっている。いや、無念無想の時間でなければならぬと錯覚(太字筆者。以下同じ)していた時期もあったが、その誤りに気づいてからは気分が晴れた。雑念妄想によってこそ、思考の創造的飛躍は準備されると悟ったからである・・・・むろんそれは、まだ生悟りのままだ。さればいたし方もない。今度は外界を歩きに歩いて、この雑念妄想の網目に亀裂を入れ筋道をつけることで、ひそかにひとり仕事の新展開をはかるのみである・・・・と、よくわからない論理で早朝5分(!)の座禅を勧めています。もちろんそれは生悟りでしょう。

 本当に悟りに至ったかどうかは、奇跡が起こったかどうかです。前にも紹介しましたが、あの高野山には、選ばれた修行者だけが許される悟りのための特別な修法があります。虚空蔵求聞持法と言い、〈虚空蔵菩薩の真言〉という短い真言を1日1万回なら100日、2万回ずつなら50日間、つまり都合100万回唱えるというものです。空海が土佐の御厨人窟(みくろど)で行った修法と同じです。1日2万回真言を唱えるということがどれほど大変なことか!やってみればわかります。食事やトイレの時間を除いて8時間もかかるのです。しかも、もしやり遂げたと思っても奇跡が起こらなければ失敗で、また1からやり直さなくてはならないのです。これまでたくさんの修行僧が挑戦しましたが、成功したのはわずかに数人でした。それは成功者だけが納める感謝のお札の数からわかります。このように、悟りには「生悟り」とか、「悟ったと思う」はありません。はっきりと自分でわかるのです。

 じつは、頂きに達するには別の道もあります。筆者はそれを実践しました。そして確かに「さまざまなふしぎなこと」が起こりました。

立花隆さんの死生観1‐3)

 (NHKスペシャル「見えた。何が。永遠が」より)

 1)「知の巨人」と言われた立花さんが2021年4月30日に亡くなりました。81歳で、死因は膀胱ガンでした。おそらくヘビースモーカーだったことが原因でしょう。ガンであることが確定してから、一切の治療、それどころか検査さえ拒否して。「戒名も葬式も墓も無用。死体はゴミとして捨ててくれ。(20万冊から30万冊と言われた)蔵書のすべてを死後絶対に処分してほしい」との遺言を残して。つまり自分の死後は一切を無にしてくれという意味です。この番組は、最後の17年間身近にいたNHKデイレクターの岡田さんが、立花さんがこのすさまじい信念を持つに至った思想の遍歴を辿ったものです(「葬式、戒名、墓不要」は特に珍しいケースではありませんが)。

 立花さんの生涯を通じての思索のテーマは、「人間とは何か。どこから来てどこへ行くのか」だったのは衆知のとおりです。とくに後半は「死んだらどうなるのか」でした。もちろん死はすべての人間にとって最大の課題でしょう。しかし大部分の人はそれを意識していません。死んだらどうなるのか・・・ことさらそれを考えないようにしている人もいるでしょう。メメント・モリ(「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」)という言葉は、そういう人に対する警告として伝えられてきました。立花さんは、じっさいにホスピス(末期ガン患者のためのターミナルケアを行う場所)まで出かけ、患者の生の言葉を聞きました。

 患者「そのときは家族や周囲の人たちに「ただありがとう、さようなら」というつもりです。それができれば幸せです」・・・・立花さんはこれらの言葉を聞いて、「人間はお互いに支えあって生きている」ことを改めて自覚し、後述するような「人間とはなにか」という重要なテーマの結論を導き出します。そして「人間は死すべき運命にある。しかしそれを自覚したとたんその運命を乗り越えることができるのではないか」と言っています。

 立花さん「人間が死を恐れるのは、人が死ぬということはどういうことなのか。人の心は死ぬ時どうなるか。だれ一人確実な知識を持ってない。それゆえ死を考える手掛かりはないからだ。つまり、死ぬとき何があるのかは死ぬまでわからない。だから死が怖いのだ」。

 立花さんが、基本的テーマ「人間は(どこから来て)どこへ行くのか」を尋ねる入口としたのは、「死後の世界はあるか」「霊は存在するか」「意識というものは残るか」でした。そして、死後の世界の有無を知る手掛かりとして選んだのが臨死体験でした。死んで甦った人など一人もないので当然ですね。そこで臨死体験を科学的に証明できるかどうかを世界中の研究者に聞いて回りました。立花さんはさらに多くの臨死体験者自身の話を聞きました。日本人だけで300人を超えたと言いますからすごいですね。その結果、「臨死体験というのは体験者しかない。それらは本人にとってはリアルであろうが、他の人に伝達できる客観的な証拠はない」と結論したのです。さらに、立花さんはアメリカの学者が脳に弱い電流を流すと臨死体験ができると聞けば、わざわざそこまで出かけて自ら被験者になったのですからすごい(「何も感じなかった」と言ってましたが)。

 そしてこれらの調査と思索の結果を総合して、「(多くの人々は)死後の世界の存在を証明する科学的根拠はなく、死んだら物質的には無に帰る」とか、「霊界といったものはない。死んだらゴミになる。意識なんてものも全く残らないと考える。・・・これが一つの唯物論的な考えで、そうでないと考える人たちもいますが、これは微妙なところです」と言っています。つまり、立花さん自身が納得できる証拠は得られなかったのですが、どうも歯切れが悪いのです。しかし別のところで、「私はこの問題は卒業した」と言っています。

筆者のコメント:筆者は立花さんには及ぶべくもありませんが、目に見えない世界や霊的世界があることは何度も実体験していますから、この問題に関しては立花さんの限界を超えたと思っています。

2)では立花さんは人間というものをどう位置付けたのか。「見えた。何が。永遠が」とはどういうことなのか。立花さんはホスピスで死を間近にした女性の「そのときは家族や周囲の方に『ありがとう。さようなら』と言ってお別れします。それができれば幸せです。」の言葉に大きな衝撃を受けたと思います。そして、人間の限りある命は単独であるわけではなく、いくつもの限りある命に支えられて、限りある時間を過ごしている。それは命連環体という大きな輪の一部である。そういう連環体が連なって大きな生命の連環体を成している。そういの生命の連環体がつながってきたのが人類の歴史だ」と結論したのだと思います。つまり、人間一人一人の「今」とは「永遠の一部」なのだということでしょう。まさに禅の心なのです。

 立花さんはまた、現代社会における最大の問題は、あらゆる知識がどんどん細分化され、断片化してきていることだ。ありとあらゆる専門家が、じつは断片のことしか知らない。綜合的にはモノを知らない」と言っています。「100冊読んで1冊書く、というのでなくては良いものは書けない」と言っています。20万冊とも30万冊と言われる蔵書の持ち主手あり、私は「勉強家だ」と言った立花さんの言葉だけに重いですね。筆者はこの言葉を聞いて、「まったくその通りだ」と思いました。最近、コロナ問題やウクライナ問題など、何か問題が起こると、すぐに次から次へと「専門家」が出てきます。しかし、彼らの言うことはすべてトンチンカンだと思うのです。「コロナ問題」が起こり、2019年2月に、小中学校を一斉休校とする指導が出たとき、筆者はすぐ、「まちがっている。これは季節性インフルエンザの一亜種に過ぎない。マスコミが騒ぎ、それに踊らされた庶民が騒ぎ、でどんどんエスカレートして行く。パンデミックなどにはならない」と投書しました。日本医師会の尾身会長と、西村担当大臣が連日マスコミに顔を出していましたね。どれだけ多くの飲食産業や旅行業界が壊滅的な被害を受けたことか。使った国家予算も80兆円を越えています。筆者は臨床医ではありませんが、40年間の研究生活のほとんどを医学の研究に携わってきました。その結果、病気というものを「全体として観る」ようになったと思います。その目で観ると、ウイルス感染症の専門家の言っていることにはいつも違和感を感じていたのです。菅元総理が「尾身を黙らせろ」と言ったとか。筆者も同感なのです。それだけに、立花さんのこの言葉を「そのとおりだ」と思います。

 3)知の巨人、知に敗れる

 立花さんは前述のように膀胱ガンで亡くなりました。立花さんはガンであることが分かると、例によってガンについて猛勉強をし、海外の有名学者にまで聞きに行きました。あらかじめ「自分のガンを直す方法について調べることは絶対にしない」と岡田デイレクターに言ったとか。「さまざまな調査をした結果、ガンというものは人間の生命活動と不可分であることがわかった」と言います(たとえば、人間の免疫細胞がガン細胞の増殖を促進することもあるのです:筆者注)。つまり「ガンは半分はエイリアンで、半分は正常な組織だ」と。そして立花さんは後に行った講演で、「ガンになれば100%死にます。だからQOL(人間としての生活の質)を下げてまでして、あと少し寿命を延ばそうとは思いません」と言っています。そしてすべての治療や検査を断って逝きました。

 立花さんは有名人でしたから、生前の取材や講演活動の映像はたくさん残されています。それを見ますと、それらの多くでタバコを吸っています。つまり、立花さんは、少しでも健康に注意する人なら避けるタブーを犯しているのです。

 その立花さんがガンになるとガンについて精力的に調べたのはさすがだと思います。しかし、ガン研究者としての筆者から見れば、立花さんは明らかにまちがった結論をしているのです。筆者はガンが治った実例を知っています。つまり、「ガンに罹れば100%死ぬ」のではないのです。たとえ1%でも立派に回復する人はいるのです。立花さんは「私は勉強家だ」と言っています。そのとおりですが、勉強して得たこと、頭だけで考えたことだけでは正しくガンというものを理解できないのです。実際に多くの患者を診れば病態が一人一人異なることがわかります。そういう経験を積み重ねると、ある種の、ガンというものについての感触が得られます。どんな病気についてでもそうでしょう。頭で考える人には決して得られないものです。この感触が重要なのです。「立花さんは知の巨人であるがゆえに知に負けた」と筆者が言うのはこういうことです。

臨床宗教師3)

 筆者のもとへときどき「臨床宗教師になりたい」と言ってくる人がいます。結論からお話します。臨床宗教師として生活できている人はごくわずかですぜひ慎重にお考え下さい。現在、僧侶がいる病院として、ビハーラ病棟のある長岡西病院、在宅型ホスピス「メディカルシェアハウス・アミターバ」(岐阜県大垣市笠木町の沼口医院の敷地内)などがあります。これらの施設では給料がもらえます。しかし他の大部分の、現在の臨床宗教師としての活動の実態は大部分がボランテイアなのです。生活として成り立たないからで、当然でしょう。筆者の知っているケースでは、僧侶として自分の寺を持ち、それに加えて臨床宗教師としての活動をしています。つまり、ちゃんとした生活の基盤が別にあるのです。

 臨床宗教師養成講座は、現在、大谷大学、龍谷大学、上智大学、種智院大学、武蔵野大学、東北大学などにあります。このように養成講座の多くは仏教系です。しかしそれらの講座の内容を垣間見て、良いところだけを謳い文句にして、生活もできない人たちを次々に養成しているのではないか、と筆者は疑問を感じています(註1)。

 仏教系の臨床宗教師問題には、「死を恐れている患者さんもいる病院にお坊さんが出入りするのはいやだ」という声があります。よくわかりますね。さらに、筆者がこのブログでくり返してお話ししているように、現代の仏教家のほとんどは仏教そのものがわかっていないと思います。わかっていない人が死という重要な問題に口を出せるはずがありませんね。

 じつは、キリスト教には古くからチャプレンという、同じような制度があります。さらにグリーフケアという組織もあります。グリーフケアとは、たとえば末期ガンで不安に襲われている人や、大切な人を亡くし、悲嘆(グリーフ)に暮れている遺族の心のケアをするための組織です。上智大学にはそのための研究所もあります。ご承知のように上智大学はキリスト教系の大学ですから、グリーフケアの内容はキリスト教の教えが中心になっています。しかし、患者に応じて宗教色を薄くする場合もあるようです。つまりキリスト教の教えとは離れて患者や遺族の悲嘆そのものに向き合っているところに、臨床宗教師より幅の広さがあると思います。一方、「千の花」のような民間団体もあります。「千の花」では、大山理恵さんがスピリチュアル系のカウンセリングをしていらっしゃいます(註2)。

註1 浄土真宗本願寺派が、運営していた独立型緩和ケア病棟「あそかビハーラ病院」(京都府城陽市)からの撤退を表明しました。 問題が大きかったからでしょう。

註2 他の組織としては「遺族外来・家族ケア外来・グリーフケア外来・遺族会のある病院リスト」をネットでご覧ください。